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創世記のデボーション

私たちを見て、慰めてくださる神

私にとって驚くべきことは、同じ聖書の箇所を何度も読んでいても、時々その意義にまったく気づかないということです。

今日の箇所を何度も読んだことがありますが、今日、以下の聖句が初めて私の目に留まりました。

一方イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのであった。(創世記24:62)

それは、あまり目立たない聖句でしょう。

でも、それを読んで、「たしか、ベエル・ラハイ・ロイという地名を読んだことがある」と思いました。

そして、創世記16章を読んで、「やっぱり」と思いました。ベエル・ラハイ・ロイという所で、ハガルは神様に出会いました。その時、ハガルはサラから逃げていました。

神様に出会ったあと、ハガルは神様を「エル・ロイ」と呼びました。その名前の意味は、「私を見てくださる神」ということです。ベエル・ラハイ・ロイとは、「生きて私を見てくださる方の井戸」を意味します。

もしかしたら、その所にいるとき、イサクはこう祈ったかもしれません。

「神様。私の兄イシュマエルのお母さんであるハガルがここにいた時、あなたはハガルと共におられました。ハガルが本当に苦しんでいた時、あなたは彼女を見てくださいました。

でも今、苦しんでいるのは、私です。母が亡くなり、私はとても寂しいのです。あなたは、私も見てくださるでしょうか。私と共におられるでしょうか。」

神様は、そうしてくださいました。神様の恵みによって、ご自身の素晴らしいタイミングで、リベカをイサクのもとに導いてくださいました。その時、

イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。(創世記24:67)

クリスマスは喜ぶときであるはずです。でも、ある人にとって、クリスマスはとても辛い時です。特に、今年、あなたの愛する人が亡くなった場合、本当に辛いでしょう。

でも、心に留めてください。神様は「エル・ロイ」です。神様はあなたを見てくださいます。また、イエス様は「インマヌエル」です。イエス様はあなたと共におられる神です。

だから、あなたが苦しんでいるなら、神様のもとに行ってください。

神様は、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神です。そして、どのような苦しみのときにも、神様は私たちを慰めてくださいます。(第ニコリント1:3–4)

さらに、神のひとり子であるイエス様はあなたと共におられます。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6)

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テモテへの手紙第ー

悲しんでいても

夫や妻を亡くすという経験ほど、心を深く痛めることはそう多くありません。そして、そのような出来事が起きると、深い悲しみの中で人生のバランスを失い、信仰さえも見失ってしまいやすくなります。

もしかすると、エペソのやもめたちも、そのような誘惑に直面していたのかもしれません。

あるやもめたちは悲しみと孤独から再婚を望みましたが、ノンクリスチャンの男性と結婚してしまいました。その結果、イエス様に背を向けてしまい、夫の偶像を拝むようになってしまったのです(テモテへの手紙第一5:11-12節)。

また他のやもめたちは、教会からの経済的援助を受けていながらも怠けてしまい、うわさ話やおせっかいに時間を費やしていたようです(13節)。

このような事情があったからこそ、パウロはテモテにこう語ったのです。

ですから、私が願うのは、若いやもめは(クリスチャン)と結婚し(第一コリント7:39)、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。(テモテへの手紙第一5:14)

パウロの指示は、私たちにもどのように当てはまるのでしょうか。現代では、そのような言葉が男尊女卑的に聞こえることがあるかもしれません。女性の目的は、自分の家庭だけに限定されるべきなのでしょうか。決してそうではありません。

コリントの女性たちは、エペソの女性たちが陥ったような罪に落ちていなかったため、パウロは彼女たちにシングルの生活を勧めました。なぜなら、彼女たちは独身であることで、より集中してイエス様に仕えることができたからです。(第一コリント7:32〜40)

おそらくパウロの願いは、やもめたちが自分の悲しみに支配されないことでした。彼は、彼女たちがその悲しみの中で愚かな決断をすることなく、信仰を捨ててしまわないようにと願っていたのです。なぜなら、もし彼女たちがその悲しみに支配されてしまえば、自分の人生を無駄にしてしまうからです。

だからパウロは彼女たちに語りました。「あなたは今、深い悲しみの中にいるかもしれません。しかし、あなたの人生はまだ終わっていません。神様はあなたのために、なお良い計画を持っておられます。それを忘れないでください。

愚かな決断を避け、あなたの人生を無駄にしないでください。むしろ、神様があなたに与えておられる目的を果たしなさい。」

パウロは若いやもめたちのことを考えていましたが、年配のやもめたちのことも心に留めていました。彼は、良い行いによって認められているやもめたちだけを支えるように教会に勧めていました。

教会は、自分勝手に生きているやもめたちを支えるべきではありませんでした。むしろ、やもめたちが悲しみの中にあっても、神様の彼女たちのための目的を思い出し、神様に仕え続けるならば、教会はそのような人をこそ支えるべきなのです。

では、あなたはどうでしょうか。悲しみの中で、自分のことだけを考えてはいませんか。その悲しみによって、愚かな決断をしてしまってはいませんか。その痛みのゆえに、神様から心が離れてしまってはいませんか。

神様があなたを愛しておられることを思い起こしましょう。あなたが若くても、年を重ねていても、神様はあなたのために良いご計画を持っておられます。

だからこそ、その悲しみのただ中で、イエス様を仰ぎましょう。イエス様が、あなたのために今もご計画を持っておられることを覚えていましょう。神様がその目的を明らかにしてくださるように祈りましょう。毎日、神様と共に歩みましょう。

そうすれば、すべての慰めと平和の神は、あなたと共におられ、あなたを癒やしてくださいます。

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コリント人への手紙第二

自分のことに焦点を当てないこと

この箇所を読むと、私はパウロがキリストの模範に従っていたことに気づきました。

もし、イエス様がただ快適な生活を送ることに関心があったなら、この世には来られなかったでしょう。

飼葉おけに寝ることもなかったでしょう。貧しい大工の家で成長することもなかったでしょう。枕する所のない日々を経験することもなかったでしょう。そして、十字架へと向かうこともなかったでしょう。

しかし、イエス様はそれらすべてを経験されました。なぜでしょうか。

それは、私たちの慰めと救いのためです。

私たちは罪のゆえに、また、この世の悪のために、惨めな存在でした。さらに、破滅へと向かう道を歩んでいました。イエス様はその状況をご覧になり、天国の安楽な生活を捨てて、私たちのために苦しみを選ばれました。

パウロはイエス様の模範を見て、従いました。

コリントの人々や他の人々のために、彼は遭難や投獄、飢えや迫害を経験しました。なぜでしょうか。それは、彼が自分の楽な人生に焦点を当てず、むしろ周囲の人々の苦しみと必要に目を向けていたからです。

また、パウロが慰めを受けたときも、彼はただ自分自身に焦点を当てることはありませんでした。

彼の願いは、コリントの人々が彼の経験を見ることで励まされることでした。

つまり、彼らがこの世の試練はつらくても、一時的なものであることを理解することです。なぜなら、彼らは、パウロ自身も試練の中で神様の平安と喜びを知ったことを見たからです。

だからこそ、コリントの人々は、自分たちの試練の中で、最終的に慰めを受けるという希望を持つことができたでしょう。そして、その希望が彼らに耐える勇気を与えたのです。

自己中心になることは簡単です。神様の愛をスポンジのように吸収し、ただ楽な人生を望むことは簡単です。

しかし、神様は私たちがそのような態度を取ることを望んでおられません。むしろ、神様は私たちがイエス様の模範に従い、たとえ苦しみが伴うとしても、自分の快適な生活を手放し、周囲の人々の救いのために働くことを望んでおられます。

とはいえ、イエス様の視点を持たなければ、私たちは決してそのように生きることはできないでしょう。

イエス様は周囲の人々の苦しみをご覧になりました。だからこそ、十字架へと進んで行かれたのです。

あなたはイエス様の視点を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

試練の中の慰め

これは、聖書の中で私が最も好きな箇所のひとつです。パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(コリント人への手紙第二1:3-5)

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様が本当に私たちを愛しているのか疑問に思うことがあります。しかし、パウロによれば、神様は「あわれみ深い父」です。

つまり、神様は私たちの苦しみを見ても無関心ではありません。むしろ、憐れみに満ちた心をもって、深く私たちを思っておられます。

イエス様も、苦しむイスラエルの人々を見たとき、同じ心を持っておられました。福音書の著者たちは何度も「イエスは深くあわれみ…」と記しています。

この点において、イエス様は天の父の性格を完全に映し出しておられます。

さらに、パウロはもう一つのことを語っています。彼によれば、神様は「あらゆる慰めに満ちた神」です。

神様は私たちに対して憐れみを感じるだけでなく、御手を伸ばして私たちに触れてくださいます。

ある日、ツァラアトを患う人がイエス様のもとにやって来ました。(マタイ8章)

イエス様は深く憐れみ、手を伸ばしてその人に触れました。おそらく、その人は何年もの間、誰にも触れられていなかったでしょう。なぜなら、周囲の人々はその病気にかかることを恐れていたからです。

しかし、イエス様が触れたことで、その人は慰められ、癒されました。

そして、パウロによれば、私たちが苦難に満ちているように、キリストによって私たちの慰めも豊かに与えられています(5)。

パウロは自身の経験をもとに語りました。彼は、自分の力では耐えられないほどの深い苦しみを経験しました。

私たちはよく耳にします。「神様は私たちに耐えられない試練を許しません。」

ある程度まではその言葉は正しいですが、実は完全ではありません。

神様は私たちが自分の力では耐えられない試練を許されます。私たちは「耐えられないほどの圧迫を受ける」ときがあるかもしれません。

さらに、「生きる望みさえ失うほどの圧迫を受ける」こともあるかもしれません。(8)

なぜ、神様はそのような試練を許されるのでしょうか。

パウロはその理由を説明しています。

それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(9)

要するに、神様は私たちが自分の力だけではこの人生を歩むことができないことを学ぶために、こうした試練を許されるのです。

しかし、私たちが神様に頼るなら、神様が死者をよみがえらせるほどに力強い方であることを知るようになります。

そして、神様はその恵みによって、私たちを絶望の深い穴から引き上げ、新しい希望と命を与えてくださいます。

神様はパウロにこう言われました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(第二コリント12:9)

だから、私たちは試練を通過した後、振り返ると、神様が常に私たちと共におられたことに気づきます。だから、未来の試練に直面するとき、私たちはその同じ神がもう一度私たちを救ってくださるという希望を持つことができます。

パウロはこのことを学び、確信を持ってこう語りました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうでしょうか。果てしない試練に直面しているのでしょうか。もう耐えられないと感じているかもしれません。

しかし、神様はあなたを愛しておられ、決して見捨てることはありません。そのことを心に留めておきましょう。だからこそ、自分の力に頼るのではなく、神様の力に頼りましょう。

そうすれば、神様の恵みによって、あなたはその試練を乗り越えることができます。

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コリント人への手紙第一

言葉を通して人を励まし、育て、慰め、教える

正直に言うと、この箇所について話すとき、私はあまり自信がありません。

私は異言の賜物が今も続いていると考えています。クリスチャンの友人から彼らの経験を聞き、それを信じています。それでも、私自身はその賜物を持っていません。

また、一部の牧師たちの意見とは異なり、私は預言が単なる説教ではないと考えています。預言について学んだ結果、預言は説教以上のものだという結論に至りました。

パウロによれば、預言は教会の人々を成長させるため、人々を励ますため、慰めるため、そして教えるためのものです(コリント人への手紙第一14:3、31)。

もちろん、優れた説教はこれら四つの目的を果たします。けれども、説教と預言には大きな違いがあります。

良い説教には聖書の深い学びが必要ですが、ペテロによれば、預言は異なるものです。ペテロは、預言者について語る際、こう述べました。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(第二ペテロ1:21)

そして、第一コリント14章では、パウロは聖書の学びによる説教ではなく、聖霊に動かされて語る言葉について述べているようです。

この箇所では、パウロは異言と預言を比較しています。主な違いは、異言を語る際、通訳がなければ、それは話している人自身にしか益がないということです。周囲の人々には何の益ももたらしません。

しかし、預言する人は、皆が理解できる言葉を語ります。そのため、パウロはコリントの人々が異言を語ることを願っていましたが、それ以上に彼らが預言をすることを望んでいました。

パウロはこう語りました。

異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。(コリント人への手紙第一14:5)

また、

同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。(12)

預言や異言についてさらに語ることはできますが、最も心に残ったことは次の点です。

教会において、私たちが語る言葉は、慎重に用いるべき道具であるべきです。その言葉を通して、人々を成長させ、励まし、慰め、そして教えるべきです。

これこそが預言の目的です。預言の賜物は、人々を導くために超自然的な力をクリスチャンの言葉に加えます。

とはいえ、預言の賜物を持っているかどうかに関わらず、すべてのクリスチャンは周囲の人々と話すとき、そうした言葉を語るべきなのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの言葉は、人々を成長させ、励まし、慰め、そして教えていますか?

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:悲しむ人

私は、山上の垂訓についてのメッセージを多く聞き、聖書の解釈書も数多く読んできました。そして、多くの聖書学者や牧師たちによれば、この箇所の意味は、「自分の罪を嘆く人は幸いである」ということです。

もちろん、その解釈は「心の貧しい者」という概念と一致しています。(マタイの福音書5:3)つまり、私たちは自分が霊的に破産している者であることを認め、その罪を嘆くのです。

実は、罪を嘆くことは時として良いことでもありますが、悪いことでもあります。もし、その嘆きの結果が悔い改めであれば、それは命に至ります。ところが、もしその嘆きが絶望へと導くのであれば、それは死に至ります。

ペテロとユダの話を考えてみましょう。ペテロは悔い改めたことで、命を見出しました。その一方、ユダは絶望し、自ら命を絶ってしまいました。

ですから、私たちの嘆きがどこへ向かうのかを考える必要があります。

嘆きは神様とその恵みへと導くものでしょうか。

それとも、私たちは自分自身の過ちや失敗に焦点を当てすぎてしまうでしょうか。

もし、私たちが神様とその恵みに焦点を当てるなら、神様の慰めを受けることができます。

しかし、自分自身の過ちばかりに焦点を当ててしまうなら、絶望へと向かいます。

とはいえ、この箇所でイエス様が「罪を嘆くこと」について話されたかどうか、私は確信がありません。

もちろん、私たちは罪を嘆くべきです。とはいえ、罪によって壊れたこの世界を嘆くこともあります。

私たちが愛する人が病気になったり、亡くなったりすると、深い悲しみに襲われます。

また、人々が互いに傷つけ合うのを見て、嘆くこともあります。

戦争や飢餓、苦しみを目の当たりにすると、絶望を感じるのは自然なことです。そして、未来に希望があるのかどうか、疑念が湧いてきます。

けれども、もう一度問いかけます。それらの出来事を見たとき、私たちはどこに焦点を当てるべきでしょうか。

もし、自分自身に焦点を当てるならば、絶望へと向かいます。なぜなら、私たちにはこれらのひどい状況を変える力がないからです。

しかし、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、希望へと導かれます。なぜなら、神様は私たちの状況や問題よりも遥かに偉大な方であり、壊れたものを回復させることができるからです。

神様は、壊れた人間関係を回復させることができます。崩れた結婚を再生させることができます。失われた希望をよみがえらせることができます。そして、霊的に死んだ人を新しく生かすことができます。

あなたは、自分の罪のために人生が壊れていると感じていますか。あなたの傷や、周りの人々の傷を見て、嘆いていますか。

自分自身の弱さだけを見つめるのではなく、むしろ死んだものを回復させることができる方を仰ぎ見てください。そうすれば、あなたは神様の慰めを受けることができます。

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詩篇

自由と慰めを与える言葉

詩篇119篇を読む時、私は詩人の神様の御言葉に対する姿勢がよく見えます。

多くの人々は神様の御言葉を人を縛るものとして考えます。つまり、彼らは神様の御言葉が人生の楽しみを奪ってしまうと考えます。

「こうしなさい。こうするな。」

けれども、詩人はそのように考えませんでした。どうしてでしょうか。多分、彼には神様について正しい視点があったからです。彼はこう歌います。

主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。(詩篇119:41)

また、

主よ。地はあなたの恵みに満ちています。(64)

要するに、彼は神様が彼を愛し、彼の最善を望んでおられることを理解していました。また、この壊れた世界において、神様が彼の救いだと分かっていました。

だから、彼が神様の戒めを見る時、神様が彼の楽しみを取り去ろうとしておられるとは思いませんでした。むしろ、神様が彼に本当の命を与えようとしておられるのだと分かりました。

だから、彼はこう書きました。

そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。(45)

この詩人にとっては、神様の戒めは人々を縛らずに、人々を自由にするものです。どうしてでしょうか。

もし神様のデザインの通りに私たちがこの人生を生きたら、精一杯に生きるからです。

多くの人々はスマートフォンを持っています。しかし、彼らは説明書を読まないので、その機能を少ししか使いません。

けれども、その機能が分かれば、彼らの人生はもっと便利になります。彼らが今までできなかったことができるようになります。

そのように、聖書は人生の説明書です。聖書によって、私たちは神様がどのように人間をデザインされたか分かります。

そして、聖書に従うと、私たちは縛られず、むしろ、私たちは自由にされます。また、本当の命を見つけます。

それに、苦しみの時に、神様の御言葉は私たちを慰めてくださいます。なぜなら、聖書によって、私たちは神様を愛する人に対する神様の約束を読むからです。だから、この壊れた世に、私たちは希望を見つけます。

詩人はこう書きました。

どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。(49-50)

私の気にいる箇所はヨハネ14:1-3.イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

弟子たちが迫害と死に直面した時、その言葉によって慰められたと思います。この約束は私たちをも慰めます。

けれども、ちょっと考えてください。神様が良い方だと思いますか。神様があなたの最善を望んでおられると思いますか。

それなら、神様の御言葉はあなたを慰め、自由にします。

そうしないなら、多分あなたは神様の御言葉に対する詩人の熱心が理解できないでしょう。

あなたはどのように神様について考えているでしょうか。