第1章では、パウロは無益な議論を引き起こす者たちを厳しく責めました。それらの議論は誤った教えに基づいており、エペソの人々を本来の使命から引き離してしまっていたのです。
もちろん、その使命とは、福音を宣べ伝えることです(テモテへの手紙第一1:3–6)。
そして第1章の結びで、パウロはテモテに対して、「神様の御国のために立派に戦い抜きなさい」と命じました。
この戦いの一部には、偽教師への対応も含まれます。しかしテモテは、改めて神様の働きに心を集中させる必要がありました。 というのも、テモテと彼の教会は、むなしい議論によってあまりにも多くの混乱に巻き込まれていたからです。
続く第2章の冒頭で、パウロはこの霊的な働きと戦いが、どこから始まるべきなのかを教えています。彼はこう語りました。
そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。
そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(テモテへの手紙第一2:1-4)
私たちの使命は何でしょうか。それは、すべての人が救われ、真理を知るようになることです。これこそが、神様の御心なのです。
もちろん、すべての人が救われるわけではありません。けれども、それが神様の御心である以上、私たちもまた、そのことを願うべきです。
しかし、覚えておきましょう。この使命は、まず祈りから始まらなくてはなりません。私たちは、キリストを必要としている人々を見て、彼らのためにとりなさなくてはなりません。
私たちは、人々の物理的な必要のためにはよく祈ります。もちろん、それは大切なことです。けれども、私たちはどれほど、彼らの救いのために祈っているでしょうか。
私たちが愛する人々のために真剣に祈らない理由のひとつは、もしかすると、私たち自身が本当に地獄を信じていないからかもしれません。あるいは、地獄の存在は信じていても、その罰が永遠に続くものだとは信じていないのかもしれません。
しかし、もし私たちがそれを本当に信じているならば、大切な人たちの行き先について考えるときに、無関心な態度など取れるはずがありません。
神様は、決して無関心ではおられませんでした。だからこそ、神様は救いの計画を立てられたのです。そして、パウロはこう語っています。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。(5-7)
私たちは皆、かつて罪の奴隷であり、永遠の死へと向かう道を歩んでいました。
けれども神様は、私たちを憐れんで、イエス様を送ってくださいました。イエス様は十字架にかかり、私たちの罪の負債を身代わりに支払い、私たちを贖い出してくださったのです。
「贖いの代価」とは、奴隷を買い取るために支払われる代価のことを意味します。イエス様はその代価を払って、私たちを罪の奴隷状態から解放してくださいました。
この救いの働きは、すでに完成しています。私たちに求められているのは、その賜物を信仰によって受け入れることだけです。 けれども、人々がこの救いの賜物を受け入れるには、まずその知らせを聞く必要があります。
そのために、神様はパウロを遣わされました。パウロは、神様の救いのメッセージを大胆に宣べ伝えました。
そして今、神様はパウロだけでなく、あなたをもまた、この使命のために遣わしておられるのです。
けれども私は、もう一度はっきりと言います。私たちの働きは、祈りから始めなければなりません。
愛する人々のために祈るとき、私たちはこう願うべきです。神様が、彼らの霊的な目と耳を開いてくださいますように。
また、私たちの政治家たちのためにも祈りましょう。神様が、彼らの霊的な目と耳をも開いてくださるように願うべきです。これは、私たちが福音をよりスムーズに宣べ伝えるために必要な祈りなのです。
しかし、私たちがしなければならないことは、もう一つあります。パウロはこう命じています。「すべての人のために感謝しなさい。」
私たちの愛する人々のために感謝するのは、比較的やさしいことです。けれども、好意を抱いていない人々のために感謝するのは、非常に難しいものです。
それでも、なぜ私たちは彼らのために感謝すべきなのでしょうか。
その理由は、感謝することによって、私たちが彼らを神様の目に尊い存在として見ることを思い出させられるからです。
私たちの目には彼らの嫌な態度や外見が映るかもしれません。けれども、イエス様がそのような人々のためにも死んでくださったことを、決して忘れてはなりません。
彼らのために感謝することによって、私たちは彼らをイエス様の目で見始めるようになるのです。
神様は、私たちをこの霊的な戦いへと召しておられます。ですから、祈りをもって、戦場へと進んでいきましょう。