ミニストリー、つまり奉仕をする際、自分自身に焦点を当てるのは容易なことです。
例えば、私たちは次のように考え始めます。
「奉仕をすれば、私はどんな益を受けるのだろうか。私への尊敬はどこにあるのだろうか。経済的な報いはどこにあるのだろうか。」
しかし、パウロの心には、説教への強い熱意がありました。彼はこう語りました。
私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。(コリント人への手紙第一9:16)
パウロの言葉を読むと、私は預言者エレミヤの言葉を思い出します。
私が、「主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない」と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。(エレミヤ書20:9)
だから、神様のメッセージを伝えるべきかどうかを考えるとき、パウロもエレミヤも経済的な報いや、人々からの尊敬を計算することはありませんでした。もしそのメッセージを伝えなかったなら、彼らは惨めな思いをしたでしょう。
そして、パウロはさらに説明しました。
私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。(17)
パウロは何を伝えたかったのでしょうか。彼にとって、喜びに満ちた心から、そして主と人への愛を持つ心から福音を語ること自体が報いでした。
18節で、パウロは福音を宣べ伝える際、無報酬で提供することこそが報いであると述べています。なぜ彼はそのように感じたのでしょうか。それは、無報酬で福音を提供することで、御国に入る人が増えたからかもしれません。
現代と同じように、一部の人々はパウロの動機を疑いました。彼らは、パウロが金銭的な利益を求めているのではないかと思ったのです。
けれども、パウロは彼らにこう語りました。「私はあなたからお金を求めていません。私があなたに与えたいものは、神様の赦しと永遠のいのちです。」
さらに、人々がパウロを見たとき、彼らは自分の利益を求める人物ではなく、仕えることを望む人物を見ました。人々に仕えるため、パウロは常に自らの権利を手放しました。
その結果、多くの人々が御国に入ることができ、パウロは大いに喜びました。(19-23)
それだけではなく、パウロは、主が喜んでおられることを知っていました。
しかし、人を愛していなくても、福音を伝えたい気持ちがなくても、パウロは福音を宣べ伝えなければなりませんでした。なぜなら、神様が彼にその責任を託されたからです。
そして、もしパウロがその使命を果たさなかったなら、神様は彼に責任を問われたでしょう。
タラントのたとえ話に、その原則を見ることができます。あるしもべは、主人を愛することなく、むしろ恐れていました。
だからこそ、主人が彼にお金を預けたとき、そのしもべはそれを投資せずに地中に埋めてしまいました。そして結局、主人はそのしもべの責任を問いました。(マタイ25:24-30)
エレミヤもまた、その責任を強く感じていました。エレミヤ書20章を見ると、彼の奉仕が常に自発的なものではなかったことがわかります。
エレミヤは、神様が自分を正しく扱っていないと不満を述べ、また、イスラエルの民からの迫害について嘆きました。(20:7-8)
それでも、エレミヤは神様のメッセージを伝え続けました。なぜなら、主のことばは彼の心のうちにあり、骨の中に閉じ込められた燃えさかる火のようになり、彼はそれを抑えきることができなかったからです。
パウロと同じように、エレミヤもそのメッセージを語らなければなりませんでした。もしそうしなかったなら、彼は災いを招いたことでしょう。
とはいえ、心から仕えることは、何よりも価値のあることです。「しなければならない」という義務感ではなく、「仕えたい」という心が大切です。
そのような心を持つなら、私たちの人生はより充実したものとなり、ミニストリーも喜びをもたらすものとなるでしょう。
何よりも、主にお会いする時、私たちはその報いを受けるのです。
あなたはどうでしょうか。どのような心で仕えますか?
