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クリスマスの12日

クリスマスの5日目

ラケルの女奴隷ビルハは再び身ごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。

そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリと名づけた。(創世記30:7-8)

ヘブライ語では、「ナフタリ」は「私の戦い」を意味する言葉に聞こえます。

心の穴を埋めることができないもののために、私たちはどれほど多く、相手と戦ってしまうことでしょう。ラケルの場合、彼女はヤコブの愛を求めてレアと争いました。

しかし、最終的に、私たちが戦い終えたあとでも、心の穴は残ります。神様こそが、その穴を埋めることのできるお方です。

だから、賜物そのものではなく、賜物を与えてくださる方を慕い求めましょう。

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(ヤコブ4:1-3)

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エペソ人への手紙

私たちの武具

前回の記事で私は言いましたが、 私たちは霊的な戦いを人間的な武器で戦うのではありません。 つまり、銃や政治、議論などに頼るのではないということです。

誤解しないでください。 私は、政治や議論を用いること自体が悪いとか、 それらの武器を絶対に使ってはならないと言っているのではありません。 実際、パウロ自身も政治家や哲学者と対話する中で、 そうした道具を用いたのです。

けれども、それらの武器“だけ”では、霊的な戦いに勝つことはできません。

攻撃を受けるとき、私たちが堅く立つためには、 神様の武具が必要です。

その武具は、何から成り立っているのでしょうか。

1つ目は、真理の帯です(14a)。 私たちは常に真理を語る者であるべきです。 私たちは正直な人として知られるべきなのです。 私たちの周囲で、人の嘘やサタンの偽りが語られるとき、 私たちは神様の真理を口にすべきです。

偽善者や信仰を軽んじる人々を見ることがあるかもしれません。 けれども、私たちは自らの誠実さによって知られるべきです。 預言者ダニエルとその友人たちはまさにそのような人々でした。 (ダニエル書1章〜6章)

そして、私たちの心を守るために、正義の胸当てを着けるべきです(14b)。 罪を犯すと、私たちの心は汚れ、弱くなってしまいます。 ですから、たとえ責められても、私たちは誘惑に屈してはならないのです。

ダニエルとその友人たちは、幾度となく責められました。 けれども彼らは、自らの信仰を決して汚すことなく、正しい行いを貫きました。

また、私たちは攻撃されても、仕返しを求めてはなりません。 むしろ、私たちはペテロの言葉に従うべきです。

ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(第一ペテロ4:19)

そして、足には、平和の福音の備えを履くべきです(15)。

どこに行くときでも、私たちは神様の平和によって安心すべきです。 なぜなら、たとえどのような試練に直面し、たとえ死に至るとしても、 私たちは救いの確信を持っているからです。

また、私たちは周りの人々にも神様の平和を知ってもらうために、 その福音を彼らに伝えるべきです。

さらに、信仰の盾を取るべきです(16)。 そうすれば、サタンが疑いの火矢を放つときに、 私たちはその火矢を消し去ることができます。

困難のとき、あるいは迫害のとき、 私たちが神様を疑いたくなるのは自然なことです。 「神様、あなたは本当にここにおられるのですか? なぜ、こんな問題をお許しになるのですか?」

けれども、私たちは、神様が今なおこの世界を支配しておられ、 最終的に私たちに報いを与えてくださることを信じることで、安心すべきなのです。

そして、私たちは救いのかぶとをかぶるべきです(17a)。 私たちの内に住んでおられる御霊によって、 私たちの思いは日々新しくされるべきです。 御霊とともに歩む中で、私たちの心と生活は、 少しずつ変えられていくはずです。

最後に、私たちは御霊の剣、すなわち神様のみ言葉を手に取るべきです(17b)。 それは、私たちに与えられたただ一つの攻撃的な武器です。

サタンが荒野でイエス様を試みたとき、 イエス様はいつもサタンの偽りに対して、 神様のみ言葉を用いて応戦されました。

神様のみ言葉によって、私たちは真理を知ることができます。 そのみ言葉と、聖霊の力によって、 神様は私たちの思いや生活を造り変えてくださいます。

また、人々が福音の光を見るために、 神様のみ言葉は彼らの心を深く貫きます。

ですから、私たちが神様のみ言葉をよく知っていることは非常に大切なのです。 あなたは、そのみ言葉をどれほど深く知っているでしょうか。

そして、あなたは日々、神様の武具を身につけているでしょうか。 もしかすると、サタンの攻撃を受けると、すぐに倒れてしまうかもしれません。

この暗闇の世界にあって、 あなたは堅く立つ備えができているでしょうか。

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詩篇

歌うとき、戦うとき

多くの人々にとって、詩篇149篇は気持ち悪く感じられる部分があるでしょう。特に6節以降は少し読みにくいでしょう。

この詩篇の前半では、詩人は人々に神様を賛美するように招きます。なぜなら、神様は私たちの創造主であり、私たちの神だからです。詩人は、楽器で神様を賛美し、また踊りをもって賛美しようと呼びかけます。

私は全然踊れませんが、人々が神様を踊りを通して賛美する様子を見ると、感動し、祝福されます。

また、神様を賛美するために人々が楽器を演奏するとき、私は神様に近づくことができます。私の教会では、プロのヴァイオリニストがよく演奏しており、その賛美の雰囲気は本当に素晴らしいです。

私自身、賛美の時間を楽しみますが、神様はもっと喜んでおられます。たとえ音痴でも、楽器が演奏できなくても、踊れなくても、あなたが賛美するときに、神様は喜ばれます。詩人はこう言います。

主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇149:4)

神様は私たちの才能よりも、私たちの心を喜ばれます。私たちが神様を愛し、賛美するとき、神様は喜ばれます。

また、私たちがへりくだって、神様に信頼するとき、神様は私たちを救いで飾ってくださいます。だから私たちは喜ぶべきです。私たちは神様から何も値しないのに、神様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

けれども、この詩篇の後半は、少し気持ち悪く感じるかもしれません。なぜなら、詩人は私たちに神様を賛美するように招き、その後、神様のために戦うように招くからです。つまり、神様に反抗する人々と戦い、神様の裁きを行うことです。

イスラエル人がカナンに着いたとき、そうしなければなりませんでした。

神様はカナン人が悔い改めるために何百年も待っておられましたが、彼らはさらに悪化しました。だから、彼らの罪が満ちたとき(創世記15:16)、神様はイスラエル人を裁きを行うために遣わされました。

もちろん、私たちはそのイスラエル人ではありませんが、この詩篇は私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。

私たちは霊的な戦争に入っていることを覚えておかなければなりません。しかし、私たちの敵は人間ではありません。むしろ、霊的な力が人々を用いています。

だから、私たちは人々と戦わずに、その背後にある霊的な力と戦っています。

そして、私たちの武器は刀ではなく、神様のみ言葉です。そのみ言葉は、

生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(へブル4:12)

だから私たちは人々と戦わないのです。むしろ、彼らが救われるために私たちは戦います。

私たちのメッセージは裁きのメッセージであり、救いのメッセージです。

信じる人々に対し、私たちはイエス様の名前によって、神様の赦しを宣言する権利があります。

しかし、神様の言葉を拒絶する人々に対しては、私たちは裁きのメッセージを伝える権利があります。(ヨハネ20:23)

だから忘れないでください。もちろん、私たちは神様を賛美するように招かれました。けれども、私たちは戦うようにも招かれています。罪に迷った人々のために戦わなければなりません。

だから、戦いに走りましょう。

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エステル記

私たちを守ってくださる神

この箇所では、本当に劇的なシーンが描かれています。エステルは王に自分の国籍を告白し、ユダヤ人の命を請いました。

おそらく、その時点でエステルの恐れはほとんど消えていたのでしょう。それは、王がエステルに好意を示し、すでに2度こう言っていたからです。

あなたは何を願っているのか。王妃エステル。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。(エステル記5:6,7:2)

それでも、彼女は王がまだハマンの計画を支持しているかどうか疑っていたかもしれません。

だからこそ、おそらく彼女が自分の民に迫っている危険について伝えた時、王の反応を聞いてほっとしたのでしょう。王は怒りながらこう言いました。

そんなことをあえてしようとたくらんでいる者は、いったいだれか。どこにいるのか。(7:5)

エステルがハマンの名前を口にした時、彼はショックを受けました。そして、突然彼は理解しました。「エステル女王はユダヤ人だ。」

王もそのことをすぐに理解しました。怒った王は、気持ちを落ち着けるために宮殿の園へと出て行きました。

その間に、ハマンは自分の命が危険にさらされているのを察し、エステルに近づいて命乞いをしようとしました。

けれども、エステルはハマンの意図を誤解した可能性があります。なぜなら、彼はユダヤ人の敵だったからです。それに、ペルシャの慣習では、男性が7歩以内に女王へ近づくことは禁じられていました。それでも、ハマンはエステルのすぐそばまで来ました。

ちょうどその瞬間、王が部屋に戻り、王もハマンの意図を誤解しました。おそらく、エステルの恐怖に満ちた表情を見た王は、激怒してこう叫びました。

私の前で、この家の中で、王妃に乱暴しようとするのか。(7:8)

その時、王のしもべの一人が王に申し上げました。

ちょうど、王に良い知らせを告げたモルデカイのために、ハマンが用意した高さ五十キュビトの柱がハマンの家に立っています。(7:9)

それを聞くと、王は答えました。

彼をそれにかけよ。(7:9)

その後、エステルはモルデカイを王のもとに連れて行き、王はモルデカイにハマンの立場を与えました。

エステルは再びユダヤ人の命を請いました。しかし、王はその律法を取り消すことはできませんでした。(たとえ王であっても、ペルシャの律法に従うべきでした。)

そこで王はエステルとモルデカイに新しい律法を作る許可を与えました。つまり、ユダヤ人には自衛する権利が与えられたのです。

ある学者は、その命令を日本語に翻訳しました。

つまり、

その中で王は、どこの町にいるユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財をかすめ奪うことも許した。(8:11)

それが正しい翻訳なら、その意味は、「ユダヤ人を襲う子供と女たちがいたら、彼らも殺されます」ということです。

しかし、おそらくその意味は、

その中で王は、どこの町にいるユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼ら(子どもも女たちも含めて)を襲う民や州の軍隊を残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財をかすめ奪うことも許した。

そのように書かれた英語の翻訳もあります。

その律法によって、ユダヤ人は彼らを襲う者の家財をかすめ奪うことも許されましたが、おそらく、敵がユダヤ人を襲わないように、その部分が記載されていたのでしょう。実際、ユダヤ人はそのことをしませんでした。(9:16)

ある人々は、ハマンの息子たちを柱にかけるエステルの願いを批判します。(9:13)けれども、実際には、その息子たちはユダヤ人を攻撃し、その時に彼らは殺されました。(9:5-10)

ですから、その死体が柱にかけられたのは、ユダヤ人の敵に警告するためでした。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、王が立ち上がってエステルとその民を守ったように、神様も立ち上がって私たちを守るということです。

サタンが私たちを滅ぼそうとする時、神様は私たちを見捨てません。むしろ、神様は私たちのために戦い、その敵を倒されます。それは私たちに対する神様の愛です。

二つ目は、王がユダヤ人の味方であったものの、ユダヤ人はそれでも戦わなければならなかったことです。

同様に、神様が私たちの味方ですが、私たちにも霊的な戦いがあります。そのため、毎日私たちは霊的な鎧を身につけなければなりません。(エペソ6:10-18)

ですから、攻撃されても勇気を持ってください。神様は私たちと共におられます。もうすぐクリスマスです。そして、イエス様の名前はインマヌエルです。つまり、「神様は私たちと共におられる」という意味です。

だから、神様の鎧を身につけ、信仰の戦いを勇敢に戦いましょう。(第一テモテ6:12)

イエス様の働きによって、私たちはすでに勝利したことを常に覚えておきましょう。

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ダニエル書3

戦い

私が高校生だった頃、天使と悪魔について描かれたフィクションの本を読んだことがあります。その時、私は目に見えない霊的な戦いについて深く考え、祈りの重要性を実感するようになりました。

おそらく、その著者がその作品を書いた時、この箇所を思い浮かべていたのかもしれません。なぜなら、聖書のこの箇所で初めて、霊的な戦いについて明確に描かれているからです。

この箇所の冒頭には、ダニエルが3週間の喪に服していたと記されています。彼が何に悩んでいたのかははっきりしません。

もしかすると、彼はエルサレム再建にまつわる問題を聞いて心を痛めていたのかもしれません。

または、ユダヤ人が神様を敬うことを忘れ、自分のことだけを考えているという話を聞いていたのかもしれません。(預言者ハガイが彼らのその態度を批判しています。)

いずれにせよ、ダニエルは断食し、神様の御心を求めていました。けれども、約3週間もの間、ダニエルは何の答えも受け取ることがありませんでした。

私たちも同じように感じることがあるのではないでしょうか。困難に直面し、神様の御心を求めても、神様が私たちを無視しているように思えることがあります。

しかし、本当に神様はダニエルを無視していたのでしょうか。違います。ある日、天使が現れました。そして、彼はダニエルにこう言いました。

恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき[た]。(ダニエル書10:12-13)

その天使は、ダニエルを強め、そのメッセージを聞く準備を整えさせてから、こう言いました。

私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。

しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(20-21)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。この世の問題に直面するとき、私たちは時折、神様が沈黙しているように感じることがあります。けれども、私たちの目には見えない多くのことが存在しています。それは、霊的な戦いです。

パウロは次のように書きました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

時折、私たちクリスチャンは周りの人々と戦っていると感じることがありますが、実際には霊的な力と戦っているのです。その力と戦うためには、霊的な武具が必要です。(エペソ書6:13ー17)

ここでは、この武具について詳しく説明しませんが、一つ重要なポイントを覚えておいてください。その武具はあなたの体の前を守るためのものです。後ろを守る武具は存在しません。

どうしてでしょうか。それは、私たちが逃げることなく、前進し続けることを求められているからです。

しかし、その武具だけでは十分ではありません。私たちは祈らなくてはなりません。

パウロはこう書きました。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)

私たちは一人では戦えませんし、自分だけの力では太刀打ちできません。私たちには、聖霊様が私たちのために戦ってくださることが必要です。

ですから、自分自身のためだけでなく、キリストにある兄弟姉妹たちのためにも祈ってください。牧師のために祈りましょう。苦しんでいる兄弟姉妹たちのために祈りましょう。

ひとりよがりになることを避けましょう。サタンはほえたける獅子のように私たちを狙っているので、目を覚ましていましょう。そして、神様の命令に従い、祈りを欠かさずに行いましょう。また、信仰の戦いを勇敢に戦いましょう。