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コロサイ人への手紙のデボーション

自分の心を守る

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

前回の記事で私は言いましたが、最近のニュースやSNSを見るとき、私の心が騒ぐのは簡単です。

でも今日、神様は、私が自分の心に注意を払うように思い起こさせてくださいました。 私は常に自分の思いを吟味し、祈って、それを神様に委ねる必要があります。

それだけではなく、私が自分の心を感謝へと導き、主にあって喜ぶことを選ぶようにと、神様は思い起こしてくださいました。

今日、たまたま詩篇17篇も読み、ダビデのことばを通して、神様の語りかけが私にいっそう深く響きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。私を炉で試されましたが、何も見つかりません。私は 、口の過ちを犯さないように心がけました。。。

私は、義のうちに御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、御姿に満ち足りるでしょう。(詩篇17:3、15)

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私たちのための神のみ心

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5:16ー18)

多くのクリスチャンたちは、「私のための神の御心は何だろうか」とよく尋ねます。

この箇所でパウロは、神の御心のすべてを教えているわけではありませんが、神様が私たちにどのように生きることを望んでおられるのかを示しています。それは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝する」ということです。

しかし、私たちの人生はいつも楽しいものではありません。私たちはしばしば試練に直面します。

では、どうすれば私たちはいつも喜び、すべてのことにおいて感謝することができるでしょうか。苦しいとき、何を喜び、何に感謝することができるでしょうか。

私たちは、神様が私たちをどのように見てくださっているかを思い起こし、それに感謝し、喜ぶことができます。つまり、神様が私たちをご覧になるとき、ご自分の似姿を見ておられるのです(創世記1:26ー27)。

また、私たちは神の祭司とされ、神様は私たちに「主の聖なるもの」という言葉を記してくださっています(出エジプト記36:28;申命記7:6;14:2;第一ペテロ2:5、9)。

そして、神のもの、神の祭司、神の民、神に愛されている子どもとして、私たちはいつでも神様の御前に出ることができます。神様が私たちを拒まれる恐れはまったくありません。

良いときでも、悪いときでも、勝利のときでも、苦しみのときでも、私たちは大胆に天の父に近づくことができます。

これこそが、私たちのための神の御心です。つまり、私たちが一瞬一瞬、神様と共に歩み、神様との関係を喜ぶことです。

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コロサイ人への手紙のデボーション

どうして祈るべきか?

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

どうして私たちは祈るべきなのでしょうか。パウロのこの指示の中に、私たちはいくつかの理由を見いだします。

「祈りつつ、目を覚ましていなさい。」

この言葉を読んで、私は弟子たちに対するイエス様の言葉を思い起こしました。

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マタイ26:41)

サタンがどのように私たちを攻撃しようとしているか分かるように、私たちは祈ります。

また、私たちは弱い者だから、祈ります。サタンの攻撃や試練に直面するとき、私たちは神様の力が必要なのです。

でも、それだけではなく、神様が私たちの周りで何をなさっているか分かるために、私たちは祈ります。そうすれば、神様から与えられる機会を十分に活かし、私たちは神様の働きに参加できます。(5節)

もうひとつの理由があります。

祈りは、神様が良い方であることを思い出すための時間です。祈るとき、私たちは神様の恵みとあわれみを思い出します。そして、神様の恵みとあわれみを覚えているにつれて、私たちは感謝と喜びをもって歩みます。

だから、毎日、目を覚ましていて、感謝に満ちて祈りましょう。

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伝道者の書のデボーション

悪に触れる世界での信仰

私たちが悪に満ちた世界に存在していることを否定することはできないでしょう。悪に触れない人は誰もいません。でも、悪に直面したら、どうすれば良いでしょうか。

今日の箇所では、私たちは三つの答えを見つけます。

1.この世の悪の理由を知るために、脳みそを絞ってはいけません。前回の記事でも言いましたが、イエス様以外では、ソロモンは最も賢明な人なのに、すべての悪の理由を知ることができませんでした。私たちも知ることができません。(伝導者の書8:16ー17)

2.神様が最終的に正義をもたらすことを信じましょう。(12ー13節)

この世で、正義を見ることができないかもしれません。(10ー11節)

でも、神様は良い方で、最終的に、全地をさばくお方は、公正を行います。(創世記18:25)

3.神様の知恵を求めましょう。

この世では、相手を傷つける力を持っている人々がいます。(9節)

私たちはクリスチャンかもしれませんが、人々に決して傷つけられないとは限りません。だから、どうすれば良いかを考えるとき、神様の知恵を求めるべきです。

私たちはいつ正義を求めるべきでしょうか。私たちはいつ相手にあわれみと恵みを与えるべきでしょうか。私たちはいつ、ただ正義を神様の手に委ねるべきでしょうか。その疑問に答えるために、私たちには神様の知恵が必要です。

だから、ソロモンはこう言いました。

知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。(5-6節)

4.喜ぶことを選びましょう。(15節)

いつも自分のトラブルに集中するなら、私たちは絶望の落とし穴に落ちてしまいます。でも、主は近いです。主は良い方です。だから、苦しみのとき、主とその慈しみに集中しましょう。

また、私たちの重荷を主に委ねるとき、神様が今までしてくださったことを感謝することを忘れないようにしましょう。

そうするにつれて、この世の悪に触れても、私たちは神様の平和を知ることになります。(ピリピ4:6ー7)

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ピリピ人への手紙のデボーション

感謝を忘れずに

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。。。

主は近いのです。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:4-7)

「感謝をもって。。。」

その小さな表現は私の注意を引きました。

私たちが思い煩うとき、祈りや願いはすぐに私たちの口から出てしまいます。

パウロは、「それはいけない」とは言いません。逆に、パウロは私たちが自分の祈りと願いによって、自分の願い事を神に知っていただくように促します。

でも、パウロはその小さな表現を加えます。

「感謝をもって。」

私たちは、自分の祈りと願いと共に、感謝の言葉も神様に捧げるべきです。

「感謝をもって」という言葉は、4節を指します。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4:4)

思い煩うときでも、喜びなさい。感謝しなさい。

主にあって喜びなさい。主の慈しみを喜びなさい。主の恵みを喜びなさい。十字架によって私たちが受けた赦しを喜びなさい。神様が私たちを自分の最愛の子供たちとして受け入れることを喜びなさい。

6節を意訳すると、私はこう言います。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を忘れず、むしろ、主にあって喜び、主の慈しみを喜びながら、ささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」

そうすれば、私たちの試練の中で、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(7)

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テモテへの手紙第ー

私たちが戦う前に

第1章では、パウロは無益な議論を引き起こす者たちを厳しく責めました。それらの議論は誤った教えに基づいており、エペソの人々を本来の使命から引き離してしまっていたのです。

もちろん、その使命とは、福音を宣べ伝えることです(テモテへの手紙第一1:3–6)。

そして第1章の結びで、パウロはテモテに対して、「神様の御国のために立派に戦い抜きなさい」と命じました。

この戦いの一部には、偽教師への対応も含まれます。しかしテモテは、改めて神様の働きに心を集中させる必要がありました。 というのも、テモテと彼の教会は、むなしい議論によってあまりにも多くの混乱に巻き込まれていたからです。

続く第2章の冒頭で、パウロはこの霊的な働きと戦いが、どこから始まるべきなのかを教えています。彼はこう語りました。

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。

それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。

そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(テモテへの手紙第一2:1-4)

私たちの使命は何でしょうか。それは、すべての人が救われ、真理を知るようになることです。これこそが、神様の御心なのです。

もちろん、すべての人が救われるわけではありません。けれども、それが神様の御心である以上、私たちもまた、そのことを願うべきです。

しかし、覚えておきましょう。この使命は、まず祈りから始まらなくてはなりません。私たちは、キリストを必要としている人々を見て、彼らのためにとりなさなくてはなりません。

私たちは、人々の物理的な必要のためにはよく祈ります。もちろん、それは大切なことです。けれども、私たちはどれほど、彼らの救いのために祈っているでしょうか。

私たちが愛する人々のために真剣に祈らない理由のひとつは、もしかすると、私たち自身が本当に地獄を信じていないからかもしれません。あるいは、地獄の存在は信じていても、その罰が永遠に続くものだとは信じていないのかもしれません。

しかし、もし私たちがそれを本当に信じているならば、大切な人たちの行き先について考えるときに、無関心な態度など取れるはずがありません。

神様は、決して無関心ではおられませんでした。だからこそ、神様は救いの計画を立てられたのです。そして、パウロはこう語っています。

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。(5-7)

私たちは皆、かつて罪の奴隷であり、永遠の死へと向かう道を歩んでいました。

けれども神様は、私たちを憐れんで、イエス様を送ってくださいました。イエス様は十字架にかかり、私たちの罪の負債を身代わりに支払い、私たちを贖い出してくださったのです。

「贖いの代価」とは、奴隷を買い取るために支払われる代価のことを意味します。イエス様はその代価を払って、私たちを罪の奴隷状態から解放してくださいました。

この救いの働きは、すでに完成しています。私たちに求められているのは、その賜物を信仰によって受け入れることだけです。 けれども、人々がこの救いの賜物を受け入れるには、まずその知らせを聞く必要があります。

そのために、神様はパウロを遣わされました。パウロは、神様の救いのメッセージを大胆に宣べ伝えました。

そして今、神様はパウロだけでなく、あなたをもまた、この使命のために遣わしておられるのです。

けれども私は、もう一度はっきりと言います。私たちの働きは、祈りから始めなければなりません。

愛する人々のために祈るとき、私たちはこう願うべきです。神様が、彼らの霊的な目と耳を開いてくださいますように。

また、私たちの政治家たちのためにも祈りましょう。神様が、彼らの霊的な目と耳をも開いてくださるように願うべきです。これは、私たちが福音をよりスムーズに宣べ伝えるために必要な祈りなのです。

しかし、私たちがしなければならないことは、もう一つあります。パウロはこう命じています。「すべての人のために感謝しなさい。」

私たちの愛する人々のために感謝するのは、比較的やさしいことです。けれども、好意を抱いていない人々のために感謝するのは、非常に難しいものです。

それでも、なぜ私たちは彼らのために感謝すべきなのでしょうか。

その理由は、感謝することによって、私たちが彼らを神様の目に尊い存在として見ることを思い出させられるからです。

私たちの目には彼らの嫌な態度や外見が映るかもしれません。けれども、イエス様がそのような人々のためにも死んでくださったことを、決して忘れてはなりません。

彼らのために感謝することによって、私たちは彼らをイエス様の目で見始めるようになるのです。

神様は、私たちをこの霊的な戦いへと召しておられます。ですから、祈りをもって、戦場へと進んでいきましょう。

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テサロニケ人への手紙第一

イエス様が帰って来られるから(2)

この手紙の締めくくりにおいて、 パウロは、イエス様の再臨を心に留めながら、 テサロニケの人々がどのように生きるべきかを教えています。

パウロはこう語ります。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5:16-18)

テサロニケの人々は、迫害を受けていました。 それでも、その苦しみのただ中で、パウロは彼らにこう語りました。

「神様が望んでおられるのは、あなたがたがいつも喜び、 絶えず祈り、どんなときにも感謝することです。」

その言葉を書いたとき、パウロは自分のピリピでの経験を思い出していたかもしれません。

テサロニケに行く前、パウロとシラスはピリピで鞭打たれ、牢に投げ込まれたのです。 では、彼らはそのとき、どう反応したでしょうか。 彼らは主にあって喜び、賛美歌を歌い、神様に感謝をささげました。

その結果、どうなったでしょうか? 神様は文字どおりその場所を揺り動かし、 パウロとシラスを解き放ち、 看守とその家族を救ってくださいました。

このような経験があったからこそ、 パウロはテサロニケの人々に対して、 同じように歩むことを勧めることができたのです。

そして彼は、さらに彼らに訓戒を与えました。

御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(19-22)

私たちは、どのようにして御霊とその働きを消してしまうのでしょうか。 最も大きな原因は、御霊の語りかけを聞かず、信頼しないことです。

イスラエルの民が約束の地を目前にしながら、 その御声に従おうとしなかった時、まさにそれが起こりました。 (ヘブル3:17−19)

ですからパウロは、こう語るのです。 「預言を軽んじてはいけません。」

今もなお、神様は人を通して語ることができます。 けれども私たちは、その人の語る言葉を吟味しなければなりません。 特に、その言葉が神様のみことばと一致しているかどうかを、 みことばに照らして確かめるべきです。

もし一致していれば、信じて受け取りましょう。 一致していなければ、拒むべきです。

しかし何よりも大切なのは、 神様が聖書を通して、あるいは人を通して語られるときに、 その声を無視してはならないということです。

その語りかけを退けてしまえば、 私たちは御霊を消すことになるのです。そして主の日に、神様はその責任をお問いになります。

最後に、パウロはこのように祈りました。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。(23)

そして、パウロは私たちに思い起こさせます。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24)

主が再び来られるのですから、 私たちは責められるところのない者として歩むべきです。

しかし、そのような人生を、自分の力だけで生きることはできません。 だからこそ、私たちは御霊の力に頼らなくてはならないのです。

ですから、聖霊様にすがりつきましょう。 御霊を消してはなりません。 むしろ、御霊に満たされて歩みましょう。

そうすれば、聖霊様は私たち自身をきよめるだけでなく、 私たちのまわりの人々にも、触れてくださるのです。

私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。(28)

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コリント人への手紙第二

人々が神様に栄光を帰すために

前回の記事でこのことに触れましたが、もう少し詳しく話したいと思います。つまり、神様の民の寛大さによって、彼らは神様に栄光を帰すのです。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。

この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。

そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。(コリント人への手紙第二9:11-14)

この箇所の重要なテーマの一つは、私たちの寛大さによって、周りの人々が神様に感謝することです。

彼らは、自分の必要が満たされたからだけでなく、神様が私たちを通して働いておられるのを見るゆえに、神様に感謝します。彼らは、私たちの人生に溢れるこの上なく豊かな恵みを目の当たりにし、その恵みが彼らの人生にも広がっていくのを見ます。

残念なことに、多くの人々はクリスチャンを見ると、偽善者のように感じることがあります。また、愛に欠ける人や冷淡な人として映ることもあります。

しかし、イエス様の恵みに触れた寛大なクリスチャンを見ると、彼らは天の父を垣間見るのです。その天の父は、「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。」(マタイ5:45)

だからこそ、私たちの姿を見ると、彼らは神様に栄光を帰し、神様に近づくのです。

イエス様はこう言いました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

光を輝かせる最も良い方法の一つは、人々に惜しみなく与えることです。

私たちがそうすると、ノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンも励まされます。

彼らは、神様が決して自分たちを見捨てず、変わらぬ愛を注いでくださることを知るのです。そして、他のクリスチャンが自分の信仰によって生きる姿を見ることで、彼らもまた、自分の信仰によって生きるように励まされます。

そして、パウロのように、彼らは言葉に尽くせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(15)

その賜物によって、人々の心は変えられ、神様から与えられた愛を周りの人々に惜しみなく分かち合い始めます。

あなたはどうでしょうか。あなたの寛大さによって、人々は神様に栄光を帰しているでしょうか。彼らはあなたの人生を通して神様を見て、感謝しているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

感謝

この箇所では、10人のツァラアトに冒された人々は一緒にイエス様の所に行きます。

もちろんツァラアトはつらい病気でしたけど、一つの良い点がありました。ツァラアトに冒された人々の間では、普段存在する壁は崩れました。

普通は、ユダヤ人とサマリヤ人は互いに憎み合いました。でも、その十人は病気のせいで、自分の民の間でのけ者になりました。だから、彼らがわっかったのは、彼ら皆がただの人間で、ユダヤ人とサマリヤ人には大差がないことです。

私たちもそのことを学ぶべきです。つまり、パウロはこう教えました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

私たちにどんな宗教的な背景があっても、どんな文化的な背景があっても、私たち皆は同じです。つまり、私たち皆は罪人です。そして、イエス様が私たちに触れてくれないと、私たちは死ぬとき永遠に神様から離れます。私たちの罪のせいで、私たちはのけ者になりましたから。

おまけに、その10人のように、私たちは自分自身を救うために何もできません。

その時代、ツァラアトの治療がなかったので、ツァラアトに冒された人は、何もできませんでした。

そのツァラアトに冒される人のように、私たちは一つのことしかできません。それは、神様様の憐れみを願うことです。

その十人はイエス様にこう叫びました。

イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。(ルカの福音書17:13)

イエス様は彼らを憐れんで、癒してくださいました。でも、彼らは信仰が必要でした。イエス様はその場で彼らを癒してくださいませんでした。むしろ、イエス様は彼らにこう言いました。

行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。(14)

そして、彼らは行く途中で癒されました。

このように、私たちがイエス様に信仰を置くときにのみ、私たちの罪は清められるのです。

彼らは自分が癒されたことを知ると、大喜びしました。ところが、サマリヤ人だけがイエス様のもとへ戻り、イエス様に感謝を捧げました。

イエス様はそれをご覧になり、こう尋ねられました。

十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(17-18)

イエス様は、私たちについてどれほど同じことを言われるでしょうか。私たちの罪を清めるために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様の恵みによって、私たちは永遠の死から救われました。

しかし、私たちはその救いをどれほど当たり前のものとして受け止めているでしょうか。

私はただ感謝の言葉について話しているのではありません。私たちの行動は、どれほどイエス様への感謝を表しているでしょうか。

イエス様は愛と恵みを私たちの人生に注いでくださいましたが、私たちはそれをただ享受しているだけでしょうか。それとも、その愛と恵みが私たちを通して周囲の人々に届いているでしょうか。私たちの人生は神様に栄光を帰しているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生はイエス様への感謝を映し出しているでしょうか。

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詩篇

救いの歌

イエス様がこの世に再臨される日に、クリスチャンたちが詩篇を歌うなら、多分この詩篇を歌うでしょう。なぜならこれは救いの讃美歌だからです。

多分、詩篇118篇の詩人よりも、この詩篇は私たちにとって意味があると思います。

新エルサレムに入る時、多分私たちはこう歌うでしょう。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

どうして私たちはそう歌うでしょうか。なぜなら、私たちが苦しんだ時、また私たちが自分の罪によって死にかけていて、神様に叫んだ時、神様は私たちを自由にしてくださったからです。

それに、毎日、神様は私たちを見守ってくださいます。人々は私たちの体を滅ぼすかもしれませんが、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だから詩人はこう歌いました。

主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。(6)

そして詩人はどのように神様の力によって敵を断ち切ったか歌います。そのように、神様は私たちにサタンに対する勝利を与えてくださいます。だから、私たちもこう歌います。

おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。

主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。。。

主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。(13-17)

時々、詩人のように、私たちは神様の懲らしめの手を見ることがあります。けれども、神様は私たちを滅ぼすために懲らしめるのではなく、私たちに命を与えるために懲らしめてくださいます。

だから、私たちはエルサレムの門に着くとき、門番にこう言えます。

義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。(19)

どうして、私たちにはその門に入られる確信があるでしょうか。それは、私たちが救いの基礎を知っているからです。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。

これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(22-23)

イエス様は私たちの救いの礎の石になりました。ユダヤ人たちはイエス様を拒絶しましたが、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは救いを見つけることができます。

だから、毎日私たちの希望が新しくなり、私たちは歌うことができます。

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(24)

そして、イエス様がエルサレムに来られたとき、人々が叫んだように、いつか私たちも歌います。「ホサナ。ああ、主よ。どうぞ救ってください。」(25)

けれども、私たちがそう歌う時には、もう救いが来るのを待っているのではなく、むしろ、私たちの救いを振り返ります。そして、もう一度、私たちは歌います。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(29)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。

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詩篇

神様についての二つの誤解

詩篇50篇の内容は、預言書の内容に似ています。そして、この箇所で、私たちは神様についての二つの誤解を見ます。

最初の部分では、神様は裁判所に入って、被告を喚問されます。その被告は誰でしょうか。モーセの律法の下にあるイスラエル人です。

けれども、ある日、私たちもキリストのさばきの座に行かなくてはなりません。この詩篇の警告に注意するべきです。

最初の神様についての誤解は、神様は宗教的な儀式だけを望まれることです。つまり、神様は供え物やいけにえだけを望まれます。しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。

森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。

わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。

わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。

わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。(詩篇50:9-13)

言い換えれば、神様はこう言っておられます。

「あなたは供え物やいけにえを捧げているが、その目的を理解していない。

私は飢えているわけでも、貧しいわけでもない。私は何も必要としていない。すべてのものはすでに私のものだから。もし食べ物が欲しければ、自分で取りに行くだろう。けれども、実際には、私は決して食べ物を必要としない。

私の空腹を満たすために、供え物やいけにえを求めているのではない。」

そして、神様はイスラエルに何を望んでおられるかを語られます。

感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(14-15)

つまり、こういうことです。「感謝の心を持ちなさい。あなたの神として、あなたの必要を備える方として、そしてあなたの救い主として、私を認めなさい。自分自身のために生きるのをやめなさい。自分の力と知恵に頼って生きるのをやめなさい。」

そして、神様は彼らを厳しく責められました。なぜなら、周りの人たちが見ると、表面的には彼らが敬虔に見えたからですが、実は心の中で彼らは神様を侮っていたからです。神様は彼らにこう言われました。

しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。

おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。

おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。

おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。

おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。(16-20)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは正しいことを語り、私を敬う言葉を口にします。けれども、そのあとで、自分の道を歩んでいくのです。」

多くのクリスチャンはその通りです。日曜日に、彼らは教会に行き、祈ったり、賛美したりしますが、月曜日から土曜日まで自分が好きなように生きます。

神様はあなたの宗教的な外見に感動しません。どんなに教会に通っても、それだけでは感動しません。たくさん献金を捧げても、感動しません。たくさん聖書の箇所を暗記しても、心を動かされることはありません。

神様はあなたの心を望まれます。神様があなたの心を持たないなら、あなたは神様を喜ばせることはできません。

そして、神様は二つ目の誤解について話されます。

こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。

神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。(21-22)

つまり、神様はこう言っておられます。「あなたが悪を行っていた時、私は何も言いませんでした。だから、あなたは私がその行動を認めていると思ったのでしょう。しかし、実は私は忍耐して、あなたが悔い改めるのを待っていたのです。

けれども、もし悔い改めなければ、あなたには裁きが下ります。その時には、もう悔い改める機会は失われてしまうのです。」

そして、神様は最初の言葉に戻られます。

感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。(23)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。救いを得るための最初のステップは、神様を神様として認めることです。私たちが神様から独立して生きることを止めなくてはなりません。

むしろ、感謝の心を持って、へりくだって神様の前に生きるべきです。そうすれば、キリストにあっての救いのために私たちの心が整えられます。

裁きの日が来ます。だからヤコブはこう言いました。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:10)

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エステル記

神様の慈しみを祝う

祝宴。喜び。祝い。

この箇所では、何度もこれらの言葉を目にします。なぜなら、ユダヤ人が自分たちを敵から自衛した後、その救いと勝利を祝ったからです。

そして、モルデカイとエステルは、イスラエルの歴史で初めて、モーセの律法によって要求されていない祭りを始めました。それがプリムという祭りです。その祭りを説明するとき、彼らはこう言いました。

また、この両日は、代々にわたり、すべての家族、諸州、町々においても記念され、祝われなければならないとし、これらのプリムの日が、ユダヤ人の間で廃止されることがなく、この記念が彼らの子孫の中でとだえてしまわないようにした。(エステル記9:28)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。それは、私たちが神様の祝福と慈しみを決して忘れてはいけないということです。また、次の世代に神様の御業を伝えるべきだということです。

多くの場合、私たちが祈ると、神様はその祈りに応えてくださいます。私たちは感謝しますが、すぐにその祝福を忘れてしまうことがあります。

モルデカイとエステルは、ユダヤ人がその祝福を忘れることを望みませんでした。だからこそ、その新しい祭りを始めました。

同じように、神様があなたを祝福された時には、そのことを決して忘れないでください。例えば、その祝福について日記を書くのも良いでしょう。

または、祈りのリストを作ることもできます。そのリストがあれば、神様がどのように答えてくださったのかも記録してください。

そして、例えば、クリスマスの時、そのリストや日記を振り返り、何が書かれているかを読み返し、もう一度神様に感謝しましょう。そして、子供たちに神様がしてくださったことを教えるのも大切です。

けれども何よりも、イエス様がこの世に来て、私たちの罪のために死んでくださったことを思い出し、感謝しましょう。イエス様の働きを当たり前のこととして考えるのは簡単ですが、イエス様は私たちのために本当に高い代価を払われました。

だからこそ、特にクリスマスやイースターの時に、あなたの救いを喜び祝いましょう。しかし、それらの日だけでなく、一年を通して祝い続けましょう。

ダビデはこう書きました。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)