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ヨハネの手紙第一

神様との交わりを持つため

いろんな意味で、「クリスチャン」という言葉は無意味なものになって来ました。というのは、多くの人々は自分がクリスチャンであると自称しますが、自分の行為によって、実際には自分がクリスチャンではないと証明しているようなものだからです。

その言葉を読んで、私が厳しすぎると言われる人がいるかもしれません。けれども、イエス様ご自身はこう言われました。

「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」(マタイ7:21-22)

現代では、ある人々はこう言うかもしれません。

「主よ、主よ。私たちは教会に行ったでしょう。献金を捧げたでしょう。いろんな良いことをしたでしょう。」

しかし、イエス様は彼らに言われます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

簡単に言うと、あなたの行為を自分の信仰と分けることはできません。あなたの行為によって、あなたの信仰がれっきとしたものかどうかが現れます。

ヨハネは、今日の箇所でも、それを言っています。

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。(ヨハネの手紙第一1:5-6)

多くの自称クリスチャンたちは自分の罪にふけります。ある人は嫌いな聖句をごまかします。他の人はただその聖句を無視します。

けれども、ヨハネは、神様が光であると言っています。つまり、神様には罪が全くないということです。だから、反逆の態度をもって、神様のみ言葉を無視したり、その言葉をごまかしながら、「私には神様と交わりがある」と主張するなら、私たちは嘘つきです。

ヨハネは率直に言います。「あなたは嘘つきです。あなたは真理を行っていません。」

さらに、ヨハネは続けてこう言います。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

神様が光であるので、神様との交わりを望むなら、私たちも光の中を歩まなくてはなりません。神様は私たちが歩いている暗闇の中を歩まれないからです。

けれども、私たちの反逆的な態度を捨て、私たちの主としてイエス様に従うなら、イエス様の血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

だから、私たちの反逆をやめなくてはなりません。神様に反逆しながら、神様との交わりがあると主張するのは無理なことです。

私の解釈を疑うなら、ヨハネの言葉を読んでください。

もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。

しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。

神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。(2:3-6)

言い換えると、ある人の神様に対する態度によって、私たちはその人が神様との関係があるかどうかを見分けることができます。

その人のうちで神の愛がそこまで全うされて、愛をもって従うようになるのでしょうか。

その人はイエス様のようになりたいと願い、イエス様のように歩もうとするでしょうか。

その人は罪に落ちるとき、その罪を悲しみ、すぐに悔い改めるのでしょうか。

そうでない場合、その人が本当に救われているかどうかを疑うべきです。

あなたはどうでしょうか。神様に対するあなたの態度は、自分の神様との関係に関して何を現しているでしょうか。

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テモテへの手紙第二

この世はますます悪に落ちていくのに

もしこの世が良くなると考える人がいれば、その人は私が読んでいる聖書を読んでいないでしょう。聖書によれば、イエス様が帰って来られるまで、この世はますます悪くなります。

特に、この世の人々の不敬虔さはだんだん悪化します。自分がクリスチャンと自称する人の性格も悪化します。

だから、私は今パウロの言葉を読むと、その言葉の重さを10年前に感じたよりも、感じることができます。パウロはこう言いました。

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。(テモテへの手紙第二3:12-13)

パウロは、「もしかしたら、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けるかもしれない」と言いませんでした。むしろ、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けます」と言いました。その言葉は確実です。

どうしてでしょうか。なぜなら、悪者や偽クリスチャンたちはますます悪に落ちていきますから。偽教師たちがみ言葉に反することを教えます。そして、その聞き手はその偽教師たちを信じて騙されてしまいます。

その結果は、人々の道徳観念が曲がってしまって、この世がますます罪に落ちていくことです。それだけではなく、もし神様の光を暗闇に照らす人がいれば、その人は嫌われます。

だからイエス様はこう言われました。

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。(ヨハネ3:19-20)

この世では、その真理を見ることができます。人々はいろんな新しい道徳の教えを受け入れますが、神様のみ言葉を拒絶します。

パウロ自身、この世の憎しみを経験しました。だからパウロは光のための自分の苦しみに関してテモテに思い出させます。パウロはテモテに警告します。

「私の経験は意外なことではありません。この世の人々が暗闇に落ちれば落ちるほど、私たちは迫害と苦しみを経験します。

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。パウロは私たちに教えます。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。(テモテへの手紙第二3:14-15節)

簡単に言うと、真理にしがみつかなくてはいけません。周りの人々は真理に背を向けるかもしれないし、あなたを迫害して、その真理を絶滅しようとするかもしれませんが、真理を持っていて、宣言し続けるべきです。

どうして、私たちはみ言葉を持ち続けなくてはならないのでしょうか。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(16-17節)

神様のみ言葉は私たちのいのちです。そして、私たちがこの世の暗闇と向き合うと、そのみ言葉はすべての良い働きのために私たちを整えます。

み言葉は神の剣で、人々の心を貫いて、その心の中の暗闇を追い出すことができます。

さらに、神様のみ言葉は義について教え、私たちが罪に落ちると、そのみ言葉は私たちを訓戒します。それだけでなく、そのみ言葉は私たちを引き上げ、私たちがどのように生きるべきか訓練します。

最後に、そのみ言葉によって、私たちは試練を耐えることができます。私たちは暗い世界に生きていますが、神様は聖霊様を通していのちの言葉を私たちの心に静かに語りかけてくださいます。

イエス様は「私に従うと、あなたは楽な人生を送る」と約束されません。むしろ、イエス様はこう言われました。

世にあっては苦難があります。 (ヨハネ16:33a)

もしあなたは真理を宣言し、この暗い世界に光を照らすと、苦難を経験します。でもその光を手放さないでください。暗闇によって、その光が消えるように許してはいけません。

むしろ、イエス様の心強い言葉を覚えていましょう。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33b)

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エペソ人への手紙

罪を軽く見る

この世の問題の一つは、多くの人々が罪を軽く見ることです。 罪について冗談を言ったり、それを誇ったりする人さえいます。 けれども、罪は決して軽く見てよいものではありません。 特に、クリスチャンは罪を軽視してはならないのです。

だからこそ、パウロはこう言います。

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。

また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。(エペソ人への手紙5:3-4)

要するに、周囲の人々が私たちの行いや言葉を責める余地もないほどに、私たちは清い生活を送るべきです。 もう一度言います。私たちは決して罪を軽く考えてはなりません。

けれども、テレビ番組や映画のことを語るとき、 「このドラマでは主人公が罪を犯していた」と私たちはどれほど言うでしょうか。

あるいは、歌を聴くとき、 「この歌の歌詞は罪を売り込んでいる。この歌詞に従えば、やがて人は神様に裁かれる」と考えることは、どれほどあるでしょうか。

私たちは、ふつうそのようには考えないのです。

あなたはこう言うかもしれません。 「そんな考え方は真面目すぎます。それがこの世の文化というものでしょう。」

ところが、まさにその態度こそが問題なのです。 多くのクリスチャンは、ノンクリスチャンのように、罪についてあまりに軽く考えすぎています。 けれど、パウロは私たちに思い出させてくれます。

に軽く考えています。でも、パウロは私たちに思い出させます。

このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。

だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。(5-6)

要するに、罪は極めて深刻な問題です。 人は自らの罪のゆえに、神様の怒りを受けるに値します。 さらに、地獄にさえ値するのです。 そのような現実を思うとき、どうして罪を軽く見ることができるでしょうか。

だから、パウロはこう言うのです。

ですから、彼らの仲間になってはいけません。

あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。

彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。(7-14a)

神様は、私たちをこの世の民とは異なる者として召しておられます。 この世の人々は、罪の暗闇の中に生きています。

かつて、私たちもその暗闇の中を歩んでいました。 けれども、パウロによれば、今や私たちは主にあって光となりました。 それゆえ、私たちは光の子どもらしく歩むべきなのです。

私たちは、罪の実を結んではなりません。 むしろ、あらゆる善意と正義と真実の実を結ぶべきです。

ですから、私たちは罪を祝ってはならず、 むしろキリストの光によって、その罪を明るみに出さなければなりません。 罪が人を滅ぼすものであることを、はっきりと示さなければなりません。

そして、私たちは周囲の人々にこう語るべきです。

眠っている人よ、起きよ。 死者の中から起き上がれ。 そうすれば、キリストがあなたを照らされる。(14b)

あなたはどうでしょうか。罪を軽く見てはいないでしょうか。 罪の深刻さを忘れてしまってはいないでしょうか。

イエス様が、私たちの罪のために死ななければならなかったことを心に留めておきましょう。 イエス様は、私たちと私たちの周囲の人々を、罪の暗闇から出て、新しい命へと入るように招いておられます。

あなたは、その新しい命の光の中を歩んでいるでしょうか。 そして、周囲の人々を、あなたとともにその道を歩むように招いているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様を見るとき、イエス様の声を聞くとき

多くの人々は「神様を信じる」と言いますが、イエス様を信じていません。

しかし、もしあなたが本当に神様を信じるなら、イエス様を拒絶することはできません。この箇所で、イエス様はこう語られました。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネの福音書12:44-46)

つまり、イエス様を信じることは、神様を信じることです。イエス様を見ることは、神様を見ることです。

そして、イエス様はこう語られました。

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(49-50)

だから、イエス様の言葉を聞くことは、神様の言葉を聞くことです。なぜなら、イエス様は神様の言葉を正しく伝えられるからです。

したがって、もしあなたがイエス様の言葉を拒絶するなら、それは実際には神様の言葉を拒絶することになります。さらに、もしイエス様を拒絶するなら、それは神様ご自身を拒絶することなのです。

そこで、イエス様はこう語られました。

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)

私たちがイエス様の言葉を聞くと、その言葉によって私たちは裁かれます。

もしイエス様を信じるなら、あなたは光と命を見つけるでしょう。 しかし、イエス様を拒絶するなら、あなたが見つけるのは暗闇と裁きです。

あなたはどう選ぶでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

光の中を歩んでいる?

イエス様がラザロとその家族に会うためにユダヤへ行こうとされたとき、弟子たちはその決断に反対しました。

先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。(ヨハネの福音書11:8)

けれども、イエス様の答えは本当に印象的でした。

昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。(9-10)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。

天の父の御心に従う限り、必ず守られるでしょう。天の父の導きを信頼する限り、つまずくことはありません。イエス様はそう教えられました。

その反面、神様の御心に従わない人や、天の父の導きを信頼しない人は、迷いの中で苦しむことになります。

だからこそ、私たちはイエス様のように生きるべきなのです。

前回の記事で私は、イエス様が何よりも私たちの信頼を望んでおられると書きました。そして、私たちがイエス様を信じて従う決断をするとき、物事をありのままに見るようになります。

たとえ私たちの状況が厳しいときでも、イエス様の愛を感じることができます。また、私たちの試練が一時的なものであることを理解するようになります。

しかし、世の光から離れると、試練と受けた傷のために、私たちは絶望の暗闇の中でつまずいてしまいます。

あなたはどうでしょうか。あなたには、はっきりと見えていますか。

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マタイの福音書 マタイ12章 ルカの福音書 ルカ11章

私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人たちは、「イエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出している」と言いました。

そのため、イエス様は彼らの不信を責められました。そこで、彼らはイエス様にしるしを求めました。

しかし、たとえイエス様がしるしを示されたとしても、彼らはそれでも信じなかったでしょう。だからこそ、イエス様は彼らの要求を拒まれました。

では、なぜ私は「彼らはしるしを見ても信じなかっただろう」と思うのでしょうか。それは、イエス様がすでにヨナのしるしを彼らに示されたからです。

つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出られました。ところが、イエス様がよみがえられた時、パリサイ人たちはそれでもイエス様を信じませんでした。

そのため、イエス様はもう一度彼らの固い心を責められました。具体的には、イエス様は「ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)が彼らを裁く」と言われました。

なぜなら、彼らはヨナやソロモン王のメッセージを聞いた時、悔い改めたからです。

一方で、イエス様がソロモンやヨナよりも優れた方であるにもかかわらず、パリサイ人たちは信じようとしませんでした。

そのため、イエス様は彼らに例えを示されました。その例えを通して、イエス様は「彼らがイエス様を信じないこと、また、聖霊を拒絶することの結果」について教えられました。

イエス様はこの世に来られた時、地獄の力を克服されました。例えば、その時、イエス様は多くの悪霊を人々から追い出されました。けれども、イエス様はイスラエルの民とパリサイ人たちに警告されました。

「私は悪霊を追い出し、地獄の力を克服し、私の賜物、つまり御霊を与える。ところが、もしあなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻り、あなたの状態は以前よりも悪くなる。」

なぜでしょうか。それは、あなたが神様の力を味わい、あなたを救うことのできる方に触れられたにもかかわらず、その方を拒絶したからです。

そして、イエス様は山上の垂訓の例えをもう一度語られました。それは、「体のあかりは、あなたの目である」ということです。もちろん、これは物理的な真理ですが、同時に霊的な真理でもあります。

イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたは何を見ていますか。神様が語られるとき、その真理を見えますか。私を見るとき、私が誰であるか分かりますか。」

もし私たちが正しく見ることができるなら、私たちの人生は光に満ちるでしょう。しかし、正しく見えなければ、私たちの人生は暗闇に満ちてしまいます。そのため、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうでしょうか。イエス様をあなたの主と救い主として受け入れていますか。御霊をあなたの人生に歓迎していますか。

もしあなたが心を神様に対して固くしてしまうなら、サタンの破壊的な働きを受けやすくなります。

しかし、もしあなたが心を御霊に開くなら、命を見いだすのです。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:私たちはどこに照準を合わせるのか?

前回の記事で私が述べたのは、私たちがいつも「この罪を避けなきゃ、この罪を避けなきゃ」と考えると、多くの場合、かえってその罪に落ちてしまうということです。それよりも、もっと良い方法は、神様に焦点を当てて従うことです。

ただし、この態度は誘惑に対する場合だけでなく、すべてのことに対して持つべきだと思います。この箇所では、イエス様が私たちが何に照準を合わせるべきかについて語られます。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19-21)

そして、イエス様はこう言われました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(24)

私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は何に照準を合わせているだろうか。」

多くの人々は、一時的なものに照準を合わせます。例えば、お金や持ち物などを得ることに焦点を当てています。

しかし、イエス様はこう言われます。「そんなものは結局なくなります。あなたは永遠のものに照準を合わせるべきです。」

では、永遠のものとは何でしょうか。

永遠のものは二つしかありません。神様との関係と、ほかのイエス様を信じる人々との関係です。

私たちは天国に、この地からほかのものを持っていくことはできません。だからこそ、この世に生きている間に、その二つのものに焦点を当てるべきです。

私たちは神様との関係をより深めるために努力するべきです。また、イエス様を知らない人々に福音を伝えるべきです。そして、クリスチャンの兄弟姉妹との関係を強めるために働くべきです。

そうするなら、私たちは天国に宝を蓄えることができます。神様との関係と、私たちが愛する人々との関係よりも、もっと素晴らしい宝があるでしょうか。

しかし、多くの人々、たとえクリスチャンであっても、お金を儲けることやこの世のものを獲得することに焦点を当てています。けれども、イエス様は「あなたはそれができない」と警告されます。

神様はあなたの心の半分だけを望まれるのではありません。もし神様があなたの心の半分しか持たないなら、あなたの奉仕は受け入れられません。私たちはお金に仕えることもできるかもしれませんし、神様に仕えることもできます。両方に仕えることはできません。

そこで、イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたはどんな目を持っていますか?物の本当の価値が見えていますか?何が本当に大切かわかっていますか?

もしそうなら、あなたの全身も明るいでしょう。あなたは生きがいのある人生を送り、神様が意図された人生を知るでしょう。それは、神様との関係と人間関係を中心とした人生です。」

けれども、もしそれが見えないなら、あなたは暗闇に満ちた人生を送ります。あなたはいつも不満を感じますが、その理由を決して理解することはありません。お金や他のものを追い求めても、最終的にあなたの心は空っぽのままです。

そのため、イエス様はこう言われます。

もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:23)

また、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11;35)

どうでしょうか。あなたは何に照準を合わせていますか。

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箴言

邪な世界に住んでいるのに

以前は、アメリカはクリスチャンの国と呼ぶことができました。今でも、多くのアメリカ人は「私はクリスチャンだ」とか、「神様を信じる」とか言います。

けれども、アメリカがクリスチャンの国だとはもう言えないと思います。実は、アメリカの歴史の中では、多分今は一番暗い時期でしょう。

ソロモンの時代はましだったけど、彼が周りの国々を見ると、いろんな悪を見ました。

彼は無政府状態を見たし(箴言28:2)、自分の民を気にしない独裁者や、正義を気にしない支配者や、酷い罪を犯す王を見ました。(箴言28:3、12、15-16;29:2、4、12)

アメリカや日本はまだそこまで悪くないと思いますが、私たちは、人に仕えるよりも、自分の立場を守りたがる政治家をよく見ます。

特に、アメリカでは、与党議員や裁判官は私たちの社会の道徳的価値観を変えて、罪を良いことだと呼びます。

ソロモンは社会の中の邪についても話します。多くの人々は神様の律法を拒絶し、その律法を拒絶する人を誉めます。(28:5)

彼らはその律法を拒絶するので、道徳的に堕落してしまいます。(28:5)

それに、彼らは正しい人を迫害し始めます。(箴言29:10)

それでは、どうやって、私たちはそんな社会に住むべきでしょうか。ソロモンはこう言います。「神様の道を行き続けなさい。その道を捨てるな。」

彼はこう書きました。

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。

しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(28:14)

私たちの周りの悪を見ると、自分の心が堅くなるのは簡単なことです。私たちの愛が冷たくなるのは簡単なことです。(マタイ24:12)

つまり、私たちの神様に対する愛、周りの人々に対する愛が冷たくなってしまいます。

そのような態度に注意しましょう。神様に対する柔らかい心を保ち、主を恐れ続けましょう。

ソロモンは私たちに警告します。

耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。(28:9)

また、

潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。(28:18)

だから、悪と戦い続け(28:4)、頑張って働き(28:19)、忠実に生き(28:20)、周りの人々に対して気前がいい態度を持ってください。(28:27)

あなたが罪を犯してしまうなら、すぐに悔い改めてください(28:13)。そして、自分の子供にそのように生きるように訓練するべきです(29:15,17)。

周りの人々は神様の律法を捨てるかもしれませんが、神様の道に従い続けるべきです(29:18)。

一番大事なポイントは、神様を信頼し続けるべきだということです。

ソロモンはこう書きました。

自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。(28:26)

また、

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)

神様がエレミヤに命じられたように、私たちにもこう命じられます。

彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。

わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。

彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ(エレミヤ15:19-20)

あなたはどうですか。周りの人々のようになっているでしょうか。それとも、この暗闇の中で、光となっているでしょうか。

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詩篇

暗い時に希望

私が高校生の時、詩篇116篇にちなんだ歌を聴きました。その時から、この詩篇は私のお気に入りになりました。

そのソングライターはリビング・バイブルの訳を引用しました。

私は主を愛します。なぜなら、主は私の祈りに聞き、答えてくださるから。

主が私に耳を傾けられるので、私は生きる限り祈ります。(詩篇116:1-2)

なぜか、「主が私に耳を傾けられる」と言う言葉は私の心の中に響きます。

神様は私を愛しておられるので、私のすべての言葉を聞くために耳を傾けてくださいます。

そのことについて考える時、私は驚きます。

私には7歳の娘がいます。もちろん私の方が背が高いので、時々、私はちょっと低くして、彼女と話します。なぜなら、私が彼女の言葉を聞くのがもっと簡単になるし、彼女の目がちゃんと見えるからです。

神様は私たちのためにもそうしてくださいます。特に、私たちが暗闇の中にいる時に神様はそうしてくださいます。この詩篇では、詩人は自分のそんな時について歌います。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(3-4)

そして、神様は憐れみと恵みによって、その詩人に触れられました。だから、詩人は歌います。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。(7)

けれども、この詩篇で私たちが学ぶのは、神様に従ったとしても、時々私たちは困難に直面することです。

詩人はこう書きました。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。(10)

パウロは、自分の試練について話した時、この詩篇を引用しました。彼はこう言いました。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。(第二コリント4:8-9)

そして、彼はこう言いました。「私が福音のために苦しんでいても、イエス様の命は私たちを通して表れました。だから、私の周りの人々はその命を受けました。」(第二コリント4:10-12)

だから、パウロは詩人のように言いました。

「私は信じた。それゆえに語った。」(第二コリント4:13)

要するに、「私が福音を述べ伝えることができるなら、私は喜んで暗い時を通って、苦しみます。」

だから、パウロはこう言います。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント4:16-18)

詩人も主からの救いを知ったので、永遠の物に照準を合わせ、主をほめたたえ、自分の人生を主に奉げました。彼は歌いました。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。(詩篇116:12-14)

神様は私たちの鎖も打ち砕いてくださいました。だから、心から主をほめたたえ、感謝のいけにえを捧げ、周りの人々に主が私たちのために何をしてくださったか伝えましょう。

そうすれば、彼らも暗闇から自由にされます。

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詩篇

聖所となるように救われた、神の国民になるように救われた

詩篇114篇では、詩人はどうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出し、砂漠を通して、約束の地に導いてくださったかを話します。

神様はイスラエル人のためにいろんな奇跡を行って、自分の力を表されました。(詩篇114:3ー8)

けれども、2節は私の心を打ちます。

詩人はこう歌います。

ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。(詩篇114:2)

どうして、神様はイスラエル人のためにたくさんの奇跡を行われたでしょうか。

神様の目的は、神様が彼らの間に住み、イスラエル人が神様の聖い国民になることです。

そのように、神様は、ただ私たちが天国に行くために私たちを救ったのではありませんでした。むしろ、神様は私たちの間に住むように私たを救われました。

また、私たちが神様の宮となり、神様は私たちの中に住まわれます。そして、神様の民として、私たちは神様が設立する国に参加します。

だからペテロはこう書きました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

その最後の部分に注意してください。どうして、神様は私たちを聖所とされるのでしょうか。どうして、神様は私たちを自分の国民とされるのでしょうか。

私たちが神様の素晴らしい御業を宣べ伝え、私たちの周りの人々を闇の中から神様の驚くべき光の中に導くためです。

主よ。私の中に住んで、私があなたの使節になるようにしてください。あなたが私を闇の中から光の中に招いてくださり、ありがとうございます。

私たちの周りの人々があなたの光に来るように私たちを用いてください。アーメン。

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イザヤ書

神様の光に歩む。自分の光に歩む。

「私が何をしているか自分でよく分かっている。あなたの教えなんて必要ない。」

私たちはよくそのような態度を取りますが、結局行き詰まってしまいます。そしてその時、私たちはしばしば神様を責めます。

「なぜ、あなたは私を見捨てたのですか。」

イスラエルの民も同じようにしました。自分たちの罪の結果として困難に陥ったにもかかわらず、彼らは神様を責めたのです。

あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたがたを売ったというのなら。

見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。

なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。(イザヤ書50:1-2)

イスラエルの民はこう文句を言いました。「あなたは私たちの母であるエルサレムを離婚し、私たちというその子供たちを見捨てた。」

しかし、神様は答えられました。

「離婚状はどこにあるのでしょうか。私は誰にあなたたちを売ったでしょうか。私は何もしていません。

あなたたちの罪のせいで、あなたたちは自分自身を奴隷として売り渡したのです。

私はあなたたちを見捨ててはいません。私は家に帰って来たが、去ったのはあなたたちです。不実であったのは私ではなく、あなたたちです。」

そして、神様は不実なイスラエルと来るべきメシアを対比されます。天の父はイエス様に「弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教えられた」のです。

さらに、イエス様は毎日天の父の言葉に耳を傾けておられました。イエス様は天の父に決して反抗せず、その御心に従うために苦しみを耐え忍ばれました。

そのため、天の父は常にイエス様を助け、いつもイエス様と共におられました。(4-7)

そして、神様はこう言われました。

あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。

暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。

見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。

このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。(10-11)

神様は何を言われているでしょうか。

もし、あなたが暗闇に迷い、つまずいているのなら、神様に信頼を置いてください。そして、神様とその知恵に頼り続けてください。

そうすることで、暗闇を抜け出し、光の中に入ることができます。神様の赦しを知り、そしてイエス様のように、あなたもこう言うでしょう。

私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。

どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。(8-9)

パウロは同じような言葉を書きました。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34)

しかし、もしあなたが自分自身の「光」に頼り続けて歩むなら、最終的に苦しみを味わうことになるでしょう。

どれほど私たちは自分の知恵に頼って生き、自分の人生を自ら台無しにしているのでしょうか。私たちが神様に耳を傾けないことで、結婚生活や経済が混乱し、破綻してしまいます。

そして、それにもかかわらず、私たちは神様を責めるのです。

もし私たちが神様に従い、その道を歩むなら、私たちの人生はどれほど豊かで平安に満ちたものになるでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。神様の光に導かれて歩んでいますか。それとも、自分自身の光に頼って歩んでいるのでしょうか。