おそらく、私たちは皆、人々を変える力を求めることがあるでしょう。自分の思い通りに操る力が欲しくなるかもしれません。あるいは、彼らの悪い習慣を改めさせたい、あるいは欠点を直したいと思うこともあるでしょう。
残念ながら、私たちにはそのような力はありません。ときには、相手を責めたり、罪悪感を抱かせようとしたり、変わるべきだと遠回しに伝えたりするかもしれません。
それでも、パウロは私たちにこう語ります。
私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。(ローマ人への手紙15:1)
私が以前述べたように、パウロは傷つきやすい良心を持つ人々について語っています。彼らは、神様が定めていない規則にも従わなければならないと考えてしまいます。
とはいえ、パウロの言葉には、もう一つの重要な適用があると思います。
相手がさまざまな悪い習慣や欠点を持っているため、私たちは彼らを弱い人と見なすかもしれません。さらに、私たち自身がそのような悪い習慣や欠点を持っていないので、自分は強いクリスチャンだと思うことがあるかもしれません。
そのため、私たちは彼らを変えようとします。けれども、それは本当に彼らの益のためではなく、自分自身の益のためになってしまうことがあります。つまり、私たちの本当の望みが、彼らが私たちを喜ばせることであるからです。
だからこそ、パウロは私たちに、「力のない人々の弱さを担うべきだ」と語っています。
多くの人々は、自分の悪い習慣や欠点を変える力を持っていません。彼らは変わるべきだと理解していても、それは大きな戦いです。
だから、神様がその恵みと力を与えてくださるまで、私たちは彼らを操るべきではありません。彼らにプレッシャーをかけるべきではありません。
むしろ、パウロは私たちにこう語ります。
ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(7)
イエス様はどのように私たちを受け入れられるのでしょうか。私たちがまだ弱さを抱えているときでも、イエス様は私たちを受け入れてくださいます。イエス様は私たちのすべての弱さや欠点をよくご存知です。
そして、私たちがそれらをすぐに克服することを求められるのではなく、忍耐をもって愛と憐れみを注いでくださいます。
さらに、イエス様はどのように変わるべきかを教えられるだけではなく、その変わる力をも与えてくださいます。
私たちは、相手に変わるべきことを示すことができ、助言を与えるかもしれません。けれども、彼らを変える力を与えることはできません。イエス様だけが、その力を与えることができるのです。
だからこそ、忍耐をもって相手に愛と憐れみを示し、彼らをイエス様に委ねましょう。
そうすることで、神様は栄光を受けられます。
