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コリント人への手紙第一

ミニストリーへの私たちの態度

ミニストリー、つまり奉仕をする際、自分自身に焦点を当てるのは容易なことです。

例えば、私たちは次のように考え始めます。

「奉仕をすれば、私はどんな益を受けるのだろうか。私への尊敬はどこにあるのだろうか。経済的な報いはどこにあるのだろうか。」

しかし、パウロの心には、説教への強い熱意がありました。彼はこう語りました。

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。(コリント人への手紙第一9:16)

パウロの言葉を読むと、私は預言者エレミヤの言葉を思い出します。

私が、「主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない」と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。(エレミヤ書20:9)

だから、神様のメッセージを伝えるべきかどうかを考えるとき、パウロもエレミヤも経済的な報いや、人々からの尊敬を計算することはありませんでした。もしそのメッセージを伝えなかったなら、彼らは惨めな思いをしたでしょう。

そして、パウロはさらに説明しました。

私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。(17)

パウロは何を伝えたかったのでしょうか。彼にとって、喜びに満ちた心から、そして主と人への愛を持つ心から福音を語ること自体が報いでした。

18節で、パウロは福音を宣べ伝える際、無報酬で提供することこそが報いであると述べています。なぜ彼はそのように感じたのでしょうか。それは、無報酬で福音を提供することで、御国に入る人が増えたからかもしれません。

現代と同じように、一部の人々はパウロの動機を疑いました。彼らは、パウロが金銭的な利益を求めているのではないかと思ったのです。

けれども、パウロは彼らにこう語りました。「私はあなたからお金を求めていません。私があなたに与えたいものは、神様の赦しと永遠のいのちです。」

さらに、人々がパウロを見たとき、彼らは自分の利益を求める人物ではなく、仕えることを望む人物を見ました。人々に仕えるため、パウロは常に自らの権利を手放しました。

その結果、多くの人々が御国に入ることができ、パウロは大いに喜びました。(19-23)

それだけではなく、パウロは、主が喜んでおられることを知っていました。

しかし、人を愛していなくても、福音を伝えたい気持ちがなくても、パウロは福音を宣べ伝えなければなりませんでした。なぜなら、神様が彼にその責任を託されたからです。

そして、もしパウロがその使命を果たさなかったなら、神様は彼に責任を問われたでしょう。

タラントのたとえ話に、その原則を見ることができます。あるしもべは、主人を愛することなく、むしろ恐れていました。

だからこそ、主人が彼にお金を預けたとき、そのしもべはそれを投資せずに地中に埋めてしまいました。そして結局、主人はそのしもべの責任を問いました。(マタイ25:24-30)

エレミヤもまた、その責任を強く感じていました。エレミヤ書20章を見ると、彼の奉仕が常に自発的なものではなかったことがわかります。

エレミヤは、神様が自分を正しく扱っていないと不満を述べ、また、イスラエルの民からの迫害について嘆きました。(20:7-8)

それでも、エレミヤは神様のメッセージを伝え続けました。なぜなら、主のことばは彼の心のうちにあり、骨の中に閉じ込められた燃えさかる火のようになり、彼はそれを抑えきることができなかったからです。

パウロと同じように、エレミヤもそのメッセージを語らなければなりませんでした。もしそうしなかったなら、彼は災いを招いたことでしょう。

とはいえ、心から仕えることは、何よりも価値のあることです。「しなければならない」という義務感ではなく、「仕えたい」という心が大切です。

そのような心を持つなら、私たちの人生はより充実したものとなり、ミニストリーも喜びをもたらすものとなるでしょう。

何よりも、主にお会いする時、私たちはその報いを受けるのです。

あなたはどうでしょうか。どのような心で仕えますか?

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コリント人への手紙第一

どのような心で主に仕えるか?

ある程度、私は前回のブログの内容を繰り返します。しかし、今回は特に強調したい点があります。

まず第一に、神様と共に働くことは私たちの特権です。パウロは次のように語りました。

私たちは神のために働く同労者であります。(コリント人への手紙第一3:9)

聖書の脚注を参考にすると、別の訳を見ることができます。

「私たちは神の協力者。」

この言葉について少し考えてみましょう。神様は実際には私たちの助けを必要とされません。神様は一人でご自身の働きを成すことができます。

しかし、神様は私たちを用いることを選ばれます。そして、神様は私たちをその働きに参加するよう招いておられます。それは本当に驚くべきことです。

神様が私たちを救われた目的は、単に座って神様の恵みを享受することではありません。神様は、私たちが御国において積極的に働くことを望まれます。

だから、神様は私たちを招いておられます。「私の働きに参加しませんか。一緒に働きましょう。」

しかし、二つ目のポイントは、神様が私たちを招かれる目的が、私たちの栄光ではないということです。パウロは次のように語りました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。

あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。(5)

しもべは周囲の人々の注意を引こうとはしません。本当に良いしもべは、人に気づかれることがありません。それでも、その人は与えられた務めを忠実に果たします。

そして、一日の終わりに、その人はこう言います。

私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです。(ルカ17:10)

この世の主人はしもべを評価しないかもしれず、あるいは見下すことさえあるかもしれません。しかし、神様は私たちを協力者として見なされ、私たちと共に働かれます。

なぜなら、神様が私たちの人生の中で働かれず、また私たちを通して働かれなければ、私たちは何も達成することができないからです。だから、パウロは次のように書きました。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(6)

したがって、私たちには誇るべき余地はありません。パウロは続けてこう言います。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(7)

最後に覚えておくべきことは、神様の働きに参加する人々は教会のリーダーたちの労働者ではないということです。彼らは神様の畑であり、神様の建物なのです。(9)

多くの人々は、ミニストリーの縄張りを作りがちです。同じミニストリーに携わっていると、それを自分の縄張りと考え、そこで働く人々を自分の労働者のように思い始めてしまうことがあります。

しかし、主はそれぞれの人々に働きを任命されます。そして、主は常に人々をその働きに参加するよう招いておられるため、新しい人々が加わると、既存の人々の責任が変わることもあります。それは御国の成長のためなのです。

しかし、イエス様が他のクリスチャンを招くとき、あるクリスチャンは怒ることがあります。なぜなら、新しく加わった人々が自分の縄張りを脅かしていると感じるからです。

そして、もしその人々がより才能に恵まれていたなら、彼らは嫉妬してしまうでしょう。

しかし、心に留めておきましょう。すべてのクリスチャンはキリストの体の中で、それぞれの役割を持っています。神様は一人ひとりに異なる働きを与えてくださいました。

私たちはもちろん神様と共に働きますが、同時に他のクリスチャンたちと協力して働くのです。

だからこそ、縄張り意識と嫉妬を手放しましょう。教会は神様の畑であり、神様の建物なのです。

何よりも、私たちは神様との関係に焦点を当てるべきです。神様が私たちをご自身の働きに招く理由は、私たちが神様とより多くの時間を過ごすことです。その中でこそ、私たちは本当の喜びを見つけるのです。

あなたは神様の働きをするとき、どのような心構えを持っていますか。

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使徒の働き

み言葉に専念する?

数年前、私の友人はFacebookで記事を掲載しました。そのタイトルは「教会をやめた人」でした。

その記事には、ある敬虔なクリスチャン—つまり、聖書をよく学び、惜しげもなく献金をささげ、熱心に人々を導いていたクリスチャンが、教会をやめてしまったという話が書かれていました。

その人は信仰を捨てたわけではなかったようです。それでも、教会を去りました。その人は「教会の中で、私は最も積極的な人の一人だったし、最も忠実な人の一人だった」と言っていたにもかかわらず、教会をやめました。

その人はいくつかの理由を挙げていたので、私は今後数日にわたり、そのことについて話したいと思います。

正直に言えば、私の愛する人々がその著者の意見に同意すると聞くと、本当に悲しくなります。

その著者の最初の理由は、「私は牧師のメッセージを何百回も聞いたので、もうわかっているし、訓戒されるのはもう嫌だ」ということでした。

けれども、この箇所では、教会の模範、またクリスチャンの生活の模範が示されています。

今日は、一つのことに焦点を当てたいと思います。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り[ました]。(使徒の働き2:42)

新改訳では、「使徒たちの教えを守る」と書かれていますが、「守る」と訳された言葉にはさまざまな意味があります。

そのため、翻訳者は使徒の働き1:14で、その言葉を「専念する」と訳しました(これは第3版です)。

また、使徒の働き6:4では、その言葉を「励む」(第3版)、または「専念する」(第4版)と訳しています。

要するに、この箇所を次のように訳すことができます。「彼らはいつも使徒たちの教えに専念しました。」

多くの英語の聖書では、42節はこのように翻訳されています。

とにかく、初期のクリスチャンたちは神様の言葉に熱心でした。彼らはその言葉を知りたいと願いました。彼らはその言葉に従いたいと思いました。

だから、「訓戒されるのはもう嫌だ」と言う人に、私はこう訊きたいと思います。

「あなたはみ言葉にどれだけ専念しているでしょうか。聖書が本当に神様のみ言葉であると信じていますか?使徒の働きの時代のクリスチャンのように、あなたはみ言葉に対する強い熱心を持っていますか?

それとも、聖書の教えはもう古臭いと感じていますか?その教えはあなたの人生に関係ないと思いますか?」

もちろん、説教する際に人を見下す牧師もいます。彼らは「すでに到達した」という態度を示すかもしれません。その場合、私は教会をやめた人の言い分を理解できます。

とはいえ、それは本当の問題でしょうか。

少し自分自身に、次の質問をしてみてください。

「私が聖書を読んで、聞きたくないことを目にしたとき、私は訓戒されていると感じるだろうか。」

残念ながら、多くのクリスチャンは聖書を読むとき、好きな箇所だけを選び、聞きたくない言葉が含まれる箇所を避けてしまいます。

その結果、教会に行くと「私は訓戒されている」と感じてしまうのです。

しかし、私たちがクリスチャンなら、み言葉に専念しなければなりません。励ましや慰めの言葉であれ、挑戦や訓戒の言葉であれ、私たちはそのすべてに専念すべきです。

「何百ものメッセージを聞いたし、もうわかっている」という言い分に関して、私たちは自分自身に同じような質問をするべきだと思います。

聖書を読むとき、私はもう何も学ぶことがないのでしょうか。すでにすべてを読んだから、すべてを知っているのでしょうか。それとも、神様は今もなお、その言葉を通して私に語り続けておられるのでしょうか。

正直に言うと、「もう全部読んだことがあるし、メッセージの内容を聞いたことがある」という感覚はよくわかります。それでも、二つのことを伝えたいと思います。

一つ目は、私が40年来のクリスチャンですが、今でも学び続けているということです。聖書を読むときや、日曜日のメッセージを聞くとき、神様が私に新しいことを示してくださることもあります。その時、私は本当に興奮します。

二つ目は、あなたは同じことを何回も聞いたことがあるかもしれません。けれども、その言葉に従っていますか?その言葉は、あなたの頭から心へと移動したでしょうか。

例えば、あなたは許しのメッセージを何回も聞いたことがあるでしょう。でも、あなたを傷つけた人をすでに許してあげましたか?

また、怒りや苦々しい思いを手放すことの大切さについて聞いたことがあるでしょう。その怒りと苦々しい思いを、もう手放しましたか?

要するに、あなたの人生の中で、神様の言葉は生きていて、力を持ち、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるほどに刺し貫き、あなたの心の思いや計画を見分けていますか。(へブル4:12)

それとも、その言葉はあなたの左の耳に入り、右の耳から抜けていくのでしょうか。

もちろん、私はあなたの経験をよく知りませんし、教会をやめた人の経験も知りません。

もし、あなたの牧師がいつも皆さんを見下しながら説教しているのなら、別の教会に行った方がいいかもしれません。

しかし、それが本当の問題でしょうか。

あるいは、問題は神様のみ言葉に対するあなたの態度にあるのでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ20章 マルコの福音書 マルコ10章

全く違う態度

前回の記事で述べたように、イエス様は弟子たちにはっきりとご自分のミッションを説明されましたが、彼らはまだ理解していませんでした。

彼らは、なぜイエス様がこの世に来られたのか、また、間もなく訪れる試練について理解していませんでした。

もし彼らがそのことを正しく理解していたなら、おそらくヤコブとヨハネ(そして彼らの母親)は、イエス様にこの願いをしなかったでしょう。彼らは次のように頼みました。

あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。(マルコ10:37)

イエス様はその願いを聞いて、どのように感じられたでしょうか。その直前に、イエス様は彼らに「私はすぐに殺される」と語られたばかりでした。

それにもかかわらず、弟子たちは自分たちの地位のことを気にしていたのです。そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができますか。(マルコt10:38)

つまり、「私の話を全然聞いていないのですか。私は死にます。あなたたちは私の右と左で死にたいと思うのですか」ということです。

それがイエス様が意味されたことでした。けれども、いつものように、ヤコブとヨハネはその言葉を完全に誤解しました。そのため、彼らは「できます」と答えたのです。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。(39)

実際、その二人は後にイエス様のために大きな苦しみを経験しました。ヤコブは殉教し、ヨハネは追放されました。

それでも、イエス様は彼らにこう言われました。

しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。(40)

他の弟子たちはヤコブとヨハネの願いを聞くと、本当に怒りました。なぜでしょうか。ヤコブとヨハネがイエス様の感情を全く考えなかったからでしょうか。

いいえ、そうではありません。おそらく、彼ら自身がヤコブやヨハネよりも、自分たちのほうが資格があると思っていたからでしょう。

それでも、イエス様は彼らを集めて、こう言われました。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコ10:42-45)

要するに、イエス様はこう言われていました。

「あなたたちは自分自身の態度を変えなくてはなりません。

あなたたちは、私の王国においてどのような位置を持つかを心配しています。それは、偉い人が楽な人生を送るものだと思っているからです。あなたたちは、周りの人々に命令し、彼らがあなたたちに仕えるだろうと思っています。

けれども、私の王国では、それが偉い人ではありません。もしあなたたちが偉くなりたいのであれば、人々に仕えなければなりません。そして、もし先頭に立ちたいのであれば、皆のしもべにならなければなりません。

なぜなら、私は仕えられるために来たのではないからです。私は人々に仕えるために来たのです。さらに、私は彼らのために命を捧げるために来たのです。」

実際、私自身もそのような態度が必要です。私はしばしば自分自身を他の人々と比べたり、競争したりしてしまいます。けれども、ミニストリーにおいて、そのような態度は適切ではありません。私たちは仕える心が必要です。

この態度はミニストリーだけでなく、私たちの日常生活にも欠かせないものです。

職場では、私たちは同僚や顧客に仕えるべきです。

家庭では、夫たちは妻や子供に仕える心を持たなければなりません。

正直に言うと、この三つの場面において、私はよく失敗します。

それゆえ、ある古い英語の讃美歌が、私の祈りそのものです。

また、「The Witness」(目撃者)というクリスチャンのミュージカルの中で、ヤコブとヨハネは次のように歌いました。

Lord make me like you.  Please make me like you.
主よ、私をあなたのように変えてください。
You are a servant.  Make me one too.
あなたはしもべです。私もしもべとなれるようにしてください。
O Lord I am willing.
主よ、私の心は開いています。
Do what you must do to make me like you Lord.
あなたがしなければならないことをどうぞしてください、私があなたのようになれるように。
Make me like you.
あなたのように私を変えてください。
Whatever you do Lord, please make me like you.
何をされても、どうしても私をあなたのように変えてください。