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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

信仰、望み、愛

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。(テサロニケ人への手紙第一1:3)

信仰、望み、愛。

天のお父さん、私がするすべてのことが、それらから生まれるようにしてください。

義務からではなく、「我慢しなければ」という感情からでもなく。

むしろ、私の働きが信仰から出るようにしてください。それは、あなたが良い方であることを信じる信仰です。あなたが私を愛してくださることを信じる信仰です。私の最善をご存知であり、それを願っておられると信じる信仰です。

私の苦労が愛から生まれるようにしてください。あなたへの愛。周りの人々への愛。

私の忍耐が望みに支えられるようにしてください。永遠を考慮に入れると、この世の問題、私の問題ははかないものです。イエス様、あなたを知っているゆえに、その望みをもっています。

あなたのゆえに、私の罪は赦されました。私の問題を通して、神様が私を罰しておられるというわけではありません。

むしろ、私は大胆に神様の御前に進み出ることができます。あなたのように、私は天の父に選ばれ、愛されているのです。

私が毎日毎日、一瞬一瞬、その視点を保つことができるようにしてください。

イエス様、あなたを待ち望んでいます。私は待ち望んでいます。

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使徒の働きのデボーション

神に望みを抱いて

また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:15ー16)

天のお父さん、私は望みを抱いています。

つまり、死が終わりではないという望みを抱いています。復活が必ずあるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日があるという望みを抱いています。あなたがすべての不義を裁いてくださるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日に、私は恐れる必要がないという望みを抱いています。イエス様の血によって、私は罪に定められることが決してないという望みを抱いています。

その望みを、私は確かに抱いています。

だからこそ、恐れのためではなく、むしろ、あなたへの感謝と愛のゆえに、私はあなたの前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。

今日、私の人生があなたに喜ばれる、聖なる生きたささげものとなりますように。私の人生があなたにとって、芳しい香りとなりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

私は望みを抱いている

また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。(師との働き24:15)

その言葉は私の心に響きました。

どうして、パウロは望みを持っていたのでしょうか。

なぜなら、パウロは、神様が彼を愛しておられるという確信を持っていたからです。また、神様がパウロの罪の罰を受けるためにイエス様を送ってくださったことを、パウロは知っていました。

でも、それだけではなく、神様がイエス様を復活させたことも、パウロは知っていました。

そういうわけで、パウロは、自分の問題が永遠に続くわけがないと知っていました。

さらに、パウロは、すべての悪人が裁かれる日が来るという確信を持っていました。

でも、パウロは神様の愛をよく知っていたので、フェリックスと違って、神様の裁きを恐れませんでした。(25)

むしろ、パウロは毎日、望みを抱き、神様を喜ばせようと努め、イエス様を切実に必要とする世界に触れていました。(16)

私たちは暗い時代に生きているかもしれません。でも、パウロと共に、あなたは「望みを抱いている」と言えるでしょうか。

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詩篇のデボーション

私たちの望み、私たちの喜び

最近、私はヨハネ14章から16章をよく読んでいます。だから、この詩篇を読んだとき、私はこう思いました。

「この詩篇を歌ったとき、イエス様の弟子たちの心には、ヨハネ14章から16章にあるイエス様の言葉がどれほど思い浮かんだでしょうか。」

その時、イエス様はまもなく十字架にかかられることをご存じだったので、弟子たちに、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言われました。

ぺテロはその言葉を受け入れず、いつものように自信満々で、イエス様に「あなたのために、私は命を捨てます」と言いました。

しかし、イエス様は彼に、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われました。

それを聞いて、ぺテロと他の弟子たちは本当に悲しみました。(ヨハネ13章33〜38節)

だから、イエス様は彼らに語られました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

イエス様が復活されたあと、弟子たちがこの詩篇を歌った時、イエス様の言葉は彼らの心に深く響いたでしょう。つまり、

神よ、私の心は揺るぎません。 私は歌い ほめ歌います。 私の心の底も。(詩編108:1)

ダビデのように、彼らは、自分の力ではなく、むしろ神様の忠実さに信頼することを学びました。

イエス様が彼らに「わたしは去って行く」と言われた時、弟子たちはダビデのようにこう考えていたでしょう。

神よ、あなたは私たちを拒まれるのですか。 神よ、あなたはもはや、私たちとともに出陣なさらないのですか。(詩篇108:11)

しかし、イエス様は彼らを励まされました。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:18ー19)

数年後、聖霊に満たされた弟子たちは、ダビデの言葉をどれほど勝利に満ちて歌ったでしょうか。つまり、

神にあって私たちは力ある働きをします。 神こそが、私たちの敵を踏みつけてくださいます。(詩篇108:13)

その言葉を歌った時、彼らはあの晩に語られたイエス様の最後の言葉を思い起こしたでしょうか。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

そして、彼らが復活された主を思い出した時、彼らの心はどれほどダビデの言葉を歌ったでしょうか。

主よ、私は諸国の民の間で あなたに感謝し、もろもろの国民の間で あなたをほめ歌います。

あなたの恵みは大きく、天の上に及び あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

神よ、あなたが天で、あなたの栄光が全地であがめられますように。(詩篇108:3ー5)

イエス様の弟子たちのように、私たちは生きておられる救い主に仕えています。だからこそ、彼らのように、イエス様にある望みを喜びましょう。

 

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詩篇

聖さの望み

詩篇119篇は最も長い詩篇であり、最も長い聖書の章です。だから、少しずつこの詩篇を読み、そのテーマについて話していこうと思います。

この箇所では、私たちは詩人の聖さの望みを見ることができます。だから、この詩人がダビデかもしれないと考える方もいるでしょう。なぜなら、ダビデは神様の心に叶うものと呼ばれたからです。(とはいえ、この詩篇は無名の詩人によって書かれました。)

最初に、詩人は全き道を行く人々の幸せについて話します。そして、彼は心から叫びます。

どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。

そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。(詩篇119:5-6)

つまり、「どうして、聖い人生を生きることができないのだろう。私はよく自分の罪を恥じます。あなたの命令を守ることができたらいいのに。」

そして、もう一度、彼は約束します。

私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。(8)

聖さの鍵は何でしょうか。詩人は私たちにその答えを示してくれます。

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。

あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(9-11)

私たちはどのように聖い人生を生きられるでしょうか。私たちは神様の言葉に従って守るべきです。私たちは神様の言葉を心にたくわえ、その言葉に思いを巡らすべきです。

私たちは聖書を本棚にずっと置かずに、その言葉を読んで、喜ぶべきです。

私たちを清める御言葉を喜ぶでしょうか。また、私たちは神様の聖さを喜ぶでしょうか。

時々私はそうしません。聖いものに思いを巡らさずに、そのものを喜ばずに、私は聖くないものに焦点を当てます。だから、私は罪に落ちます。

だから、パウロのように私は叫びます。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

もし自分の力で聖い人生を求めるなら、それは当然の結果です。

それでは、その解決は何でしょうか。パウロはこう言います。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

私たちは自分の力によって聖い人生を生きることはできません。それは無理です。詩人もそのことが分かりました。だから、彼は神様に叫びました。

どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。(詩篇119:10)

要するに、「私は聖い人生を送れません。助けてください。」

この詩篇を読む時、律法主義の考え方を持つことは簡単です。多くのクリスチャンは「私は自分の力で聖い人生を生きなくてはならない。」と思います。

けれども、私たちが神様の恵みによって救われたことを決して忘れないでください。また、神様が私たちの中で働いてくださらないなら、私たちは決して聖い人生を生きることができません。

しかし、「もしそれは無理なら、どうして努力するだろうか」と思わないでください。

むしろ、私たちは義に飢え渇きましょう。そうすれば、どうして私たちが神様が必要かはっきり分かるようになります。その時、神様の恵みが私たちの心に注がれます。

また、自分の正しさに関するプライドが無くなって、神様の恵みと憐れみを見ますので、私たちはへりくだります。

その結果は何ですか。私たちが自分の力に頼らず、神様の力に頼るので、私たちは神様ともっと親しく歩みます。そして、神様が私たちの心を変えてくださいますので、私たちの人生は変わります。

それが私たちが聖くなるプロセスです。

あなたはどうですか。神様の聖さに飢えるでしょうか。