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マルコの福音書のデボーション

神様の戒めを捨てる

「この民は口先でわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。 人間の命令を、教えとして教えるのだから。」

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。。。

あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。(マルコの福音書7:6ー9)

今日の箇所を読んで、私は現代の文化を考えました。特に、その文化に入っている自称するクリスチャンたちを考えました。

自分がクリスチャンと主張する人たちの多くは、口先で神様を敬って、神様を愛し、神様に従うと主張しますが、道徳に関して、神様の戒めを捨ててしまいました。

教会では、そのような人たちがますます増えています。彼らは見事に神様の戒めをないがしろにして、自分の道徳観念を確立し、この世の教えを真理として教えています。

特に、性的な道徳やジェンダーに関してそうしている自称するクリスチャンたちは、ますます増えています。彼らは神様の戒めを捨て、この世の考えを抱いています。

おまけに、彼らは神様の教えをこの世の教えに合わせるため、神様のみ言葉を曲げてしまいます。

でも、イエス様はそのような人々に関してご自身の意見をはっきりと教えられました。

あなたが神様を愛し、神様に従うと主張しながら、同時に神様の戒めを捨て、この世の教えに従うことはできません。

あなたはどうですか。あなたは口先で神様を敬いながら、神様の命令を捨てているでしょうか。

もしくは、あなたの心は本当に神様のものでしょうか。

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私たちの価値観の土台とは?

何によって、自分の価値観が基づいているのでしょうか。それは本当に重要な質問です。なぜなら、あなたの価値観が、あなたのさまざまな決断に影響を与えるからです。

パリサイ人たちにとって、モーセの律法や預言者の言葉は非常に大切なものでした。とはいえ、彼らにとって伝統はそれ以上に重要なものでした。

おそらく彼らは言葉では表さなかったかもしれませんが、行動でそれを示していました。そのため、時々彼らは神様の戒めを無視し、自分たちの伝統に従うことを選んでいました。

だからこそ、イエス様は彼らを厳しく非難されたのです。

あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ15:6)

あいにく、たくさんのクリスチャンがそのように生きています。神様の言葉を無にして、別の基準に従うのです。

ある人は自分の文化や伝統に従います。たとえば、仏壇で線香をあげる人がいます。

「それはただの文化的なことです。深い意味はありません。ただ日本の風習です。」

けれども、そのようにすることで、文化や伝統のために神様の戒めを無視しているのです。(第一コリント10:19-22)

文化は別の形で私たちに影響を与えることもあります。

例えば、アメリカでは、一部の人々がこう言います。「私はキリストを信じて従います。とはいえ、聖書が間違っていると信じ、同性愛は良いものだと考えます。」

なぜ彼らはそのように信じているのでしょうか。彼らは神様に反抗する文化にますます従っているからです。彼らの価値観は、この世の文化に合わせて調整されています。しかし、それをすることで、神様の戒めを捨てざるを得なくなります。

あるクリスチャンは自分の誤った意見を離さずに神様の戒めを捨てます。例えば、神様は「クリスチャンではない人と結婚してはならない」と言われます。

それでも、彼らはこう言います。「でも、私はこの人を愛しています。きっとなんとかなるでしょう。」

その結果、彼らは神様の戒めを捨て、その人と結婚するのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの価値観の基準は何でしょうか。文化でしょうか。伝統でしょうか。自分の意見でしょうか。

真実はただ一つの基準しかありません。それは神様の言葉です。

文化は変わるかもしれません。伝統は変わるかもしれません。あなたの意見も変わるかもしれません。しかし、神様の言葉は決して変わることはありません。

預言者イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)