聖書を読むと、イエス様がしばしば同じたとえを用いながらも、異なる応用を教えておられることに気づきます。
例えば、マタイの福音書では、イエス様が良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木について語る際、そのたとえを偽預言者に当てはめています。つまり、私たちは預言者(あるいは牧師やクリスチャンの著者)の「実」(彼らの教えや行動)を見極める必要があるのです。
一方で、ルカの福音書では、イエス様はそのたとえを用いて、私たち自身の心を探るように挑戦しておられます。
この箇所では、たとえを語る前に、イエス様は裁き、人を責めること、そして人を許すことについて教えておられます。
そのことについて語られた後、イエス様はこう言われました。
悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。
いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。
良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(ルカの福音書6:43-45)
イエス様は何を教えておられるのでしょうか。
それは、私たちがどのような木であるかを自問するよう促しておられるのです。私たちの心の中には何が満ちていますか。相手を裁くことでしょうか。それとも、相手を責めることでしょうか。もしくは、相手を許すことでしょうか。
私たちの心にあるものを見分ける方法は何でしょうか。それは、自分の口から出る言葉を見ることです。なぜなら、私たちの口は心に満ちているものを語るからです。
もし心の中で、私たちが相手を裁き、責めているなら、そのような言葉が私たちの口から出るでしょう。逆に、私たちの心に恵みと許しが満ちているなら、それに応じた言葉が私たちの口から出るでしょう。
イエス様の言葉に注目してください。悪い木は、相手を裁き、責める心を象徴しています。しかし、恵み深く、相手を許す心は良い木を表しています。
だから、私たちは自分自身にこう尋ねるべきです。「私たちの口からどんな言葉が出ているだろうか。」
私たちはいつも相手を批判し、責めていますか。それとも、私たちの言葉は恵みに満ちていますか。私たちの言葉は、私たち自身がどのような木であるかを映し出すのです。
あなたはどのような木でしょうか。
