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詩篇のデボーション

私たちが悲しむとき

私たちの人生は、いつも楽というわけではありません。ダビデはそれをよく知っていたので、哀歌を多く書きました。

でも、私たちがこの壊れた世界で悲しむとき、このことを心に留めておきましょう。

1.神様は私たちの神であり、私たちの王です。(詩篇5:2)。ですから、私たちは神様を敬い、神様に従うべきです。

多くのクリスチャンは、神様をお父さんとして、また友だちとして考えたいと思います。もちろん、神様は私たちのお父さんであり、友だちです。

でも、文句を言うとき、神様が私たちの神であり王であることを忘れてはなりません。神様は、私たちの敬いと従順にふさわしい方です。

2.神様は良い方です。

時々、私たちは周りの悪を見ると、神様のご性質を疑い始めます。神様が本当に良い方であるかどうか、疑い始めるのです。

でも、私たちはこの真理を心に留めておかなくてはなりません。神様が悪に取り組むのが遅く感じられるかもしれませんが、最終的に正義をもたらしてくださるのです。(第二ペテロ3:8〜10)

その日、すべての人々はダビデの言葉が正しいと知るようになります。

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。(詩篇5:4)

だから、どんな悪を見ても、神様の良いご性質を疑わないようにしましょう。

3.私たちも、ただ恵みによって神様に近づくことができます。

私たちは周囲の悪人を見て怒るかもしれませんが、謙遜な態度を持って、神様の恵みがなければ、私たちも裁かれていたことを覚えておきましょう。

4.私たちが試練に直面するときこそ、神様の導きと助けが必要です。

だから、ダビデと一緒に祈りましょう。

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、(または、私には大変な問題があるので)あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。(8節)

最後に、主にあって喜び、主のことを誇りましょう。(11節)

私たちにトラブルがあるとき、文句を言うのは簡単なことです。そうせずに、神様に身を避けて、主を喜びましょう。

そうすれば、あなたの視点は完全に変わります。そして、神様の偉大さと比べると、あなたの問題は小さく見えるでしょう。

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テモテへの手紙第ー

悲しんでいても

夫や妻を亡くすという経験ほど、心を深く痛めることはそう多くありません。そして、そのような出来事が起きると、深い悲しみの中で人生のバランスを失い、信仰さえも見失ってしまいやすくなります。

もしかすると、エペソのやもめたちも、そのような誘惑に直面していたのかもしれません。

あるやもめたちは悲しみと孤独から再婚を望みましたが、ノンクリスチャンの男性と結婚してしまいました。その結果、イエス様に背を向けてしまい、夫の偶像を拝むようになってしまったのです(テモテへの手紙第一5:11-12節)。

また他のやもめたちは、教会からの経済的援助を受けていながらも怠けてしまい、うわさ話やおせっかいに時間を費やしていたようです(13節)。

このような事情があったからこそ、パウロはテモテにこう語ったのです。

ですから、私が願うのは、若いやもめは(クリスチャン)と結婚し(第一コリント7:39)、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。(テモテへの手紙第一5:14)

パウロの指示は、私たちにもどのように当てはまるのでしょうか。現代では、そのような言葉が男尊女卑的に聞こえることがあるかもしれません。女性の目的は、自分の家庭だけに限定されるべきなのでしょうか。決してそうではありません。

コリントの女性たちは、エペソの女性たちが陥ったような罪に落ちていなかったため、パウロは彼女たちにシングルの生活を勧めました。なぜなら、彼女たちは独身であることで、より集中してイエス様に仕えることができたからです。(第一コリント7:32〜40)

おそらくパウロの願いは、やもめたちが自分の悲しみに支配されないことでした。彼は、彼女たちがその悲しみの中で愚かな決断をすることなく、信仰を捨ててしまわないようにと願っていたのです。なぜなら、もし彼女たちがその悲しみに支配されてしまえば、自分の人生を無駄にしてしまうからです。

だからパウロは彼女たちに語りました。「あなたは今、深い悲しみの中にいるかもしれません。しかし、あなたの人生はまだ終わっていません。神様はあなたのために、なお良い計画を持っておられます。それを忘れないでください。

愚かな決断を避け、あなたの人生を無駄にしないでください。むしろ、神様があなたに与えておられる目的を果たしなさい。」

パウロは若いやもめたちのことを考えていましたが、年配のやもめたちのことも心に留めていました。彼は、良い行いによって認められているやもめたちだけを支えるように教会に勧めていました。

教会は、自分勝手に生きているやもめたちを支えるべきではありませんでした。むしろ、やもめたちが悲しみの中にあっても、神様の彼女たちのための目的を思い出し、神様に仕え続けるならば、教会はそのような人をこそ支えるべきなのです。

では、あなたはどうでしょうか。悲しみの中で、自分のことだけを考えてはいませんか。その悲しみによって、愚かな決断をしてしまってはいませんか。その痛みのゆえに、神様から心が離れてしまってはいませんか。

神様があなたを愛しておられることを思い起こしましょう。あなたが若くても、年を重ねていても、神様はあなたのために良いご計画を持っておられます。

だからこそ、その悲しみのただ中で、イエス様を仰ぎましょう。イエス様が、あなたのために今もご計画を持っておられることを覚えていましょう。神様がその目的を明らかにしてくださるように祈りましょう。毎日、神様と共に歩みましょう。

そうすれば、すべての慰めと平和の神は、あなたと共におられ、あなたを癒やしてくださいます。

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マタイの福音書 マタイ28章 マルコの福音書 マルコ16章 ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。

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ネヘミヤ記

喜び

ユダヤ人は城壁の修理を完成した後、レビ記23章で神様が命じられたように、ラッパの祭りを祝いました。

その日、祭司エズラはユダヤ人に神様の律法の書を読みました。この箇所を読んだ時、いくつかのことが私の心に響きました。

一つ目は、彼らが神様を恐れ、その言葉を尊重したことです。エズラが律法の書を開いた時、ユダヤ人は皆立ち上がりました。そして、エズラが読み上げている間、彼らは注意深く聞きました。

また、エズラが神様をほめたたえた時、彼らは「手を上げながら、『アーメン、アーメン』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝しました。」(ネヘミヤ記8:6)

私たちは神様をどれほど深く恐れているでしょうか。私たちは神様の言葉をどれくらい尊重しているでしょうか。

神様の前に来る時、へりくだる心を持っているでしょうか。私たちは注意深く神様の言葉に耳を傾けているでしょうか。それとも、すぐに心が他のことへと逸れてしまうでしょうか。

二つ目は、私たちには聖書を上手に教える人が必要だということです。8節にはこう書かれています。

彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。(ネヘミヤ記8:8)

現代においても、教会にはそのような人が必要です。つまり、聖書をはっきりと読んで、人々が理解できるように説明できる人が必要です。

三つ目は、ユダヤ人の反応です。彼らは神様の言葉を聞くと、すぐに泣きました。なぜなら、彼らは神様の律法を犯したことを知ったからです。また、彼らの苦しみは自分たちのせいであることを悟りました。

神様が私たちの罪を示されたら、私たちはどのように反応するでしょうか。私たちは泣いて、悔い改めるでしょうか。それとも、私たちの心はさらに堅くなるでしょうか。

最後のポイントは、神様が私たちが自分の悲しみに浸ることを望んでおられないということです。むしろ、神様は私たちが神様の喜びによって生きることを望んでおられます。ネヘミヤはユダヤ人にこう言いました。

悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。(10)

9-10章は、彼らが悔い改める時間でした。けれども、8章では、神様は彼らの失敗によって、悲しみに浸ることを望んでおられませんでした。むしろ、神様は彼らが神様の慈しみと忠実さを喜ぶことを望んでおられました。

私たちが罪を犯した時、へりくだって悔い改めるべきです。しかし、私たちの涙と後悔に浸らないようにしましょう。

むしろ、十字架を思い出し、イエス様が私たちの罰を受けてくださったことを思い出しましょう。神様の恵みと私たちの救いを思い出しましょう。そうすれば、私たちは神様の喜びをもう一度知ることができます。

私たちが自分の罪を悲しむだけのために、神様が聖書を与えたのではありません。私たちの喜びを取り去るために、聖書を与えたのでもありません。

神様が望んでおられるのは、私たちが神様と親しい関係を持ち、神様の愛と喜びを知ることです。イエス様はこう言われました。

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:10-11)