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コリント人への手紙第二

何にしがみついているでしょうか

ある聖書学者たちは、この手紙がもともと2通の手紙だったと考えています。この手紙を読むと、彼らの主張の理由が理解できますが、それでも私は、この手紙は常に1通のものだったのではないかと思います。

では、なぜ一部の学者たちは、この手紙を複数の手紙をまとめたものだと考えるのでしょうか。

その理由のひとつは、手紙の前半部分では、パウロとコリントのクリスチャンたちがすでに和解したかのように見えることです。しかし、その後のパウロの言葉を見ると、彼らの関係にはまだ問題が残っているようにも感じられます。

もしかすると、パウロはその教会の多くの人々と和解したものの、一部のコリント人たちはなお彼の使徒としての資格を疑っていたのかもしれません。

彼らはなぜパウロの資格に疑念を抱いたのでしょうか。パウロはこう述べています。

コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。

むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。(コリント人への手紙第二6:11-12)

要するに、「私たちは正直であり、あなたたちを愛していました。けれども、あなたたちの愛は抑えられてしまいました。私たちがあなたたちをどのように扱ったかのゆえに、あなたたちは自分の心を閉ざしました。

私たちがあなたたちの中の罪人や偽使徒たちを懲らしめたことで、私たちが厳しすぎると思うかもしれません。私たちがあなたたちに対して心を閉じたと思うかもしれません。

しかし実際には、あなたたちがしがみついているもののせいで、あなたたち自身が心を閉ざしてしまっているのです。

あなたたちは今もなお、自分の罪を持ち続けています。偽使徒との関係を持ち続けています。心の中に偶像を抱え続けています。そして、私たちがそのことのためにあなたたちを懲らしめた時、あなたたちは心を閉ざしました。

あなたたちはそれを手放そうとしないため、自分の心を開くことができないのです。」

あなたはどうでしょうか。何にしがみついているでしょうか。

時に、人々は教会やクリスチャンの交わりから離れることがあります。または、親しい兄弟姉妹との関係が壊れてしまうこともあります。

その理由の一つは、ある人が罪を犯した際に、兄弟や姉妹がその人を訓戒しようとするからです。けれども、その訓戒のゆえに、その人は拒絶されたように感じてしまうのです。

クリスチャンの仲間から訓戒を受けることは、時に難しいものです。残念ながら、訓戒するときに柔和を欠き、厳しすぎる態度を取ってしまうこともあります。(ガラテヤ6:1)

もしかすると、コリントの人々を訓戒した時、パウロも厳しすぎたかもしれません。パウロ自身も罪人であり、ある時、マルコに対して厳しすぎる態度を取ったことがありました。(使徒の働き15:36-39)

彼が厳しすぎたかどうかは定かではありませんが、パウロは確かにコリントの人々を深く愛していました。それでも、彼の訓戒やコリントの人々が執着していた悪いもののために、彼らはパウロの愛を正しく理解することができなかったのです。

その結果、彼らは自らの心をパウロに対して閉ざしてしまったのです。

あなたはどうでしょうか。兄弟姉妹からの訓戒が厳しく感じられても、あなたは自分の罪を認め、それを手放すことができるでしょうか。

それとも、罪への執着があまりに強く、あなたを愛している兄弟姉妹との関係を断ち切ってしまうでしょうか。

要するに、あなたは訓戒を受けた時、どのように反応するでしょうか。

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コリント人への手紙第一

聖書の物語の目的

多くのクリスチャンは旧約聖書を避け、新約聖書だけを読みます。なぜなら、新約聖書に最も重要なことが書かれていると考えているからです。

もちろん、新約聖書にはイエス様の十字架の働きや、恵みによる信仰による救いがより明確に記されています。しかし、新約聖書の著者たちは、旧約聖書を不要なものとして捨てたわけではありません。

むしろ、彼らは何度も旧約聖書を引用しました。彼らは旧約聖書から抜粋したり、旧約聖書の出来事について語ったり、その教訓を適用することを教えたりしました。イエス様も、使徒たちも同様でした。

だからこそ、私たちもそうしなければなりません。

10章の冒頭で、パウロはイスラエルの民の荒野の旅を思い起こし、それについて語ります。そして、彼はコリントの人々にこう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。(コリント人への手紙第一10:6)

また、

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(コリント人への手紙第一10:11)

パウロは特に偶像礼拝、性的な罪、そして神様への不信について語っています。そして、彼によれば、これらの話を読むとき、私たちはそこから教訓を学ばなければなりません。

実際、どの聖書の話を読んでも、私たちはそうすべきです。不信者のように童話として読むのではなく、また単なる歴史的な物語として読むのでもありません。

むしろ、聖書を読むときには、こう祈るべきです。「神様、あなたは私に何を教えたいと望んでおられるでしょうか。私に何を伝えようとしておられるでしょうか。」

そのような心を持つなら、神様は私たちに教えてくださいます。このブログでは、私はその模範を示そうとしています。ただ事実を述べるのではなく、私たちの人生への適用を教えようとしています。

しかし、私たちは子供たちのためにもそうすべきです。子供たちに聖書の物語を教えることはとても良いことですが、その適用を簡単に説明することが大切です。

例えば、「神様は私たちの必要を満たしてくださいます。」(神様がエリヤに食べ物を与えた話、またはイスラエルの民にマナを与えた話。)

または、「神様に従うことは重要です。」(アダムとエバの話。)

とにかく、忘れないでください。聖書の物語は単なる話ではありません。神様は私たちへの教訓として、そして私たちの益のためにこれらを与えてくださいました。

あなたはこのような視点を持って、聖書を読もうとするでしょうか。