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マルコの福音書のデボーション

自給自足?神様に頼る?

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

今日、弟子たちとその失敗について思いを巡らせていました。彼らは男の子から悪霊を追い出そうとしましたが、できませんでした。

どうしてでしょうか。彼らは自分自身の権威と力に頼っていたように見えます。「祈ろう」という発想はまったくありませんでした。

その場面を読んで、私はこう思いました。「私は、弟子たちのようにどれほど振る舞っているだろうか。神様とその力に頼ることなく、どれほど自分に頼っているだろうか。」

私の最初の本能は祈ることだろうか。自分の力を超える問題に直面するときだけでなく、どんな状況であっても、それが私の第一の反応だろうか。

天のお父さん、私が決して自分の力で生きようとせず、いつもあなたに頼って生きる者となれますように。

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マルコの福音書のデボーション

どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!

ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。(マルコの福音書1:24)

今日、イエス様に対する悪霊の言葉を思い巡らしていました。悪霊は基本的に、「あなたとは関わりたくないです。あなたを信頼できないし、まったく愛していないのです」と言いました。

イエス様はユダヤ人にも私たちにもそのような態度こそを悔い改めるように促しておられました。

「天のお父さんはあなたを愛しておられる。あなたの最善を望んでおられ、ご自身の愛する子として御国に招いてくださるのです。だから、神様に向けなさい。天のお父さんを信頼しなさい。」

私はイエス様を信じているのです。

だから私は、心から叫びます。

「どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!」

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ペテロの手紙第二

サタンを過小評価する

C.S.・ルイスはこう記しました。

「人々は悪霊について二つの相反する誤解を持っています。ある人々は悪霊の存在を信じません。一方で、悪霊の存在を信じる人々もいますが、悪霊に対して不健康な興味を抱き、過度に思いを巡らせてしまうのです。」

私はもう一つの問題を指摘したいと思います。

ある人々は悪霊たちを過小評価します。

第2章では、ペテロは偽教師について警告しました。その偽教師たちの問題の一つは、彼らが権威を持つ者を認めなかったこと、また、彼らよりも偉大な者たちを敬わなかったことです。

もちろん、彼らは神様の権威や偉大な立場を認めませんでした。また、彼らは使徒たちや教会のリーダーたちを敬いませんでした。しかし、ペテロはさらに言います。

特に、汚れた欲望のまま肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対して、主はそうされます。この者たちは厚かましく、わがままで、栄光ある人たちをののしって恐れません。

御使いたちは勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で彼らをそしって訴えたりしません。

この者たちは、本能に支配されていて、捕らえられ殺されるために生まれてきた、理性のない動物のようです。自分が知りもしないことを悪く言い、動物が滅びるように滅ぼされることになります。(ペテロの手紙第二2:10-12)

「栄光ある人たち」とは、サタンと他の悪霊たちのことです。(彼らは罪に落ちましたが、まだ残っている栄光を持っています。)

ペテロによれば、良い天使たちは人間よりも力を持っているにもかかわらず、神様の前でサタンと悪霊たちを訴えたりしません。サタンと悪霊たちがいつか裁かれることは確かですが、それでも良い天使たちは彼らを訴えることを控えます。

それにもかかわらず、偽教師たちはサタンや悪霊たちを軽んじました。では、彼らはどのようにサタンと悪霊たちを悪く言ったのでしょうか。それは明確には記されていません。

もしかすると、彼らがサタンのしもべとして非難された際に、こう答えたのかもしれません。「サタン?サタンは私を支配しない。私は自分自身の主だ。サタンの顔に唾を吐いてやる。」

しかし、自分よりも力のあるものを軽んじるのは非常に危険なことです。ペテロや他の使徒たちは決してそのようなことをしませんでした。むしろ、ペテロはクリスチャンたちに警告しました。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(第一ペテロ5:8)

もし、ライオンを軽んじると、あなたは食べられてしまうかもしれません。

そういうわけで、占い師や星座占い、またほかのオカルト的なものに参加してはいけません。

また、偶像礼拝に参加してはいけません。もちろん、偶像自体は何でもないものです。それでも、その偶像には悪霊との関係があります。

そのため、パウロはこう言いました。

むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(第一コリント10:20)

でも、その反面、私たちにはサタンや悪霊たちに怯える必要がありません。なぜなら、ヨハネはこう言いましたから。

あなたがたのうちにおられる方(つまり、御霊)は、この世にいる者(つまり、サタン)よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

また、ペテロは私たちに訓戒します。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。(第一ペテロ5:9)

それでも、サタンを過小評価してはいけません。彼は力強いものです。もちろん、彼はあなたよりも力強いのです。

だからパウロの言葉に従いましょう。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。(エペソ6:10-11)

簡単に言うと、サタンを重視しなくてはいけません。サタンを軽んじてはいけません。

むしろ、イエス様と共にいつもいなくてはいけません。イエス様の力によって強められなくてはいけません。そうしてこそ、あなたはサタンに勝利を得ます。

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マタイの福音書 マタイ17章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

私たちの信仰はどこでしょうか

私の信仰はどこにあるのだろうか。

時々、私は自分自身にそう問いかけます。「どうして私は神様をもっと信頼できないのだろうか。」

けれども、時には少し違う質問をします。「私は何を信頼しているのだろうか。」

この箇所では、その二つの問いが浮かび上がります。

イエス様、ヨハネ、ヤコブ、そしてペテロが山から戻ったとき、他の弟子たちは律法学者と論じ合っていました。彼らが何について議論していたのかは定かではありませんが、おそらく律法学者はこう言ったのかもしれません。

「あなたの先生は神様から来たのではありません。ほら、あなたたちはこの男の子から悪霊を追い出せなかったではありませんか。」

いずれにせよ、イエス様が彼らに「何について話していたのか」と尋ねられると、その男の子の父親はこう言いました。

先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。

それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。(マルコ9:17-18)

そして、そのお父さんは必死に願いました。

もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。(マルコ9:22)

イエス様はこう答えました。

できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)

私はその父親に共感できます。彼はこう言いました。

信じます。不信仰な私をお助けください。(9:24)

どのように、その父親はその言葉を口にしたのでしょうか。もしかすると、彼の希望はほとんど失われていて、信じることが難しかったのかもしれません。しかし、彼はイエス様が救えないなら、誰も救えないということを理解していました。

そこで、イエス様の目を見つめながら、その父親は涙を流し、自らの不信仰を認めました。

「イエス様、私は信じたいのですが、この問題は長い間続いてきました。あなたを信じることは、とても難しいのです。けれども、あなたが助けてくださらないなら、私は希望を失います。どうか、私が不信仰を克服できるよう助けてください。」

イエス様は、その父親の願いを聞かれると、悪霊を追い出されました。

私はこの話から希望を受け取ります。私もよく不信仰と戦います。私の信仰の小さな滴は、不信仰の大波に圧倒されることがあります。

その父親も同じように感じたことでしょう。しかし、彼が不信仰であったにもかかわらず、イエス様は憐れみと恵みを示し、その息子を癒してくださいました。

時々、私も神様の良さを疑うことがあります。けれども、私が叫ぶとき、イエス様は答えてくださいます。神様は私に憐れみと恵みを与えてくださり、私はもう一度神様の恵みと憐れみを思い出します。

いずれにせよ、この話の中で、弟子たちはイエス様に尋ねました。

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。(マタイ17:19)

そして、イエス様は彼らに信仰について教えられます。

あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

でも、イエス様はもう一つのことを言われました。

この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。(9:29)

覚えていてください。その出来事の前に、弟子たちはイスラエルの中で多くの人々から悪霊を追い出しました。けれども、時が経つにつれ、彼らはその力の源を忘れてしまったかもしれません。

そのため、彼らは神様を信頼せず、自分の力と方法に頼り始めたのかもしれません。そして、祈ることを忘れてしまい、悪霊を追い出すことができませんでした。

私はこの話を読むたびに、自分自身に問いかけます。「私は何を信じているのだろうか。自分の能力や賜物に頼っているのか。自分の知恵に頼っているのか。それとも、神様に頼っているのか。」

神様を信頼するなら、たとえからし種ほどの信仰しかなくても、何でも可能になります。しかし、自分自身に頼るなら、私は何もできません。

毎日、このことについて考えなければなりません。私はよく失敗します。もしあなたも不信仰との戦いをしているなら、一緒に祈りませんか。

イエス様、私の信仰はどこにあるのでしょうか。私の状況を見るとき、私はしばしばパニックになり、あなたが私を助けてくださるかどうかを疑ってしまいます。

私の不信仰をお赦しください。すべてのことにおいて、あなたを信じることができるよう助けてください。私の心と状況の中で働いて、私に平和と喜びを与えてください。

私は何を信頼しているのでしょうか。私はしばしば自分自身に頼り、それによって失敗します。どうかお赦しください。あなたの声を聞き取れるように助けてください。そして、私が毎日あなたを信頼できるよう導いてください。アーメン。

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解放された

これは実に不思議な話だと思います。

嵐の後、イエス様とその弟子たちは湖の向こう側に到着します。そこで彼らは、二人の悪霊につかれた男性に出会います。

(マルコとルカの福音書では、悪霊につかれた一人の男性についてのみ記述されていますが、その理由は分かりません。もしかすると、一人だけがイエス様を信じたのかもしれません。ただし、それは推測にすぎません。)

おそらく、イエス様と弟子たちが浜辺へ漕ぎ寄せる途中で、奇妙な叫び声を耳にしたことでしょう。そして突然、裸の二人の男性が駆け寄ってきます。彼らは腕や足に壊れた鎖をつけていたかもしれません。

そして、弟子たちがよく見ると、彼らの体に多くの傷があることに気づきます。彼らは何度も自分自身を傷つけていたからです。

あなたがその二人を見たら、どのように感じるでしょうか。おそらく私は非常に恐怖を感じたでしょう。

それでも、イエス様は冷静に振る舞い、悪霊たちにその二人から出ていくよう命じられました。

悪霊たちは最初は従わずに叫びます。

神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。

神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。(マタイ8:29;マルコ5:7)

けれども、イエス様がもう一度「出て行け」と命じられると、その悪霊たちはイエス様に懇願します。

もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(マタイ8:31)

イエス様が「行け」と命じられると、悪霊たちは豚の中に入りました。そして、その豚の群れは湖へ駆け降り、水に溺れて死んでしまいました。

その二人の人々は解放されましたが、町の人々はその光景を見ても喜ぶどころか、逆に恐怖を抱きました。

そのため、彼らはイエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と懇願しました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

まず第一に、悪霊は実在するということです。そして、悪霊は非常に危険な存在です。

一部の人々は、タロットカードやウィジャ板を使いながら「これはただの遊びだ」と考えるかもしれません。しかし、それらを使うことで私たちは悪霊の影響を受けやすくなります。

ある牧師がこう言っています。「悪霊の世界に通じるドアがあるが、そのドアには取っ手が一つしかありません。それは私たちの側にあります。私たち自身がそのドアを開けるとき、悪霊が私たちの人生に入ることができるのです。」

タロットカードやウィジャ板、占い師などはそのようなドアを表しています。

さらに、悪霊は私たちの益を全く望んでいません。時には光の天使のように装いますが、彼らの本当の目的は私たちを破滅に導くことです。

この箇所では、悪霊がその二人の人々や豚たちにどのように影響を与えたかをよく見ることができます。それは悪霊の意図を明確に示しています。

タロットカードやウィジャ板、占いは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、それらの背後には悪霊が潜み、私たちを滅ぼそうとしています。

良い知らせは、私たちはその悪霊を恐れる必要がないということです。悪霊は確かに力を持っていますが、イエス様は彼らをはるかに超えた力を持っておられます。また、悪霊に対して、イエス様は完全な権威をお持ちです。

それでも、オカルトからは距離を置いてください。いつかイエス様と弟子たちのように、あなたも悪霊と向き合うことになるかもしれませんが、悪霊を求めることは決してしないでください。

さらに、この話から私たちが学べるもう一つの教訓があります。

最初、罪は魅力的に見えるかもしれませんが、最終的にその罪はあなたを支配するようになります。

どうして悪霊がその二人に入ったのかは分かりませんが、確かなのは、彼らが神様を求めていなかったということです。

そして、彼らが悪霊にドアを開けてしまった結果、悪霊が彼らに入り込み、彼らは自分自身をコントロールできなくなりました。その代わりに、悪霊が彼らを支配し始めたのです。

そのように、私たちは最初は罪を選んでしまうかもしれませんが、最終的にその罪に支配されることになります。そして、この話にあるように、私たちは自分自身を傷つけてしまいます。

神様が私たちに恵みを与えず、私たちが決して悔い改めないなら、私たちは最終的に滅びてしまうでしょう。

しかし、イエス様は私たちを解放する力を持っておられます。もし私たちが心から悔い改めるなら、イエス様は私たちを赦し、罪に打ち勝つことができるよう助けてくださいます。

ただ、私たちの変化を周りの人々が見たとき、必ずしも喜んでくれるわけではありません。

この話では、町中の人々は喜びませんでした。それどころか、イエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と願ったのです。

悪霊につかれていた人々は恐ろしい存在でしたが、町の人々はむしろ彼らが解放されなかったほうが良かったと思っていたかのようです。

あなたの周りの人々も、あなたの変化を見たとき、同じように感じるかもしれません。

それでも、イエス様は私たちをその人々のもとに送り出されます。そして、イエス様が彼らに言われたように、私たちにもこう言われます。

家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。(ルカ8:39)

イエス様はあなたを解放してくださいました。神様があなたにしてくださったことを周りの人々に伝えてみませんか。そうすることで、彼らも解放される可能性があります。

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ダニエル書3

戦い

私が高校生だった頃、天使と悪魔について描かれたフィクションの本を読んだことがあります。その時、私は目に見えない霊的な戦いについて深く考え、祈りの重要性を実感するようになりました。

おそらく、その著者がその作品を書いた時、この箇所を思い浮かべていたのかもしれません。なぜなら、聖書のこの箇所で初めて、霊的な戦いについて明確に描かれているからです。

この箇所の冒頭には、ダニエルが3週間の喪に服していたと記されています。彼が何に悩んでいたのかははっきりしません。

もしかすると、彼はエルサレム再建にまつわる問題を聞いて心を痛めていたのかもしれません。

または、ユダヤ人が神様を敬うことを忘れ、自分のことだけを考えているという話を聞いていたのかもしれません。(預言者ハガイが彼らのその態度を批判しています。)

いずれにせよ、ダニエルは断食し、神様の御心を求めていました。けれども、約3週間もの間、ダニエルは何の答えも受け取ることがありませんでした。

私たちも同じように感じることがあるのではないでしょうか。困難に直面し、神様の御心を求めても、神様が私たちを無視しているように思えることがあります。

しかし、本当に神様はダニエルを無視していたのでしょうか。違います。ある日、天使が現れました。そして、彼はダニエルにこう言いました。

恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき[た]。(ダニエル書10:12-13)

その天使は、ダニエルを強め、そのメッセージを聞く準備を整えさせてから、こう言いました。

私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。

しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(20-21)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。この世の問題に直面するとき、私たちは時折、神様が沈黙しているように感じることがあります。けれども、私たちの目には見えない多くのことが存在しています。それは、霊的な戦いです。

パウロは次のように書きました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

時折、私たちクリスチャンは周りの人々と戦っていると感じることがありますが、実際には霊的な力と戦っているのです。その力と戦うためには、霊的な武具が必要です。(エペソ書6:13ー17)

ここでは、この武具について詳しく説明しませんが、一つ重要なポイントを覚えておいてください。その武具はあなたの体の前を守るためのものです。後ろを守る武具は存在しません。

どうしてでしょうか。それは、私たちが逃げることなく、前進し続けることを求められているからです。

しかし、その武具だけでは十分ではありません。私たちは祈らなくてはなりません。

パウロはこう書きました。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)

私たちは一人では戦えませんし、自分だけの力では太刀打ちできません。私たちには、聖霊様が私たちのために戦ってくださることが必要です。

ですから、自分自身のためだけでなく、キリストにある兄弟姉妹たちのためにも祈ってください。牧師のために祈りましょう。苦しんでいる兄弟姉妹たちのために祈りましょう。

ひとりよがりになることを避けましょう。サタンはほえたける獅子のように私たちを狙っているので、目を覚ましていましょう。そして、神様の命令に従い、祈りを欠かさずに行いましょう。また、信仰の戦いを勇敢に戦いましょう。