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コリント人への手紙第二

真の愛

私たちは6ー7章を読むと、コリント人たちに対するパウロの愛をもちろん見ることができます。しかし、その愛は、私たちに対する神様の愛をも反映しています。

パウロはコリント人たちに心から願いました。

私たちに対して心を開いてください。(コリント人への手紙第二:7:2)

あるコリント人たちは自分の心をパウロに閉ざしていました。だから、パウロは彼らに「心を開いてください。」と願いました。

同じように、神様も私たちがご自身に心を開くことを望んでおられます。私たちが不信者たちと不釣り合いなくびきをともにせず、神様との親しい関係を持ち、一緒に歩むことを望んでおられます。

なぜ神様はそれを望まれるのでしょうか。それは、私たちが神様の息子と娘だからです。

パウロはコリント人たちに対して、深い愛を持っていました。彼は自分自身を彼らの霊的な父と呼びました。(第一コリント4:15)

だから、霊的な父として、パウロは天の父が私たちに示されるような愛をコリント人たちに与えました。言い換えると、彼は彼らに真の愛を示しました。

では、真の愛とはどのようなものでしょうか。

パウロはこう説明します。

私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。(コリント人への手紙第二8:2b)

すべてのクリスチャンのリーダーたちが、そのように言えるならどんなに良いことでしょう。

つまり、リーダーたちが故意に人を傷つけることがなく、彼らの教えが人々を聖い人生へと導くことです。また、彼らが人々の弱さにつけ込むこともなく、金銭をだまし取ることもないことです。

パウロは、それを自信を持って主張することができました。

そして、パウロは続けてこう言いました。

前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。(3b)

真の愛は、どんな状況でも相手とともに立ちます。たとえ死に直面するときも、真の愛は揺るぐことなく忠実です。

そしてパウロはこう言いました。

私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。(4)

愛は、人々を信じます。コリント人たちとの関係に問題があっても、パウロは彼らのことをテトスに誇りました。彼はテトスにこう言ったようです。

「私はコリント人たちを信じます。彼らが本当に神様の民であることを信じます。だから、たとえ私たちの言葉が厳しく、聞きにくいものであっても、最終的に彼らはその言葉を受け入れ、悔い改めることを信じます。」(14)

だからこそ、パウロは彼らに愛を示し、彼らを訓戒しました。真の愛は必要があれば人を訓戒するものだからです。

けれども、人を訓戒することを避ける人もいます。なぜなら、それが愛のない行為に見えるのではないかと心配するからです。

また、愛を持たずに真理を伝える人もいます。正直さよりも、ただ残酷な言葉を投げかけることに興味があるのです。

しかし、それはパウロの意図ではありませんでした。彼の望みは、コリント人たちが悔い改めることでした。決して彼らを傷つけることを望んでいたわけではなく、むしろ彼らが霊的に成長することを願っていたのです。(9-10)

結局、パウロの願いは叶いました。

時に、私たちが人を訓戒する理由は、相手の心を見抜くことにあります。パウロはこう言いました。

「あなたを訓戒した時、それは単に不正を行った人のためでも、被害者である私のためでもなかったのです。むしろ、あなたの心を見抜きたいと思いました。そして、あなたの悔い改めによって、あなたの心にあるものが明らかになりました。」(11-12)

けれども、それはパウロが彼らを信じていなかったために、試そうとしたということではありません。むしろ、彼は彼らを信じていたので、必ず悔い改めることを信じていました。

それが愛です。パウロのコリント人に対する愛とは、そのようなものでした。そして、神様の私たちに対する愛も、同じようなものです。

だからこそ、私たちもそのような愛を持つべきです。

あなたは、そのような愛を持っているでしょうか。

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真の愛。偽りの愛。

この話では、私たちはイエス様に対する二人の人物の愛を見ることができます。けれども、彼らの愛は全く異なるものでした。

マリアの愛は心から生まれたものでした。一方で、ユダの「愛」は自分勝手で利己的なものでした。

イエス様はベタニアという町に行かれました。その時、イエス様はシモンという人の家を訪れました。弟子たち、ラザロ、そしてその姉妹マリアとマルタも来て、一緒に食事をしました。

食事の後、マリアは非常に高価な香油を持ってきて、イエス様の頭に注ぎ、さらにその足にも塗りました。そして、自分の髪でその足を拭いました。

ユダはそれを見て、こう言いました。

どうして、子の香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(ヨハネ12:5)

他の弟子たちも同意し、同じようなことを言ったようです。

けれども、ヨハネはユダの動機を説明しています。

彼がこの言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(12:6)

だから、イエス様はこのように答えられました。

彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。私のために、良いことをしてくれたのです。

貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。

彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。(マルコ14:6-9)

この言葉に対するユダの反応は何だったのでしょうか。彼はイエス様を引き渡すために、祭司長たちのところへ行き、彼らから銀貨30枚を受け取りました。

私たちはユダの動機を完全には知りません。けれども、それが単にイエス様の叱責に対する反発ではないと思います。おそらく、もっと深い理由があったのでしょう。

もしかしたら、彼の愛は、相手から何を得られるかに基づく利己的なものだったのかもしれません。だから、自分の利益のためにお金を盗める限り、彼は貧しい者にお金を渡すことに満足していたのでしょう。

また、イエス様が王になりそうだと期待する限り、ユダはイエス様に従うことを選んでいたのかもしれません。

しかし、何度もイエス様は、王になることではなく、自分の死について語られました。もしかしたら、ユダはその話にうんざりし、「もし死にたいと思うなら、死ねばいい」と考えた可能性もあります。

だからこそ、彼はイエス様を裏切ったのではないでしょうか。

一方で、マリアは心からイエス様を愛しました。ユダとは異なり、マリアはイエス様から何かを得ようとはせず、純粋な心でイエス様に貴いものをささげたいと願いました。

私はヨハネの生々しい描写がとても好きです。

家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

イエス様に対する私たちの愛は、そのようであるべきです。この世は、イエス様に対する私たちの愛の香りで満たされるべきです。私たちの愛が明らかになれば、周りの人々はその愛を見過ごすことはないでしょう。

ユダがマリアを責めたように、私たちを責める人もいるかもしれません。けれども、イエス様にとって、私たちの愛は香油のようなものです。

あなたはどうでしょうか。あなたの愛は自分勝手なものでしょうか。イエス様から何を得られるかだけを考えているでしょうか。

あるいはあなたの愛は、イエス様にとっても、この世界にとっても、素晴らしい香りを放つものでしょうか。