正直に言うと、最近の記事を振り返ったとき、私は教会をやめた人に対して厳しすぎたのではないかと思いました。私には、はっきりと分かりません。
誰かに傷つけられて教会をやめた人がいることは、よく知っています。だから、ある程度まで、私は彼らに共感できます。
とはいえ、教会をやめることは、良い解決策ではありません。
相手を許すことは、大変であり、とても難しいことです。しかし、もし私たちが本当にイエス様を愛し、従いたいと思うなら、その教訓を学ばなければなりません。なぜでしょうか。
一つ目の理由は、苦々しい思いや怒りを抱いて相手を許さないことが、聖霊様を本当に悲しませるからです。(エペソ4:29-32)
もちろん、もしあなたが聖霊様を悲しませるなら、天の父とイエス様も悲しまれるでしょう。
二つ目の理由は、私たちが許さないなら、この世の人々にどんなメッセージを伝えているでしょうか。結局、私たちは彼らと全く変わりません。
とにかく、傷ついた人には多少共感できますが、私は神様のみ言葉に対して頑なな心を持つ人に全く同意できません。
また、キリストのからだ(つまり、教会)が不要だと思う人にも、私は全く同意できません。
パウロの言葉を借りるなら、彼らは手や足に向かって「私はあなたを必要としない」と言っているのです。(第一コリント12章21節)
けれども、パウロでさえ、そのようなことを主張することはありませんでした。
少し考えてみてください。
パウロはローマ帝国内で神様のために働き、福音を述べ伝えました。だから、パウロは毎週同じ教会に行くことができませんでした。彼は一つの教会について「これは私の教会だ」と言うことはできませんでした。
それでも、パウロはクリスチャンとの交わりを大切にしていました。彼は常に他のクリスチャンたちと時間を過ごしたいと願っていました。(ローマ1:10-12;第二コリント1:15-16;ピリピ1:8)
なぜでしょうか。パウロは彼らを祝福したいと願ったからです。(ローマ1:11;第二コリント1:15)
パウロは、彼らが自分を必要としたと認めました。
さらに、パウロ自身が彼らを必要としたと認めました。
特に、パウロは彼らの祈りが必要でした(エペソ6:19-20;コロサイ4:3;第一テサロニケ5:21;第二テサロニケ3:1-2)。
また、パウロは彼らの励ましが必要でした。(ローマ1:12)
「私は、教会を必要としない」と言う人は、とてもわがままだし、高ぶっています。
どうして私は彼らを「高ぶる」と呼ぶでしょうか。私たちはお互いを必要としますから。
どうして私は彼らを「わがまま」と呼ぶでしょうか。仮に、彼らが私たちを必要としないと思っても、私たちは彼らを必要としますから。私たち皆は、キリストの体に役割を持ちます。
とにかく、使徒の働きの箇所に戻りましょう。この箇所によれば、そのクリスチャンたちは祈りに専念しました。
でも、この箇所によれば、彼らは自分の部屋で、一人で祈っていたわけではありません。もちろん彼らはそうしましたけど、ルカのポイントは、彼らが一緒に祈っていたことです。
(ところで、ルカは使徒の働きを書いたでしょう。(ルカの福音書1:1-4;使徒の働き1:1-2))
なぜ、他のクリスチャンと共に祈ることが大切なのでしょうか。
一番の理由は、そうすることで、私たちは自分の心を神様の御心に調和させるだけでなく、相手の心にも調和させることができるからです。イエス様は、私たちが一つになるように祈られました。(ヨハネ17:20-21)
共に祈ることで、私たちは一つになります。
教会の初期から、共に祈ることはクリスチャンの習慣でした。(使徒の働き1:14)
クリスチャンが一致すると、神様の国のために素晴らしい働きができます。
けれども、もし私たちが喧嘩し、「あなたを必要としない」と言ってしまえば、私たちは弱くなり、何もできなくなります。サタンはそれを見て、きっと喜ぶでしょう。
だから、そのような考え方を捨てましょう。キリストの教会として、一致を求めましょう。
全てのことに同意する必要はありません。
私たちのミニストリーの方法が異なるかもしれません。それでも構いません。
しかし、私たちの愛を伝えましょう。そして、「あなたを必要としている」と伝えましょう。
そうすれば、サタンの国は崩れ、私たちの人生においてイエス様がほめられます。また、天の父もほめたたえられます。
