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ヨハネの手紙第一

私たちが成熟するにつれて

私はヨハネがさまざまな読み手に向けて書いた言葉を読むにつれて、クリスチャンとして私たちがさまざまな段階を進んでいくことを思い出します。

まず最初に、私たちは子どもたちです。

ヨハネはこう書きます。

子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。(ヨハネの手紙第一2:12)

また、

幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。(14a)

私たちが初めてクリスチャンになるとき、おそらく二つの真理が私たちの心を打ちます。

一つ目は、神様が私たちを赦してくださったことです。

神様に出会ったとき、私たちは罪の重荷を負っていました。自分の選択によって私たちの人生がめちゃくちゃになり、絶望の中で私たちは神様に向かいました。だから、ヨハネは私たちに「あなたの罪が赦されました」と言います。

私はある聖書の話を思い出します。ある女性が自分の罪の重荷を感じ、イエス様のもとに行き、自分の涙でイエス様の足を濡らしました。そして、イエス様は彼女に優しく言われました。「あなたの罪は赦されました。」(ルカ7:36-50)

すべてのクリスチャンたちは、その喜びを知る必要があります。

二つ目は、私たちが神様を父として知ることです。このテーマについて、ヨハネはあとで再び触れます。(3:1-3)

最初の段階では、私たちは神様を恐ろしい方として知るわけではありません。また、神様を宇宙よりも偉大な方として知るわけでもありません。そして、神様を王の王として知るわけでもありません。私たちは神様を近づくことができない方として考えません。

むしろ、私たちは神様を父として知ります。神様が私たちを愛しておられると信じるので、私たちは神様に近づくことができます。神様が私たちを自分の子どもとして喜ばれるので、私たちは神様がいつも私たちのために時間を取ってくださると確信しています。

しかし、成長するにつれて、私たちは子どものままではありません。むしろ、私たちは成熟し、丈夫になります。

だからこそ、ヨハネはこう書きます。

若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。(14b)

言い換えると、神様の言葉が私たちのうちにとどまり、福音という乳だけでなく、み言葉の堅い食物も摂取するとき、経験を通して訓練され、義と悪を見分ける力を持つ大人へと成長します。

そうすることで、私たちはサタンに打ち勝つことができるようになります。(ヘブル5:12-14)

例えば、私たちは自分を神様から遠ざける偽りの教えを見分けることができます。また、私たちは誘惑を克服し、私たちを滅ぼす罪を避けます。この手紙の後半で、そのテーマについてさらに詳しく見ることになります。

最後に、私たちが成熟するにつれて、私たちは神様の本性をさらによく理解するようになります。だから、ヨハネはこう書きました。

父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。(13-14)

C.S.ルイスが言ったように、私たちが成長すればするほど、神様がさらに大きく見えるようになります。それは神様が本当に大きくなるというわけではありません。むしろ、私たちが神様をもっとはっきりと見ることができるようになるからです。

神様は私たちの父であるだけでなく、創造者であり、宇宙の支配者です。さらに、神様は永遠の方です。だから、私たちは神様を拝み、畏敬の念を抱きます。

しかし、私たちは神様の偉大さだけのゆえに拝むわけではありません。むしろ、その偉大な神様が私たちを愛し、自分の子どもと呼んでくださることに驚き、感謝をもって拝みます。

なぜなら、どんなに成長し、成熟しても、私たちはいつも天の父を必要とし、神様を自分の父として考える必要があるからです。

ですから、私たちを愛し、自分の子どもと呼んでくださる神様の恵みと知識において、毎日成長していきましょう。

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エペソ人への手紙

キリストの満ち満ちた身丈にまで達する

この世を見れば見るほど、私たちはその混乱の深さに気づかされます。そして、自分自身の人生を振り返ると、それもまた壊れ、乱れていることを認めざるをえません。

この世も、私たちの人生も、壊れた、不完全なものなのです。その壊れた世界と人生を癒すことができるのは、ただお一人――イエス様だけです。

そのために、イエス様はこの世に来られました。第9〜10節によれば、イエス様は人間としてこの地に来られ、私たちの罪のために命をささげてくださいました。そして、死を打ち破って復活され、天へと昇られました。

その目的とは何でしょうか。それは、「キリストがすべてのものを満たすため」であると書かれています。

つまり、イエス様は人を内側から満たし、壊れた人生を癒し、渇いた心に命を注いでくださるお方です。そして最終的には、罪によって傷ついたこの被造世界全体をも、完全に回復してくださいます。

パウロはこう言いました。

(イエス様)はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。(エペソ人への手紙4:8)

「捕虜」とは誰のことでしょうか。もしかすると、イエス様に敗れた悪霊たちかもしれません。けれども、より可能性が高いのは、彼らがイエス様によって自由にされた罪の奴隷たちであった、ということです。イエス様は彼らを解放し、神の御国へと導き、さらに贈り物を与えてくださいました。

その贈り物とは何でしょうか。

第一に、永遠のいのちです。

第二に、御霊です。御霊は私たちのうちに住み、新しく生まれ変わらせ、私たちをますますイエス様のかたちに変えていってくださいます。

第三に、使徒、預言者、伝道者、牧師および教師といった、キリストのからだに仕える人々です。

たとえば、パウロやペテロのような使徒たちは、初めて福音を宣べ伝えました。

預言者たちは神様のことばを語り、私たちを教え、励まします。

伝道者たちは人々をイエス様のもとへ導いてくれます。

牧師と教師たちは、私たちの霊的な必要を養い、イエス様について教え、正しい道へと導いてくれます。

しかし、これらの人々がすべての奉仕を担うわけではありません。先ほども述べたように、彼らは教会への神様の贈り物なのです。では、なぜ神様はそのような人々を教会に与えてくださったのでしょうか。

それは、聖徒たち(つまり、すべてのクリスチャンたち)を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(12-13)

要するに、私たちは互いに建て上げ合い、互いの信仰を強め合い、イエス様について教え合う存在であるべきです。その結果として、私たちは成熟へと導かれていきます。

もちろん、一人ひとりのクリスチャンが成熟することも大切ですが、同時に教会全体がキリストにおいて成熟していくのです。

教会があらゆる点においてイエスのかたちに近づくとき、私たちがこの世に触れるにつれて、イエス様はすべてのものを満たされます。

ここで注目すべきは、パウロが「私たちは一人の成熟した大人となる」と語っていることです。

「多くの成熟した大人たちになる」とは言っていません。むしろ、「一人の成熟した大人となる」と強調しています。私たちは一つのからだとして結び合わされていきます。すなわち、完全に成熟したキリストのからだへと成長していくのです。

では、私たちはどのような者になってはいけないのでしょうか。私たちは、あらゆる教えの風に吹き回され、もてあそばれる子どものようになってはなりません(14節)。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(15-16)

そうすれば、私たちは個々のクリスチャンとしても、教会としても、イエス様にあって完全なものへと成長していくのです。そして、私たちを通して、イエス様はすべてのものを満たし、癒してくださいます。

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コリント人への手紙第一

成熟へ向かって進む

コリント人への手紙第一13:11で、パウロはこう語っています。

私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。(コリント人への手紙第一13:11)

この箇所の文脈を見ると、パウロは天国での人生と地上での人生を対比しているようです。

つまり、天国では私たちは成熟した存在となりますが、地上にいる間は、さまざまな意味でまだ幼子のような状態にあります。そのため、今の私たちには霊的な松葉杖が必要です。

神様の言葉をより明確に聞くために、預言が必要です。どう祈ればよいか分からないとき、異言が必要です。神様をより深く理解したいなら、限られた知識を持つ人間から学ぶ必要があります。

けれども、天国では霊的な松葉杖は不要になります。なぜなら、私たちは神様の御顔を直接仰ぎ見るからです。

それが、パウロの主旨だと思います。

もしかすると、パウロはコリントの人々に成長を促していたのかもしれません。

3章では、パウロは彼らの幼い考え方を批判しました(3:1-4)。

だから、この箇所で、パウロは基本的にこう伝えているのかもしれません。

「もう成長しなくてはなりません。幼いクリスチャンだった頃、あなたはこの世のように考えていました。しかし、今こそ成熟したクリスチャンになる時です。

くだらない争いは脇へ置きなさい。あなたが受けた賜物や祝福を誇るのではなく、思いと行動において成熟しなさい。」

あなたはどうでしょうか。幼子のように考えているでしょうか。幼子のように話しているでしょうか。幼子のように振る舞っているでしょうか。それとも、あなたの信仰は成熟へと進んでいるでしょうか。

幼いクリスチャンとして生きることに満足するのではなく、成長を目指しましょう。

もちろん、どれほど成長しても、私たちは完全な存在ではありません。天国に到達して初めて、私たちは完全になります。とはいえ、それを理由に成長を怠るべきではありません。

だからこそ、成熟へ向かって進みましょう。そして、キリストの恵みと知識において成長し続けましょう。(へブル6:1;第二ペテロ3:18)

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イザヤ書

自分のはかりごとが成就する神

この箇所では、神様はご自身と他の国々の神々を比べ続けておられます。5節で、神様はこう言われました。

わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。(イザヤ書46:5)

なぜ神様はそんなことを言われたのでしょうか。それは、人々がその偶像を造ったとしても、その偶像は自分の力で動くことができないからです。人々は偶像を運ばなければなりません。

そして、一度置かれると、その偶像は自分の位置を全く変えることができません。

そのため、人々が偶像に助けを求めても、偶像は答えることも助けることもできません。もし偶像が自ら動く力を持っていないのなら、どうして人々を助けることができるのでしょうか。(7節)

だから、神様はもう一度言われます。

遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(9)

神様は他の『神々』とどのように異なっておられるのでしょうか。

わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。。。

わたしが語ると、すぐそれを行ない、わたしが計ると、すぐそれをする。(10-11)

つまり、神様は将来をその御手の中に持っておられます。神様は何が起こるかをご存じであるだけでなく、ご自身のプランを持っておられ、そのプランを止められる者は誰もいません。

サタンであれ、人間であれ、誰も神様の計画を妨げることはできないのです。

神様は決して驚くことがなく、将来のことを知っておられ、さらに将来を形づくる力を持っておられます。

特に、神様は救いのプランを立て、そのプランについてこう言われました。

わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。

わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。

わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」(12-13)

神様は、私たちを救うためにご自身の子イエス・キリストをこの世に送られました。

サタンがイエス様と戦い、ユダヤ人たちもイエス様を拒絶しましたが、神様は彼らの行動さえもご自身の計画の中に取り入れられ、イエス様を通して私たちを救われました。

イエス様は十字架で死なれ、私たちの罪の代価を完全に支払われました。その結果、かつて神様の正義から遠ざかっていた私たちも、今は神様に近づく道が開かれました。

神様がそのようなことを成し遂げられるのなら、私たちは神様が私たちの将来もその御手の中に持っておられると確信できます。そして、何者も、その計画を妨げることはできません。