私たちの国の希望はどこから来るのでしょうか。
イスラエルの人々は自分たちのリーダーたちに信頼を置きました。彼らは、そのリーダーたちの力と知恵によってイスラエルが栄えることを願い、希望しました。
そして、アッシリヤやバビロンの軍隊が攻撃してきたとき、イスラエルの人々は救いをリーダーたちに求めました。
けれども、彼らの希望は虚しいものでした。この箇所は、そのことについて語っています。
雌獅子はイスラエルを象徴していました。その最初の子獅子はエホアハズでした。彼はユダの王となりましたが、三か月後にはエジプトへ追放され、そこで死にました。
次に王となったのはエホヤキムでした。けれども、彼もまたユダを救うことはできませんでした。それどころか、彼はエジプトのしもべとなりました。
その後、バビロンがエジプトを打ち破ると、エホヤキムはバビロンのしもべとなり、最終的にはバビロンへ追放されることになりました。
だから、
雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。(エゼキエル書19:5)
その若い獅子はエホヤキンでした。しかし、彼もまたバビロンへ追放されてしまいました。
そのため、エゼキエルはイスラエルのために深く悲しみました。かつてイスラエルは実を結ぶ良い枝のようであり、国々の中で力強い存在でした。
ところが、自分たちの罪のゆえに、ユダは、
憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らし、その強い枝も折られて枯れ、火に焼き尽くされた。(12)
そして、ユダは、
荒野と砂漠と、潤いのない地に移し植えられ「た」。(13)
つまり、彼らはバビロンに追放されました。(10-14)
その結果、結局イスラエルの人々が信頼して委ねた王たちは皆、いなくなってしまいました。
多くの国々の希望は、そのリーダーたちにかかっています。そのリーダーたちの知恵と力によって、その国が栄えることを望んでいます。
しかし、その国民が神様に背を向けて自分の道を進むなら、どれだけリーダーが優れていても、命の源から離れてしまえば国は枯れ始めます。
もしそのリーダーが悪い者であれば、その国はさらに早く滅びます。
国の救いは政治家にはありません。国の救いは人々の心から始まります。一人一人が神様に向かい、自分の心を捧げるなら、国は変わり始めるのです。
私は政治が重要ではないと言っているのでしょうか。そうではありません。とはいえ、私たちの国が神様に向かわなければ、希望はまったくありません。
ですから、あなたはどのように行動していますか。周りの人々に神様の愛をもって接していますか。
神様は私たちに暗闇の中の光となるように呼びかけています。私たちはその光となりましょう。
神様こそが、この国の希望です。神様こそが、この世界の希望です。
