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テサロニケ人への手紙第二

偽善か模範か

多くのクリスチャンたちは偽善者と呼ばれます。残念なことですが、実際に偽善的な行動をとってしまうクリスチャンも多くいます。

しかし、パウロは偽善者ではありませんでした。

彼がテサロニケに行ったとき、教会の中に怠け者がいました。その状況があまりにも深刻だったため、パウロはこのようなルールを定めたほどです。「働きたくない者は食べてはならない。」(10節)

しかもパウロは、そのルールを定めただけでなく、自身の日常でもその姿勢を貫いていました。彼は福音を伝えるために報酬を受ける正当な権利を持っていましたが、その権利をほとんど行使しませんでした。むしろ、パウロはこう語ったのです。

どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。

あなたがたの間で、私たちは怠惰に暮らすことはなく、人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。(テサロニケ人への手紙第二3:7-8)

では、なぜパウロはそのような生き方を選んだのでしょうか。

私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。(9)

パウロが自らそのように生きていたからこそ、怠け者たちを厳しく戒めることができたのです。彼はこう語りました。

ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。

そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(11-12)

また、

もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。(14)

多くの人は、イエス様のこのことばを引用します。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」

けれどもイエス様が語られたのは、正しい裁きではなく、偽善的な裁きについてでした。なぜなら、自分の欠点を見ようともせずに、すぐに他人を批判する人がいるからです。

それに対して、パウロは単に相手を裁く人ではなく、良いクリスチャンの模範でもありました。

さらにパウロが明確に教えているのは、私たちクリスチャンが裁くべき相手は、教会の外にいる人ではなく、教会の内にいる人たちであるということです(第一コリント5:9〜13)。

しかし、たとえ教会の内にいる人たちを正しくさばくとしても、私たち自身が偽善者ではなく、むしろ良い模範であることに注意しなければなりません。周りの人々は、単に正しいことを語る人々ではなく、そのことばに従って生きる姿を見ているからです。

「完全でないから人をさばいてはならない」というわけではありません。けれども、私たちは神のみ前でいつも謙遜な心を持ち、他人の欠点を見る前に、自分自身の欠けに目を向けるべきです。

私たちがイエス様とその光に近づくほど、自分の罪や弱さはさらに明らかになります。

もし自分の欠けや罪に気づけないのだとすれば、それはイエス様にまだ近づいていないということかもしれません。

また、そのような状態では、パリサイ人のように偽善に陥る危険すらあるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは偽善者でしょうか。それとも、良い模範でしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちの天の父の模範に従う

今日の箇所では、私たちの人間関係が、どのように天の父との関係を映し出しているかが分かります。

エペソ人への手紙5章では、パウロは私たちと神様との関係を結婚に例えています。 教会がキリストに従うように、妻も夫に従うべきです。

そして、キリストが教会を愛し、ご自身のからだの一部として大切にされたように、 夫たちも妻を愛し、自分のからだの一部として扱うべきなのです。 なぜなら、神様の目には、夫婦はすでに一つとされているからです。

6章では、パウロは神様との関係を親子関係に例えています。 パウロはこう語っています

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。(エペソ人への手紙6:1)

どうして、子どもが自分の両親に従うことが正しいのでしょうか。 それは、神様が子どもたちを両親に委ねられたからです。 子どもが成長する間、神様は子育ての責任を両親に託しておられます。

ですから、たとえ両親の指示や戒めの理由が理解できなくても、子どもたちは両親に従うべきなのです。

もう一つの理由は、親子関係が、私たちと神様との関係を映し出すものだからです。

神様は、私たちの天の父です。 そして、私たちの地上の両親とは違って、神様は常に何が最善であるかをご存じです。 ですから、たとえ神様の指示や戒めの理由が理解できなくても、私たちは御言葉に従うべきです。 そうしてこそ、私たちは神様の祝福を受けることができるのです。

このような理由から、パウロは語っています

「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。(エペソ人への手紙6:2-3)

両親に対する子どもたちの従順によって生まれる祝福は、 私たちの神様への従順によってもたらされる祝福を映し出しているはずです。

ところが、すべての親子関係がその祝福を映しているわけではありません。 どうしてでしょうか。 それは、両親の行いが、必ずしも神様のご性質や行いを正確に表しているとは限らないからです。

ある両親は、子どもたちをきちんと懲らしめません。 または、彼らの懲らしめはあまりにも厳しすぎることがあります。

ある両親は、子どもを褒めることなく、常に批判を繰り返します。 そのようなやり方が、子どものやる気を引き出すと思っているからです。

また、子どもたちが困難に直面しているとき、 彼らに共感を示さない親もいます。

こうした行いによって、親子の関係は壊れてしまい、 子どもたちの神様に対するイメージも歪められてしまうのです。

だからこそ、パウロは両親に命じているのです

父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。(4)

天の父が私たちを愛し、育ててくださるように、 私たちも自分の子どもを愛し、育てなければなりません。

では、次の二つのことを考えてみてください。

1.ご両親があなたを育てたとき、その育て方はどれほど神様のご性質を映していたでしょうか。 もし彼らの模範が良くなかったとしても、彼らから目を離して、神様に目を向けてください。 あなたの両親がどれほど失敗したとしても、神様は決して失敗されません。

2.あなたは、自分の子どもに神様のことを正しく映し出しているでしょうか。 彼らは、あなたのうちに神様を見ることができるでしょうか。

私もまた、失敗するときが多くあります。 ですから、神様が私を変えてくださるようにと祈っています。 すなわち、娘が私のうちに神様を見出せるようにと願っているのです。

あなたは、良い親でしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちが周りの人々に与える影響

私たちは皆、家庭でも教会でも職場でも、周りの人々に影響を与えています。

もしかすると、自分がロールモデルになろうとは思わなかったかもしれません。しかし、実際にはそうした立場を持っていることもあります。もしそうなら、私たちはその役割を果たす責任を、周りの人々に対して、そして神様に対して負っています。

コリントの人々は、エルサレムの人々の苦しみについて聞いたとき、助けたいと願い、その思いをパウロに伝えました。パウロはその知らせを聞いて喜び、さらにマケドニアの人々にそのニュースを伝えました。

そして、マケドニアの人々がそれを聞くと、彼らも助けたいと願いました。こうして、あるマケドニアの人々がパウロとともに、コリントを経由してエルサレムへ行くことになりました。

しかし、パウロの心にはある懸念が浮かびました。「コリントの人々は、もうその献金を整えているだろうか。まさか、まだしていないのだろうか。」

そこで、パウロはこの手紙を書き、彼らが約束通りに献金を整えるよう促しました。そして、彼は彼らにこう書きました。

そうでないと、もしマケドニアの人々が私と一緒に行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。(コリント人への手紙第二9:4)

コリントの人々は予想もしませんでしたが、彼らの熱心によって、マケドニアの人々も献金するように鼓舞されました。もし霊的な先輩であるコリントの人々が献金を準備していなかったとしたら、マケドニアの人々は非常に落胆したことでしょう。

もちろん、私たちは完全な存在ではありません。誰もが失敗することがあります。クリスチャンは、何よりもイエス様ご自身を見習うべきです。

それでも、そうしないクリスチャンもいます。イエス様ご自身も、そのことを認めました。だから、彼はこう言いました。

私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる方が良いのです。

つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイ18:6-7)

だからこそ、注意を払いましょう。私たちの行動は、私たちを見上げる人々に影響を与えることを心に留めましょう。

神様の恵みによって、私たちの模範を通して、人々が失望し、神様から離れることがないように。むしろ、私たちの模範によって、彼らが神様に従うように励まされますように。

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コリント人への手紙第一

良い模範がいても

以前、私たちが誰に従うべきか注意する必要があると述べました。世の中には良いリーダーもいれば、悪いリーダーもいます。

そのため、私たちは彼らの行いを見極めなければなりません。特に、彼らの教えと行動に注意を払う必要があります。

しかし、良いリーダーに従うとしても、彼らが完全な存在ではないことを忘れてはなりません。彼らがいつも正しいわけではなく、時には誤った決断をすることもあります。

だからこそ、彼らを神様のように扱ってはいけません。彼らの考え方が間違っていることもあります。そのため、私たちはリーダーに従う際に、彼らの良い点と悪い点を見分けなければなりません。

そこで、パウロはこう言いました。

私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。(コリント人への手紙第一11:1)

最終的に、私たちの模範はキリストです。キリストのかたちに倣う限り、私たちはその模範に従うべきです。

けれども、キリストとは異なる部分があるならば、人の模範ではなく、イエス様の模範に従うべきです。そうしなければ、最終的に迷いに陥ってしまいます。

ガラテヤ2:11–13では、その例を見ることができます。ペテロは教会のリーダーの一人でした。彼は確かに良い模範だったでしょう。

しかし、プレッシャーを感じたとき、ペテロはイエス様の模範に従いませんでした。

最初、彼はガラテヤの異邦人たちと語り合い、彼らの食べ物を共にし、良い時間を過ごしていました。

けれども、モーセの律法に従うユダヤ人のクリスチャンたちがやって来ました。そして、彼らが来ると、ペテロは異邦人たちから距離を置き、ユダヤ人のクリスチャンたちだけと交わり始めました。

ガラテヤにいたほかのユダヤ人のクリスチャンたちは、それを見て、ペテロの模範に倣い始めました。敬虔なクリスチャンであるバルナバさえも、ペテロの態度に影響されました。そのため、パウロはそれを見たとき、彼ら全員を厳しく責めました。

もちろん、ペテロの責任は最も大きいものでした。とはいえ、彼の模範に従ったクリスチャンたちも罪へと陥ってしまいました。

だからこそ、心に留めておきましょう。どんなに敬虔なクリスチャンであっても、彼らを神様と同じ立場に置いてはいけません。彼らは完全な存在ではありません。

牧師であっても、メンターであっても、有名な聖書学者であっても、彼らが過ちを犯すことがあります。そのとき、彼らの模範に従ってはなりません。

むしろ、彼らがキリストに従っている限り、彼らに従うべきです。けれども、彼らが落とし穴に陥ったならば、同じように陥ってはいけません。むしろ、彼らが以前あなたを警告し、助けたように、あなたも彼らを警告し、助けましょう。

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コリント人への手紙第一

誰に従っている?

私たちは人生を歩む中で、さまざまな人を尊敬し、見上げることがあります。例えば、両親や先生、コーチ、牧師などです。

多くの場合、彼らは良い模範となります。けれども、パウロは誰に従うかを慎重に選ぶべきだと警告しています。

クリスチャンの世界でも、多くの人々の言葉は魅力的に聞こえます。とはいえ、パウロは次のように語りました。

神の国はことばではなく、力にあるのです。(コリント人への手紙第一4:20)

そして、パウロはコリントの人々に次のように語りました。

主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。(19)

私たちが従うリーダーについて、「彼らはどのような力を持っているのか」と問いかけるべきです。彼らの力は神様から来ているのでしょうか。それとも、別のところから来ているのでしょうか。

彼らは自分のカリスマに頼っているのでしょうか。財産に依存しているのでしょうか。それとも、権力を頼りにしているのでしょうか。あるいは、彼らの力はサタンから来ているのでしょうか。

私たちはどのように彼らの力の源を見極めることができるでしょうか。それは、彼らの実によって判断できます。

イエス様は次のように語られました。

偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、裏側は貪欲な狼です。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。(マタイ7:15-16)

私たちはどのような実を見極めるべきでしょうか。それは、彼らの教えと行いです。

パウロは、自分自身とテモテについて語った際に、同じ基準を用いました。彼は次のように語りました。

そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。

彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えている通りに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。(17)

そのような人を見つけたなら、彼らの模範に倣うべきです。だからこそ、パウロは次のように語りました。

ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。(16)

しかし、もし彼らの実が腐っているなら、私たちは彼らを避けるべきです。

あなたはどうでしょうか。あなたは誰に従っていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの模範

聖書では、神様はイエス様とその十字架の働きについて、さまざまな生々しい描写を与えてくださいました。

まず、神様はアダムとエバに、「やがて、ある者が蛇の頭を踏み砕く。しかし、その時、その者のかかとも傷つけられる」と約束されました。(創世記3章)

また、神様がアブラハムに、イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じられた場面があります。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様は彼を止められました)(創世記22章)

さらに、神様の律法において、多くのいけにえや捧げものがイエス様を指し示していました。

それだけでなく、預言者イザヤはイエス様について詳しく預言しています(特にイザヤ53章)。ダビデの詩篇もまた、イエス様を指し示しています(例えば詩篇22篇)。

けれども、イエス様が十字架で死ぬ前に、もう二つの重要な描写を与えてくださいました。一つ目は、もちろん聖餐式です。(別の記事でそのことについて触れます。)

そして二つ目は、この箇所にあります。それは、とても美しい描写だと思います。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取っ手にまとわれた。(ヨハネの福音書13:4)

それは何の描写なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:5-7)

イエス様は神でありながら、ご自身を空しくされました。もちろん、イエス様は依然として神でしたが、栄光の衣を脱ぎ、人間となられました。

それだけでなく、王として来られたのではなく、しもべのかたちを取られました。

パウロは続けてこう言いました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。【ピリピ2:8)

イエス様がご自身を低くされ、弟子たちの足を洗われたように、イエス様はさらにご自身を低くされ、十字架で死なれました。その結果、今、私たちの罪はイエス様の血によって洗われています。

だから、ペテロがイエス様の奉仕を遠慮しようとしたとき、イエス様はこう語られました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(ヨハネ13:8)

要するに、「ペテロ、あなたは私のたとえを妨げています。私があなたの足を洗うように、私はあなたの心を洗わなくてはなりません。もし私があなたの罪を清めなければ、あなたは私と関係がなくなってしまいます。」ということです。

イエス様は彼らの足を洗われた後、上着をまとい、再び席に戻って、彼らの主として振る舞われました。

そのようにして、パウロはこう語りました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエス様の名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9-11)

イエス様が弟子たちに問いかけられたように、今も私たちに同じ質問を投げかけられます。

わたしがあなたがたに何をしたのかわかりすか。(ヨハネ13:12)

あなたは理解しているでしょうか。

あなたの罪が許されるために、イエス様が何を捨て、何をささげられたのかを分かっていますか。

もしそれを理解しているなら、イエス様はあなたにこう語られます。

あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。

主である、師でああるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたにも範を示したのです。。。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:13-15、17)

イエス様は私たちの模範です。イエス様はしもべとして歩まれました。そして、イエス様は私たちをご自身のように生きるように招いておられます。

あなたは、しもべとして歩んでいるでしょうか。

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イザヤ書

私たちの遺産

クリスチャンの中には、旧約聖書を読むのがあまり好きではないという人もいます。彼らは「旧約聖書は本当に読む価値があるのだろうか」と疑問に思うからです。

けれども、この箇所で神様はイスラエルの民にこう語られます。「あなたの先祖から受け継いだ遺産、すなわちアブラハムとサラを通して受け継いだ遺産をよく見なさい」。

(イスラエルの歴史は、アブラハムとその妻サラから始まりました。)

神様はこう言われました。

義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。(イザヤ書51:1)

神様はイスラエルの民に語られましたが、同じように神様は私たちにも語りかけておられます。もしあなたが神様を求めているのなら、この言葉はまさにあなたのためのものです。

あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。(イザヤ書51:1-2)

アブラハムとサラはイスラエルの父と母でしたが、クリスチャンとしての私たちにも彼らとの深い関係があります。彼らは信仰の歩みの模範であり、また信仰による義の象徴でもあります。

もちろん、彼ら以前にも信仰によって歩んだ人々はいましたが、旧約聖書の著者たちは信仰による義について語る際、常にアブラハムを例として挙げています。

パウロがアブラハムについて語ったとき、創世記を引用しました。

それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。(ローマ4:3)

私たちが旧約聖書を読む理由は何でしょうか。

それは、私たちが切り出された岩を見つめるためです。私たちの信仰による義の遺産がどこから来たのかを知るためです。それだけでなく、彼らが信頼した神様について学び、その神の忠実さを見るためでもあります。

イザヤは、その神について記しています。まず、イザヤはイスラエルの民がエジプトから贖い出された出来事を思い起こします。

海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。(イザヤ書51:10)

さらに、イザヤは神様がどのようにしてこの世界を造られたのかを思い起こします。

わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。。。

わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。(15-16)

だからこそ、私たちがその神を思い起こし、またアブラハムとサラから受け継がれた信仰の遺産を見つめるとき、神様は私たちに次のように語り、戒めておられます。

義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。

しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。。。

わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。

天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。(7-8、12-13)

私たちの信仰を弱めるもの、それは恐れです。将来への恐れ、そして他人の目を気にする恐れです。

「もし私が神様に従ったら、周りの人々はどう思うだろうか」という心配もその一つです。

しかし、アブラハムやサラ、そして信仰の道を歩んだ他の人々を見守られた神様は、私たちも同じように見守ってくださいます。

私たちを造られた神様、また私たちを罪から救い出された神様は、私たちを滅ぼそうとする敵からも救い出すことがおできになります。サタンからも確かに救ってくださいます。

だからこそ、自分たちが受け継いだ信仰の遺産を思い出しましょう。そして、その遺産を与えてくださった神様のことも思い起こし、神様に信頼しましょう。