ある人はこう考えます。「もし信仰を十分持っているなら、私の人生はスムーズに進む。健康や経済の問題などはまったくないはず。むしろ、とても楽な人生を送るだろう。」
どうやら、そのような人々はこの箇所を読んだことがないようです。もちろん、信仰のある人々が勝利を経験することもあります。しかし、ある人々はこうした経験をしました。
嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。
この世は彼らにふさわしくありませんでした。
彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。(へブル人への手紙11:36-39)
そして、この著者によれば、彼らの中で、この世において神様が約束されたものを手に入れた人は誰もいませんでした(39)。
では、この著者は彼らを責めて、「この人たちの信仰は足りなかった」と言ったでしょうか。
「どうして彼らは貧しかったのでしょうか。どうして彼らは荒野で暮らしていたのでしょうか。神様の計画は彼らが豊かな人生を送ることだったのに。彼らの信仰が足りなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。
「どうして彼らは牢に入れられ、信仰のゆえに殺されたのでしょうか。もし、彼らがきちんとした信仰を持っていたなら、神様は彼らを救い出してくださったはずでしょうか。」と言ったでしょうか。
「どうして彼らは神様の約束を受け取れなかったのでしょうか。もし、十分な信仰を持っていたなら、神様は報いを与えなければならなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。
違います。この手紙の著者は、そのようなことはまったく言っていません。
むしろ、彼はこう言いました。
これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されました。(39)
彼は、「彼らの信仰が足りなかったから、この世の良いものに値しなかった」とは言いませんでした。むしろ、こう言いました。
この世は彼らにふさわしくありませんでした。(38)
簡単に言えば、神様は「信仰を十分持っていれば、人生はスムーズに進む」とは決して約束されません。むしろ、12章で著者はその逆を語ります。
私たちは誰でも、苦しい時を経験します。信仰を持っていても、苦しみに遭うことはあるのです。
しかし、信仰生活では、私たちは苦しみに目を向けるのではなく、将来に約束された報いに目を留め、希望を持って待ち望みます。だから、この手紙の著者はこう言います。
神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。(40)
イエス様のゆえに、その聖徒たちは私たちと共に罪から解放され、完全な者とされます。そして、すべてが新しくされたとき、私たちの苦しみや悲しみは取り去られます。
信仰を持つ者はその時を待ち望みます。この世の喜びに心を向けるのではありません。(もちろん、この世においても、神様は私たちに喜びを与えてくださいますが。)
むしろ、永遠の喜びを待ち望むのです。それは、私たちが神様と共にいる時だからです。
あなたはどうでしょうか。信仰を十分に持っていれば、楽な人生が約束されていると思いますか。
神様はそのような約束をされていません。神様が約束されたのは、永遠のいのちに心を向けるなら、やがてその報いを受けるということです。
あなたは何を待ち望んでいるでしょうか。
