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ルカの福音書 ルカ15章

見失った羊と無くした銀貨のたとえ話:失われた人を捜して救う

この箇所では、イエス様とパリサイ人たちの間の大きな違いが明らかになります。 それは、パリサイ人たちが失われた人々を裁いたのに対して、イエス様はその人々を探し、救おうとされたことです。

残念ながら、今もなお、多くのいわゆるクリスチャンの態度は神様の御心とは全く異なります。

一方で、イエス様はいつも失われた人々を探し求め、救おうとされました。

イエス様はパリサイ人たちと時間を過ごした直後、「罪びとたち」と時間を過ごされました。実際、イエス様は普段から罪人たちとともに時間を過ごされていました。

ところが、パリサイ人たちはそれを見たとき、イエス様を非難しました。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2)

パリサイ人たちは「罪びとたち」に触れると自分が汚れると考え、彼らを避けました。

パリサイ人たちは決して罪人たちを食事に招待することはなく、罪人の家を訪れることは想像すらできませんでした。仕事をする上でも、罪人と関わりを持たないように努めていました。

そのため、イエス様が罪人たちを歓迎されたとき、パリサイ人たちは衝撃を受けました。

そこで、イエス様は三つのたとえ話を語られました。今日は、そのうち二つのたとえ話についてお話しします。

一つ目は迷子の羊のたとえ話です。羊飼いはその羊を愛していたため、必死に探しました。そして、羊を見つけたとき、羊飼いは友人や近所の人々を呼び集めてこう言いました。

いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。(ルカの福音書15:6)

そして、イエス様はパリサイ人たちにこう語られました。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(7)

パリサイ人たちについて少し考えてみてください。もし彼らが羊飼いだったとしたら、彼らは羊を責めたでしょう。「なんて愚かな羊なんだ。あいつが死んでも自業自得だ。」

けれども、イエス様はそのようには決して考えられませんでした。むしろ、命を捨てるほどまでに羊を愛し、羊を救おうと思われました。

パリサイ人たちの考え方はそれとは全く異なっていました。

とはいえ、彼らも本来イエス様のような態度を持つべきだったはずです。

おそらく、彼らは預言者たちの書を何度も読んでいたでしょう。そして、もしそれを正しく記憶し、理解していたなら、神様がそのように考えるお方であることを知るべきだったのです。実際、それこそがホセア書の中心的なメッセージです。

続けて、イエス様は銀貨を一枚なくした女性についての話をされました。それはおそらく結婚した女性の頭飾りだったのでしょう。頭飾りは10枚の銀貨で作られたアクセサリーで、現代の結婚指輪に似たものです。

もしあなたが結婚指輪をなくしたとしたら、どう感じるでしょう。その女性もきっと同じ気持ちだったに違いありません。

だからこそ、彼女は懸命に家を掃き、銀貨を見つけるまで細かく探しました。

それと同じように、神様は全地を見渡し、失われた人々を念入りに探し、救おうと思われます。

そして、イエス様はこう言われました。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)

これが神様の態度です。あなたはどうでしょうか。「罪びと」を見たとき、その人を裁くでしょうか。それとも、神様の愛をもって接し、その人々の救いのために働くでしょうか。

パリサイ人のように人々を裁くのではなく、むしろ、私たちを救ってくださったイエス様のようになりましょう。