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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:悲しむ人

私は、山上の垂訓についてのメッセージを多く聞き、聖書の解釈書も数多く読んできました。そして、多くの聖書学者や牧師たちによれば、この箇所の意味は、「自分の罪を嘆く人は幸いである」ということです。

もちろん、その解釈は「心の貧しい者」という概念と一致しています。(マタイの福音書5:3)つまり、私たちは自分が霊的に破産している者であることを認め、その罪を嘆くのです。

実は、罪を嘆くことは時として良いことでもありますが、悪いことでもあります。もし、その嘆きの結果が悔い改めであれば、それは命に至ります。ところが、もしその嘆きが絶望へと導くのであれば、それは死に至ります。

ペテロとユダの話を考えてみましょう。ペテロは悔い改めたことで、命を見出しました。その一方、ユダは絶望し、自ら命を絶ってしまいました。

ですから、私たちの嘆きがどこへ向かうのかを考える必要があります。

嘆きは神様とその恵みへと導くものでしょうか。

それとも、私たちは自分自身の過ちや失敗に焦点を当てすぎてしまうでしょうか。

もし、私たちが神様とその恵みに焦点を当てるなら、神様の慰めを受けることができます。

しかし、自分自身の過ちばかりに焦点を当ててしまうなら、絶望へと向かいます。

とはいえ、この箇所でイエス様が「罪を嘆くこと」について話されたかどうか、私は確信がありません。

もちろん、私たちは罪を嘆くべきです。とはいえ、罪によって壊れたこの世界を嘆くこともあります。

私たちが愛する人が病気になったり、亡くなったりすると、深い悲しみに襲われます。

また、人々が互いに傷つけ合うのを見て、嘆くこともあります。

戦争や飢餓、苦しみを目の当たりにすると、絶望を感じるのは自然なことです。そして、未来に希望があるのかどうか、疑念が湧いてきます。

けれども、もう一度問いかけます。それらの出来事を見たとき、私たちはどこに焦点を当てるべきでしょうか。

もし、自分自身に焦点を当てるならば、絶望へと向かいます。なぜなら、私たちにはこれらのひどい状況を変える力がないからです。

しかし、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、希望へと導かれます。なぜなら、神様は私たちの状況や問題よりも遥かに偉大な方であり、壊れたものを回復させることができるからです。

神様は、壊れた人間関係を回復させることができます。崩れた結婚を再生させることができます。失われた希望をよみがえらせることができます。そして、霊的に死んだ人を新しく生かすことができます。

あなたは、自分の罪のために人生が壊れていると感じていますか。あなたの傷や、周りの人々の傷を見て、嘆いていますか。

自分自身の弱さだけを見つめるのではなく、むしろ死んだものを回復させることができる方を仰ぎ見てください。そうすれば、あなたは神様の慰めを受けることができます。