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憐れみを与える人

この箇所では、イエス様とその時代の宗教的なリーダーたちの大きな違いが見えてきます。

イエス様がマタイを選ばれたことで、マタイは本当に嬉しくなり、イエス様を宴会に招待しました。マタイは自分の友人たちも招きました。

もちろん、マタイがイスラエルでのけ者だったため、彼の友人たちは皆、のけ者でした。その友人たちには取税人や「罪人」と呼ばれる人々が含まれていました。

それでも、イエス様はためらうことなく宴会に来られ、マタイやその友人たちと一緒に食事をされました。

私たちはどれほどそのようなことをするでしょうか。どれほど、宗教的な人たちが拒絶した人々と付き合おうとするでしょうか。

もしかすると、マタイは悔い改めていたかもしれませんが、その友人たちはまだ悔い改めていなかったかもしれません。それでも、イエス様は彼らと時間を過ごされました。さらに、イエス様はその時間を心から楽しまれました。

では、宗教的なリーダーたちはどう反応したでしょうか。彼らは驚きました。

少し想像してみてください。もし有名な牧師がゲイの人たちと一緒に食事をし、飲んでいたら、ほかの牧師たちはどう反応するでしょうか。日本では分かりませんが、アメリカでは、おそらくその牧師を批判するでしょう。

パリサイ人も同じように反応しました。「いったいどうしてそんな人たちと遊ぶことができるのだろうか。彼らは最低な罪人なのに。」

しかし、イエス様はこう言われました。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)

つまり、私たちはこのような人たちとも関わらなくてはなりません。彼らは自分では気づいていないかもしれませんが、霊的に病んでいます。彼らにはお医者さんが必要なのです。

もし私たちが彼らを避けたら、彼らは自分の罪のゆえに滅びてしまうでしょう。

マタイがその場にいたため、彼はマルコやルカが記録していない一つのことを私たちに伝えてくれました。イエス様は、さらにもう一つのことを言われ、マタイはその言葉を一生忘れませんでした。

イエス様は、その宗教的なリーダーたちにこう言われたのです。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

つまり、「あなたたちは律法や自分たちの伝統に非常に熱心です。律法の細かい部分を守り、さまざまないけにえを捧げるために一生懸命努力しています。けれども、神様にとって、それが最も大切なことではありません。

神様が望んでおられるのは、あなたたちが憐れみを与える人になることです。

神様は、罪に縛られた人々を助ける人を求めておられるのです。あなたたちは、そのような人たちと時間を過ごすべきです。そのような人たちに福音を伝えるべきです。

しかし、あなたたちが彼らを避けている限り、彼らは救いの希望がないのです。

あなたはどうでしょうか。罪人を避けているでしょうか。彼らの罪のゆえに、彼らを見下しているでしょうか。

それとも、イエス様の態度を見習い、彼らを医者を必要とする病める人々とみなし、救い主を必要としている人々だと考えるでしょうか。

毎日、私たちは周りの人々に憐れみを示しましょう。神様はそのような人々を望んでおられるからです。

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詩篇

神様の慈しみと恵みを覚えている

1節の言葉は詩篇136篇の要約です。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 (詩篇136:1)

この詩篇はイスラエルに対する神様の慈しみと恵みについてです。しかし、この詩篇を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かります。

詩人は詩篇135篇のテーマを続け、神様を神の神と、主の主と呼びます。(2-3)

そして、詩人は神様を創造主として認めます。つまり、神様がご自身の知恵と力によって、天と地とすべてのものを造られたことを認めます。(4-9)

そして、詩人は神様を贖い主として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちをエジプトから救い出し、エジプトの軍隊を打倒し、紅海を二つに分け、イスラエル人たちをその中を通らせたからです。(10-15)

そして、詩人は神様を羊飼いと比べます。イスラエル人たちが砂漠を渡った時に、神様は彼らを導き、彼らのニーズに備えてくださいました。(16-22)

そのあとで、詩人は神様を勇士として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちを約束の地に導いたとき、その敵を倒して、その地を遺産として与えてくださったからです。(17-22)

23-25節では、詩人は神様を恵みと憐みの神として宣言します。

イスラエル人たちが卑しめられたとき、神様は彼らを敵の手から救い出してくださいました。また、神様はイスラエル人たちのニーズだけではなく、すべての人間と動物のニーズに備えてくださいます。

最後に、詩人は神様を天の主として認めます。神様はすべてを治める方です。(26)

以前、私は皮肉の危険について話しました。皮肉に対する武器の一つは感謝の態度です。つまり、私たちは神様がどんな方であるか、また神様が私たちのために何をしてくださったかを覚えるべきです。

時々、私たちはこの世における神様の行いが分からないこともありますが、神様がすべてのことをコントロールしていることを覚えていなくてはなりません。

また、神様がどのように私たちをサタンの国から救い出したかを思い出すべきです。

今でも、神様はこの世で巡礼している私たちを、神様が私たちのために整えた国に導いてくださいます。

また、私たちが霊的な力と戦うときに、神様が私たちの勇士であることを覚えていなくてはなりません。

そして、私たちが転ぶとき、神様が憐れみと恵みを私たちに与えてくださって、私たちを拾い上げてくださることを覚えているべきです。

毎日そのことを思い出しましょう。そのことに焦点を当てましょう。そして希望を持って、詩人のように歌いましょう。

「その恵みはとこしえまで。」