私は詩篇を読み通した時、同じテーマがよく繰り返されることに気づきました。つまり、時々詩人には、目に見えない神様との関係が本当に難しいものであったのです。私にもそう考える時があるので、少し慰められます。
詩篇77篇はそのような詩篇です。詩人は叫びます。
私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。
苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。(詩篇77:1-2)
どれぐらい私たちにはそんな経験があるでしょうか。私たちは神様に叫びますが、何も聞こえません。そして、悩んでいる心のせいで、私たちは眠れません。
だから、詩人のように、私たちは問い始めます。
「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。
主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。
神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ (7-9)
言い替えれば、「あなたは私を捨ててしまったのでしょうか。私を諦めたのでしょうか。私がもうだめだと思われるのでしょうか。」
しかし、失望の中で、彼は叫びます。
「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」
私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。
私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。
神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。
あなたは奇しいわざを行なわれる神、国々の民の中に御力を現わされる方です。
あなたは御腕をもって、ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。セラ
。。。あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました。(10-15、20)
急に詩人は神様が彼を捨ててしまった考えを捨てます。彼は言います。
「あなたが私を捨てるのが信じられません。なぜなら、あなたは私のために多くのことをしてくださったからです。
あなたは私を愛してくださったので、私とあなたの民を贖ってくださり、羊のように私たちをこの良い土地に導いてくださいました。
その愛によって、私はあなたが私を捨てたという考え方を拒絶します。」
それが信仰です。私たちは神様が見えなくても、信じ続けます。その瞬間に私たちは神様の臨在を感じなくても、神様が私たちを捨てずに、私たちと共におられることを信じ続けます。
とはいえ、それは盲信ではありません。なぜなら、振り返る時、私たちの人生に神様の力と愛の事例が見えるからです。
だから、捨てられたと思う時、詩人のように、神様の慈しみを思い出し、以前、私たちと共におられた神様が、まだ私たちと共におられることを思い出しましょう。
