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伝道者の書のデボーション

悪に触れる世界での信仰

私たちが悪に満ちた世界に存在していることを否定することはできないでしょう。悪に触れない人は誰もいません。でも、悪に直面したら、どうすれば良いでしょうか。

今日の箇所では、私たちは三つの答えを見つけます。

1.この世の悪の理由を知るために、脳みそを絞ってはいけません。前回の記事でも言いましたが、イエス様以外では、ソロモンは最も賢明な人なのに、すべての悪の理由を知ることができませんでした。私たちも知ることができません。(伝導者の書8:16ー17)

2.神様が最終的に正義をもたらすことを信じましょう。(12ー13節)

この世で、正義を見ることができないかもしれません。(10ー11節)

でも、神様は良い方で、最終的に、全地をさばくお方は、公正を行います。(創世記18:25)

3.神様の知恵を求めましょう。

この世では、相手を傷つける力を持っている人々がいます。(9節)

私たちはクリスチャンかもしれませんが、人々に決して傷つけられないとは限りません。だから、どうすれば良いかを考えるとき、神様の知恵を求めるべきです。

私たちはいつ正義を求めるべきでしょうか。私たちはいつ相手にあわれみと恵みを与えるべきでしょうか。私たちはいつ、ただ正義を神様の手に委ねるべきでしょうか。その疑問に答えるために、私たちには神様の知恵が必要です。

だから、ソロモンはこう言いました。

知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。(5-6節)

4.喜ぶことを選びましょう。(15節)

いつも自分のトラブルに集中するなら、私たちは絶望の落とし穴に落ちてしまいます。でも、主は近いです。主は良い方です。だから、苦しみのとき、主とその慈しみに集中しましょう。

また、私たちの重荷を主に委ねるとき、神様が今までしてくださったことを感謝することを忘れないようにしましょう。

そうするにつれて、この世の悪に触れても、私たちは神様の平和を知ることになります。(ピリピ4:6ー7)

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詩篇

悪からお救いください

そろそろ、詩篇の学びを終えると思います。これまで4か月ほどかかり、あと2週間ほどかかると思います。

とにかく、詩篇140篇を読むとき、私は主の祈りを思い出します。

イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えました。

悪からお救いください。(マタイ6:13)

この詩篇では、ダビデはそのように祈りました。実は、141篇から144篇まで、ダビデはそのように祈りました。

おそらく、ダビデがサウルかアブサロムから逃げたときに、この詩篇を書いたと思います。彼はこう祈った。

主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。

彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。

蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ

主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。

高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。(詩篇140:1-5)

ダビデは本当に大変な状況に陥っていたようです。人々が彼を殺そうとしたので、彼は何度も「私を敵から助け出してください」、「私を守ってください」と祈りました。

けれども、彼のトラブルの中で、私たちは神様に対するダビデの信仰を見ることができます。彼は祈りました。

私は主に申し上げます。「あなたは私の神。」(6)

また、

私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。 (7)

そして、ダビデは神様が正義によって敵を裁くように祈りました。その後、彼はこう祈りました。

私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。

まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。(12-13)

あなたはダビデのように試練を経験しているかもしれません。周りの人々はなぜかあなたを憎み、あなたを倒そうとしているかもしれません。

しかし、ダビデのように、その問題を神様に任せてください。正義を神様の手に委ねてください。そして、ダビデのように、私たちの敵に憐れみを与えてください。

あなたが今、攻撃されていないかもしれませんが、私たちが霊的な戦いに入っていることを覚えていてください。私たちに対する悪意を持つ霊的な力があり、彼らは私たちを滅ぼしたがっています。

イエス様はそれを知っていたので、私たちに「悪からお救いください」という祈りを教えてくださいました。

だから、私たちはそのように祈るべきです。私たちは壊れた世界に住み、私たちの周りにはたくさんの壊れた人々がいます。サタンはまだこの世にいて、機会があれば私たちを攻撃します。

だから、目を覚まして祈りましょう。

しかし、自分自身を守るだけでなく、サタンの国を攻撃してください。人間は私たちの敵ではありません。サタンは私たちの敵です。だから、神様がこの世の民を救い出すように、福音を宣べ伝えてください。

私たちに与えられた鎧は私たちの背中を守るためではなく、私たちの前を守るためであることを覚えていてください。

だから、神様について行って、前進してください。

古い讃美歌があります。日本語のタイトルは「見よや十字架」のですが、英語はちょっと違います。英語ではこう書いてあります。

クリスチャンの兵隊たちよ。
戦うために行進せよ。
イエス様の十字架は私たちの旗で、
その旗についていく。

キリストは私たちの王、私たちの主。
キリストは敵を戦うのに私たちを導いておられる。

その戦いに行進せよ。
キリストの旗を見て、戦おう。

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詩篇

私たちの周りの悪によって怒られる

どれほどあなたは周りの悪によって怒るでしょうか。

詩人はそれを見て、本当に怒りました。彼は何を見たのでしょうか。偽りの唇。欺きの舌。平和を憎む人。戦いを望む人。

だから、詩人は呻きました。

ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。(詩篇120:5)

メシェク人とケダル人たちは放浪の部族で、彼らは周りの人々を攻撃しました。

この詩人が彼らの間に住んだのか、それともそのような人々の間に住んだのかは、私は分かりません。

けれども、興味深いことは、この詩篇が都上りの歌であることです。つまり、人々がエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌いました。

なぜ、彼らが神様に心を向け、礼拝するときに、このような歌を歌ったのでしょうか。あなたはそれがちょっと不思議だと思うかもしれません。しかし、私はそんなに不思議だとは思いません。

なぜなら、私たちの人生はいつも楽しいわけではないからです。私たちがこの世界を見るとき、落ち込むのは簡単なことです。

そのとき、私たちは神様がどこにおられるのかと思うかもしれません。また、神様が何かをしておられるのかと思うかもしれません。

けれども、詩人が神様に向かうとき、自分自身に思い出させます。「神様はいつか正義によって治めてくださるから、すべてのことは大丈夫。」

だから、彼はこう書きました。

欺きの舌よ。おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるのか。

勇士の鋭い矢、それに、えにしだの熱い炭火だ。(3-4)

だから、テレビのニュースを見るとき、がっかりしないでください。神様が良い方で、正義の方であることを覚えておきましょう。

そして、この世の悪に焦点を当てずに、全てを解決してくださる神を仰ぎましょう。

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詩篇

悪からお救いください

詩篇83篇を読むとき、私は主の祈りについて考えます。つまり、「悪からお救いください」という願いです。(マタイ6:13)

この詩篇では、イスラエルは周りの国々に脅かされました。だから、詩人は叫びます。

神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。

今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。

彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。

彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」(詩篇83:1-4)

そして、詩人はイスラエルを襲う国々の名前をリストアップします。けれども、その後で、彼は神様が以前イスラエルをどのように救い出してくださったかを思い出します。

その敵からの救いを願った後、彼は祈ります。

こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。(18)

周りの国々はあなたを襲わないかもしれませんが、あなたを憎む人がいるかもしれません。

また、エペソ人への手紙で、パウロは私たちを襲う霊的な力があると警告します。時々悪霊は人を通して、私たちを物理的に、感情的に、また霊的に襲います。

しかし、覚えておきましょう。神様は全地の上におられるいと高き方です。神様はすべてをコントロールしておられます。だから、攻撃されるなら、神様に向かいましょう。

今攻撃されていなくても、神様の守りを祈った方が良いです。なぜなら、神様に従うなら、結局サタンはそれに気づいて、あなたを攻撃し始めるからです。

もし、イエス様が「悪からお救いください」と祈りなさいと言われたら、そうするべきでしょう。

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詩篇

不義を見る時

裁判官が有罪の人を自由にさせるのを見ると、私たちは皆フラストレーションを感じると思います。

もしかしたら、警察や検事のミスによって、その被告は解放されたのかもしれません。または、堕落した裁判官や陪審員のため、その被告が解放されたのかもしれません。

だから私たちは怒って叫びます。

しかし、こんな問題は新しいものではありません。詩篇58篇では、ダビデは同じ問題について嘆いています。

力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。

いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。(詩篇58:1-2)

どうしてこの世にそんな問題があるのでしょうか。

理由の一つとして、私たち皆が生まれた時から罪人であることが挙げられるでしょう。生まれた時から、私たちは自分の欲望に引っ張られています。(3)

それに、神様が正しい道を教えるのに、私たちは自分の耳を閉じます。(4-5)

だから、ダビデは神様が悪人を裁いてくださるように叫びます。けれども、ダビデのように、私たちは裁きの日が来ることを確信できるので、慰められます。神様がこの世に来るとき、すべての悪人は一掃されます。その日、

人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」(11)

その日を待つのは難しいでしょうか。不義を見るとき、フラストレーションを感じるでしょうか。もちろんです。

けれども、失望しないでください。他の詩篇で、ダビデはこう書きました。

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。(37:1-2)

だからこそ、毎日、私たちは神様を信頼し続け、良いことを行い、主をおのれの喜びとし、私たちの道を主にゆだねましょう。(37:3-5)

そうすれば、この悪の時代にも、私たちはこの世に神様の働きと、私たちの人生に神様の働きを見ることができます。

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詩篇

人間の悪

時々、ニュースを見る時、あまりにも人が凶悪になるのが信じられないことがあります。どうして、人々は殺人を計画し、その計画を実行するのでしょうか。どうして、人々はレイプしたり、暴力の犯罪を犯したりするのでしょうか。

そんな話を見すぎて、もうニュース番組を見たくないとすら思います。

けれども、それは何も現代に限ったことではありません。何千年も前に、ダビデはこう書いています。

罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。

彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。

彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。(詩篇36:1-4)

どうして人々はそんなに悪くなるのでしょうか。

なぜなら、私たちが神様を恐れないなら、悪はすぐに出てくるからです。私たちが神様とその権威を認めないと、大抵何をしても良いと思ってしまいます。私たちの悪を抑えるのは、恥の恐れや、罰の恐れや、私たちの良心です。

しかし、私たちが神様から離れると、私たちの良心は曲がってしまいます。ある人の良心は他の人の良心よりも曲がっているかもしれませんが、人は多かれ少なかれ、誰でも良心が曲がっています。だから、私たちは何が良いか、何が悪いか混乱します。

ダビデはそのことがよく分かっていたので、こう言いました。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。(3)

つまり、人々は悪いことを愛しているので、誰かがその罪を見ても、彼らは気にしません。それに、彼らは自分の罪を自慢します。

その3節のヘブライ語はちょっと翻訳しにくくて、他の意味があるかもしれません。だから、ある英語の翻訳では、他の読み方があります。

彼は己の目で自分にへつらいすぎるので、自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎まない。

つまり、時々私たちは自分の罪が見えないので、自分たちが良い人だと思いますが、実はそうではありません。悪いことをしても、私たちは自分の行動を正当化します。だから、私たちは自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎むことがありません。

そして、私たちの罪によって、私たちは、「知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。」(3)

ニュースを見た時、酷い犯罪について聞きました。あるプロのアメリカン・フットボールの選手が怒って、誰かを殺しました。彼は金持ちだったし、いい組織で働いていました。だから、彼には本当に良い人生があったし、良い将来もありました。

けれども、彼は恨みを忘れず、相手を許せませんでした。そして、彼にとってその恨みは、他のどんなことよりも重大な問題だったので、その人を殺してしまいました。

だから今、婚約者から離れなくてはならないし、彼の7か月の娘は父親を知らないまま成長することになってしまいました。

それは罪の結果です。私たちが悪を拒絶しないと、自分自身を滅ぼし、愛している人も傷つけてしまいます。

あなたはどうですか。多分、あなたは誰も殺したことはないでしょう。しかし、あなたの心の中で誰かを憎んでいるでしょうか。誰かを赦せないでしょうか。

もしそうなら、イエス様は、あなたが自分の心でその人を殺したも同じだと言われました。(マタイ5:21-22)

あなたには、他の破壊的な習慣があるでしょうか。

あなたは神様を恐れずに、「神様がきっと私を赦してくださるので、私はこの罪を犯してもいい」と言いますか。

あなたの悪い行動を正当化しようとしているでしょうか。あなたは悪い道を行くことを決めているでしょうか。

私たちが賢明になるようにしましょう。神様を恐れて、正しいことをしましょう。この世を移っている罪に負けないように。

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ゼカリヤ書

全ての悪を清める

この箇所では、ゼカリヤは再び幻を見ました。その幻は、イスラエルの罪が清められることを示しています。

最初の幻の中で、ゼカリヤは空を飛んでいる巻き物を見ました。その巻き物の両面には呪いが書かれていました。

一つ目の呪いは盗む者に対するものでした。

二つ目の呪いは偽って誓う者に対するものでした。

この巻き物は、十戒のうちの二つの命令を象徴していますが、おそらくその二つの命令は十戒全体を表しているのです。ヤコブはこう言いました。

律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコブ2:10)

おそらく、イスラエル人はその二つの罪において、特に罪深い人々だったのかもしれません。もしくは、その二つの罪にはもっと広い意味があったのでしょう。

つまり、彼らは隣人を傷つける(盗むこと)、そして神様の聖さを侮る(神様の名前によって偽って誓うこと)という行為をしたのです。

この幻については、二つのことに注目する必要があります。

一つ目は、その巻物の大きさです。その巻物は非常に大きく(長さは約9メートル、幅は約4.5メートル)、誰も「裁きが来ていることを知らなかった」と言い逃れることはできませんでした。

誰でもその巻物を読むことができたのです。

二つ目は、その裁きが確実なものであるということです。神様はこう言われました。

わたしが、それ(つまり、呪い)を出て行かせる。――万軍の主の御告げ――それは、盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。(ゼカリヤ書5:4)

そして、ゼカリヤは別の幻を見ました。それは、穀物のための枡でした。

しかし、その枡の中には穀物ではなく、イスラエル人の罪がありました。そして、その枡の中には女の人が座っており、その女の人は罪の原因を象徴していました。

なぜ女の人なのでしょうか。一つの考えとして、イスラエル人が周囲の国々の女神を礼拝していたことが挙げられます。または、イスラエルの男性たちが偶像礼拝する女性と結婚していた可能性もあります。(マラキ2:11-12、エズラ9章)

いずれにしても、天使はその女の人を枡の中に閉じ込めました。そして、二人の女性がその枡をシヌアル(バビロン)に運びました。これは、バビロン人がその女の人を喜んで受け入れるからです。

私たちはこの幻から何を学べるでしょうか。一つ目は、神様が悪に対処する日が必ず来るということです。サタンは可能な限り神様と戦おうとしますが、最終的には打ち負かされます。

二つ目は、私たちは自分の中にある罪を清める必要があるということです。

神様は、罪に対するご自身の感情をはっきりと示されました。そして、神様は裁きが来ることを明確に警告されました。私たちは「知らなかった」と言い訳することはできません。

だから、パウロはこう言いました。

いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(第二コリント7:1)

もちろんバランスが必要です。つまり、自分自身の努力だけで自分を清めることは不可能です。しかし、神様は私たちが聖なる人生を生きるために必要な力を与えてくださいます。(第二ペテロ1:3-4)

そして、神様がイスラエルから悪を取り除かれたように、私たちが神様に従うなら、神様は私たちの人生から罪を取り除いてくださいます。

だからパウロはこう書きました。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。

主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(第一テサロニケ5:23-24)

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ハバクク書

悪のある世に神様に信頼する

ハバククは預言者でした。おそらく彼はエレミヤと同時代に預言しました。つまり、ハバククはヨシヤの息子エホヤキム王の治世に活動したと考えられます。

エホヤキムの兄弟であるエホアハズは、王としてわずか3か月しかユダ王国を治めませんでした。その後、エジプトの王によってエホアハズは退けられ、エホヤキムがユダとエルサレムの王に据えられました。

エホヤキムの治世において、ハバククはユダの罪深い現状を目の当たりにしておののきました。ユダの民は再び偶像礼拝を始め、ハバククが見渡す限り、不義と悪が満ちていました。それゆえ、ハバククは神様に向かって切々と叫びました。

主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。

私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。

なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。

暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。(ハバクク書1:2-4)

そのような言葉を聞いたことがありますか。

また、あなたはそのような祈りをしたことがあるでしょうか。

ハバククが自分の時代に目にしたことは、私たちが現代でも目にすることです。暴力。不義。私たちの法制度は、時として機能していないように見えることがあります。正義は曲げられています。

そのため、ハバククは神様に向かって叫びました。「どうしてですか?どうしてあなたは何もしないのですか?どうして、この悪をお許しになるのですか?」

神様はどのように答えられたのでしょうか。神様はハバククにこう言われました。「バビロン人を通して、ユダを裁きます。」

その時代まで、アッシリアとエジプトは大国として君臨していました。けれども、バビロンがその地位を奪い、神様はバビロンを用いてユダと他の国々を、その罪のゆえに罰すると告げられました。(1:5-11)

これを聞いたハバククはこう答えました。「少々お待ちください。バビロン人たちは私たちよりも罪深い人々です。そんな彼らを通して、私たちを罰するのですか?どうして、そのような人々を用いるのですか。」(1:12-13)

神様は答えられました。

「バビロン人がユダの民よりも罪深い人々であることは知っています。それでも、私はバビロンを通してユダと他の国々を罰します。しかし、覚えておきなさい。彼らにも裁きの日が来ます。その時、彼らは倒れるでしょう。」

このやり取りの中で、神様はハバククに非常に大切なことを教えられました。神様はこう言われました。

「バビロン人は高慢な人々です。彼らは自分たちの力を誇り、偉そうに振る舞います。彼らは自分自身に信頼しています。しかし、ハバクク、「正しい人はその信仰によって生きる」(2:4)。」

新約聖書で、パウロはその箇所を何度も引用しました。また、マルティン・ルターがプロテスタント宗教改革を始めた際、その箇所は彼の信仰の基礎となりました。

そして、悪が満ちた世界の中で、神様はハバククにこのメッセージを伝えられました。「私に信頼しなさい。私は良い方です。私は正義の神です。そして、私はこの世に正義をもたらします。」

神様はこう言われました。

幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。

もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。(ハバクク書2:2ー3)

そして、バビロンの裁きを告げられた後で、神様はハバククに語られました。

しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。(ハバクク書2:20)

つまり、「ハバクク、私はこの状況を支配しています。あなたにはそれが見えないかもしれません。けれども、私は確かにこの状況を完全に支配しています。そして、ある日、この世の民は私の前にひれ伏します。だから、私を信頼しなさい。」

ハバククはどのように反応したでしょうか。彼は祈りを捧げ、神様を賛美しました。

主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。

この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。(ハバクク書3:2)

私たちがこの世の悪を目にする時、私たちはハバククのように反応するべきです。つまり、神様を賛美し、神様の慈しみを覚えるべきです。神様が過去に行われた御業を心に留めるべきです。

そして、この壊れた世界のために祈り続けるべきです。神様の憐れみが私たちの上に再び注がれるように祈るべきです。

さらに、信仰によって歩むべきです。毎日神様に信頼し、この世において生きるべきです。

これがハバククの結論です。

そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。(ハバクク書3:17ー19)

主よ、この世には悪が溢れています。けれども、私がその悪を目にする時にも、あなたに信頼できるように助けてください。

また、あなたがすべてを完全に支配しておられることを信じることができますように。いつか正義が訪れると信じる心を私に与えてください。

主よ、壊れた人々に憐れみを注いでください。そして、どうか私を通して、彼らに触れてください。毎日、私が信仰によって歩むことができますように。アーメン。

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イザヤ書

神様は遠くにおられるのでしょうか。

時々、人々はこう尋ねます。「神様はどこにおられるのでしょうか。私には神様が見えません。この世にある悪しか目に入りません。」

神様は確かにここにおられます。けれども、私たちの心の中に罪があるため、神様を見るのが難しいことがあります。イザヤはこう語りました。

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59:1-2)

神様を見たいと思いますか。あなたが悔い改めるなら、神様はあなたの罪を赦し、あなたの心を清めてくださいます。そして、その結果、神様を見ることができるようになります。

イエス様はこう言われました。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5:8)

神様は聖なる方であり、罪を見ることができません。そのため、私たちの心の中に悔い改めていない罪があるならば、私たちは神様から遠ざかってしまいます。

しかし、自分の罪に取り組むのではなく、多くの人々は言い訳をしてしまいます。イザヤは次のように語りました。

むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。(4)

また、

彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。

彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。

彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。

それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。

私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。(7-10)

この世界を見渡すと、私たちはそのような現実にどれほど頻繁に直面していることでしょうか。人々は罪を善と呼び、神様が定めた罪を良いこととして受け入れ、それを喜びます。

けれども、結局のところ、私たちは暗闇に迷い込んで、「どうしてこの世はこんなに混乱してしまったのだろうか」と問いかけます。

その理由は明白なのに、私たちにはその理由が見えていません。それは、私たちが良い神を拒絶し、罪を愛しているからです。その結果、この世はますます悪くなり、崩れていっています。

それでも、私たちが罪人であっても、神様は私たちを見捨てることはありませんでした。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり「ました。」(15-17)

約2000年前、イエス様はこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。そのため、もし私たちが悔い改め、イエス様に立ち返るならば、私たちは赦され、自由にされるのです。それは、まさに良い知らせです。

しかし、悪い知らせもあります。それは、もし私たちが神様に向かわないならば、神様の裁きを受けるということです。

主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし「ます」(18)

だから、どうか待たないでください。今日は救いの日です。今、この瞬間に神様に向かいましょう。

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ヨエル書

悪を見るとどう反応するでしょうか

どうして、この世に悪があるのでしょうか。どうして、たくさんの悲劇があるのでしょうか。昔から、人々はこのような質問をしてきました。ヨエル書を見ると、その質問が浮かんできます。いなごの群れがユダに来て、すべての収穫を食べ尽くしてしまいました。

いつヨエルがこの予言を書いたか分かりませんが、多くの学者の意見によれば、ヨアシュが赤ちゃんの時や、若い子どもの時(つまり、すでに王になった時に)ヨエルはこれを書いたかもしれません。

ヨアシュが王になる前にユダには三つの不敬虔な支配者がいました。つまり、ヨラム王、アハズヤ王、アタルヤ女王でした。この三人はユダの民を偶像礼拝に導いたのです。

そして、この悲劇が起こりました。その時、ヨエルはユダの民に神様の言葉を伝えました。ヨエルのメッセージは何だったのでしょうか。

「神様に向かいなさい。霊的な眠りから目を覚まして、悔い改めなさい。」

ヨエルはこう言いました。

酔っぱらいよ。目を覚まして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。(ヨエル書1:5)

そして、ヨエルは祭司たちに戒めました。「悔い改めはあなたたちから始まらなければなりません。あなたたちは皆を主に導いてください。」

彼はこう言いました。

祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。。。

断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。(13-14)

なぜヨエルはそのように言ったのでしょうか。

主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。(15)

どうして、この世に悪があるのでしょうか。どうして、地震や津波、台風などがあるのでしょうか。一つの理由は、人々が霊的な眠りから目を覚ますためです。これはノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンにとっても重要なことです。

もし、この世に悪がなかったら、すべての人々は楽に生き、彼らの罪のための将来の裁きについて全く考えないでしょう。多くの人々は全く神様について考えないでしょう。

しかし、その裁きは地震よりも、台風よりも、津波よりも、はるかに酷いものです。裁きが来ると、その結果は永遠に続きます。その裁きから逃れることはできません。

これがヨエルのメッセージでした。「目を覚ましなさい。この悲劇は大変だと思いますか。神様からの裁きと比べると、この悲劇は些細なことです。悔い改めなさい。神様にもう一度向かってください。そうしなければ、もっと酷いことが起こります。」

イエス様は同じようなことを癒やされた人に言われました。

「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)

つまり、「あなたはずっと苦しんでいました。けれども、悔い改めなければ、もっと大変な苦しみが訪れるでしょう。足が不自由であることよりも、地獄に行くことのほうがはるかに大変です。しかし、悔い改めるならば、足だけでなく、あなたの魂と霊が癒されます。」

あなたは悲劇を見るとどのように反応しますか。悲劇を目の当たりにしたら、神様の前に跪きましょう。ヨアシュの時代に、神様は祭司たちを呼ばれました。

同様に、神様の祭司として、私たちも召されています。ですから、悔い改めましょう。そして、周りの人々のために祈りましょう。彼らを闇の中から神様の驚くべき光の中に招いてください。

神様の光の中で眠らないでください。目を覚まし、周りの人々も起こしましょう。裁きが訪れる前に神様に向かいましょう。