この箇所では、たとえ話を用いて、エゼキエルは北イスラエル王国とユダ王国を責めています。
この話は二人の売春婦についてのものです。彼女たちは姉妹であり、姉の名前はオホラ、妹の名前はオホリバでした。
オホラは北イスラエル王国の首都サマリヤを象徴します。
ユダ王国から分離したとき、北イスラエル王国は自分たちの礼拝所を建設しました。それを「神様のため」と言いましたが、実際には偶像を礼拝するための場所でした。(「オホラ」という名前は「彼女自身の幕屋」という意味です。)
オホリバはユダ王国の首都エルサレムを象徴します。ユダ王国には神様の宮がありました。(「オホリバ」という名前は「彼女に私の幕屋がある」という意味です。)
このたとえ話では、その姉妹はかつてエジプトで売春婦でしたが、神様が彼女たちをその生活から救い出しました。
この意味は、エジプトにいたとき、イスラエルの人々が他の神々を礼拝していたにもかかわらず、神様が彼らに偶像を捨てて自分に従うようにと呼びかけたということです。
その後、オホラはアッシリヤ人を恋い慕い、姦淫を犯しました。けれども、最終的にアッシリヤ人によって彼女は殺され、その子どもたちは奴隷にされました。
これは、北イスラエル王国がアッシリヤと同盟を結び、その神々を礼拝するようになったものの、最終的にアッシリヤ人に滅ぼされ、追放されたことを象徴しています。
一方、オホリバは姉の罪から何も学びませんでした。そのため、彼女もアッシリヤ人を恋い慕い、さらにはバビロン人も恋い慕いました。
けれども、後に彼女の心はバビロン人から離れ、再びエジプト人に戻りました。それでも、将来バビロン人が彼女を追ってきて、彼女を殺し、その子どもたちを奴隷にすることになります。
その意味は、ユダ王国がアッシリヤ人、バビロン人、そしてエジプト人と同盟を結び、それぞれの神々を礼拝していたということです。ところが、最終的に彼らはバビロンに追放されることになりました。
神様の言葉はすべて成就しました。
この話から二つの重要な教訓を学ぶことができます。
一つ目は、神様は私たちに神様に従うことを強制されないということです。
私たちが神様から離れようとするならば、神様は私たちを止めません。むしろ、神様は私たちを、私たちが恋い慕うものに引き渡されます。
二つ目は、私たちが恋い慕うものは、最終的に私たちを滅ぼすということです。
それらが喜びや安全、そして祝福を与えてくれるように思えるかもしれませんが、実際には私たちを奴隷にし、滅ぼします。
パウロはこのように言いました。
あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。。。
罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。(ローマ6:16、20-21)
イスラエルの人々はそのような経験をしました。そして、私たちも同じような経験をする可能性があります。
どれほど多くの夫が不倫によって自分の家族を壊しているでしょうか。彼らの行動は妻や子どもたちを深く傷つけます。
そのような夫は自分の行動がもたらす結果を十分理解しているにもかかわらず、自分自身を止めることができません。
また、どれほど多くの人々がアルコールや麻薬によって自分の人生を破壊しているでしょうか。
さらに、お金への執着のあまり、働きすぎて家族や健康を損なう人々はどれほど多いでしょうか。
多くの人は、自分の情欲に従って生きることを「自由」だと思っています。
しかし、自分自身を止められないなら、それは本当に自由でしょうか。情欲によって自らの人生が壊れることが自由と言えるでしょうか。
あなたを滅ぼすものから解放するために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様はあなたが真に生きるために命を捧げられたのです。
けれども、自分に問いかけなければならないのは、「私は本当に自由になりたいのだろうか」ということです。
