こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)
今日、「自分の救いを達成するよう努める」という言葉を考えていました。それはどういう意味でしょうか。
ピリピ人への手紙3章では、パウロがその意味を説明していると思います。
彼は、義と認められるために律法を守ろうとすることを意味していませんでした。彼の義は、イエス様の十字架の働きを信じる信仰に基づいていました。(ピリピ3:9)
では、「自分の救いを達成するよう努める」とは、どういう意味でしょうか。
1.イエス様との関係を追求することです。イエス様を知ることは、パウロの究極の情熱となりました。
2.ますますイエス様のようになることです。パウロはイエス様の復活の力を経験し、その力によってイエス様のように変えられることを望みました。
でも、イエス様と共によみがえられる前に、パウロはイエス様と共に死ななければなりませんでした。
イエス様がただ一度罪に対して死なれたように、パウロは罪に対して死んだ者となり、また神に対して生きている者となるように学ぶべきでした(ローマ6:10ー11)。
そして、キリストの苦しみに参加することで、パウロは罪との関わりを断ち、神のみこころに生き始めていることを証明しました(第一ペテロ4:1ー2)。
それは、自分の救いを達成するよう努めるということです。
でも、それは一生続くプロセスです。パウロ自身も、まだそのプロセスを終えていないことを認めました。
彼はまだ失敗しました。彼はまだたどり着いていませんでした。
でも、恵みによって、イエス様はパウロを捕えてくださいました。だから、パウロは受けた救いを完全に捕らえるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めました。
パウロを捕えてくださったイエス様が、私をも捕えてくださったことに驚いています。だから、パウロのように、私も受けた救いを完全に捕えるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めています。
私はまだ失敗します。私はまだたどり着いていません。でも、神様が私に恵みと愛を与えてくださったという確信を持ち、パウロと共に言います。
うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13ー14)
