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ヨハネ15章 ヨハネ16章

職業上の危険

私が初めて日本に来たとき、教会で英会話の授業を教えていました。

その頃、牧師のお嬢さんはキリスト教の幼稚園で働いていました。

ある日、一人の子供が彼女の手をハサミで刺しました。幸いにも、そのハサミの刃の先端が丸かったため、彼女は無事でした。

後日、彼女は私にこう言いました。「私の幼稚園では英語の先生が必要です。そこで働きませんか。」

私はそのハサミの話を覚えていたので、断りました。そんな職業上の危険には全く興味がなかったからです。😄

しかし、クリスチャンとして、私たちは避けられない「職業上の危険」があります。もし私たちがイエス様のことを伝えるなら、怒る人がいるでしょう。私たちを憎む人もいるでしょう。

イエス様はこう言われました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(ヨハネの福音書15:18-21)

イエス様は完全な愛そのものでした。そして、完全な人生を歩まれました。それでも、人々は彼を憎みました。

私たちはイエス様の運命を避けられると思うでしょうか。

もちろん、すべての人々が私たちを憎むわけではありません。私たちがイエス様の真理を伝えると、私たちを愛する人もいます。けれども、イエス様のメッセージを曲げることを拒むなら、ときに相手の反応は敵対的になってしまいます。

残念なことですが、そのために多くのクリスチャンがメッセージを曲げてしまいます。なぜでしょうか。憎まれたくないから。争いを避けたいから。

私の言葉を誤解しないでください。私たちは、あえて争いを求めるべきではありません。

しかし、私たちがイエス様のメッセージを正しく伝えるなら、私たちを憎む人が現れるのは当然のことです。自然に対立が生じるでしょう。でも、それが私たちの目的ではありません。

それでも、イエス様のメッセージを伝えるとき、私たちは争いを恐れてはいけません。むしろ、「神様の計画のすべてを、余すところなく」知らせなくてはなりません。(使徒の働き20:27)

イエス様は決して争いを恐れませんでした。まして、私たちはなおさらです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

真理を言うとき

昨日もこの個所について書きましたが、また別のことが私の心を打ちました。

時に、私たちが人々に神様の真理を伝えると、相手にむっとされることがあります。その人が真理を信じず、私たちを憎むことさえあるかもしれません。

イエス様も、そうした不信と憎しみを経験されました。イエス様の兄弟たちでさえ、イエス様を信じず、からかったのです。

そのため、イエス様は彼らにこう言われました。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(ヨハネの福音書7:7)

現代のアメリカでは、クリスチャンたちが同性愛は罪であると言うと、多くの人々は「あなたの心は狭い。あなたは偏屈だ」と言います。

イエス様はこの箇所で、そのことについて警告されました。私たちは世の中で、その行いが悪いことを証しするなら、憎まれ、迫害されることがあります。

以前私が言ったように、真理を伝えるには正しい方法と悪い方法があります。私たちは相手を憎まず、愛をもって真理を伝えるべきです。

私の娘が4歳の時、私はよくこう言いました。「危ないよ。駐車場や道に飛び出してはいけない。車に轢かれるよ。」

どうして私はそう言ったのでしょうか。それは娘を愛しているからです。

人々を彼らの罪のゆえに警告するとき、私たちもそんな態度を取るべきです。その罪が本当に酷いものでも、私たちは彼らを軽蔑せず、憎むべきではありません。

むしろ、彼らが悔い改めて救われることを願うべきです。そして、彼らが神様の恵みと憐れみを知ることを願うべきです。

しかし、愛をもって真理を伝えても、私たちが憎まれる場合もあります。イエス様は完全な神の子でした。それでも、人々はイエス様を信じず、憎み、イエス様を十字架で殺しました。

私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。