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使徒の働きのデボーション

権威を持つ者としての神の子

すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」(使徒の働き19:15)

この言葉は、私の心を深く揺さぶりました。その悪霊はもちろんイエス様のことを知っていて、その権威を認めていました。

そして、パウロのことも知っていて、その権威を認めていました。なぜなら、イエス様との関係によって、また神の子供として、パウロは悪霊に対する権威を持っていたからです。

しかし、私たちクリスチャンは、神の子供としての自分の権威を理解しているでしょうか。私たちが堅く立つなら、私たちの敵であるサタンは逃げなくてはなりません。サタンには、私たちに対する力がないのです。

だからこそ、パウロは「堅く立ちなさい」と語りました(エペソ6:13〜14)。

また、ヤコブは「悪魔に対抗しなさい」と語りました(ヤコブ4:7)。

ですから、神の子供よ。神様から与えられたあなたの権威を覚えていましょう。

ヨハネはこう語りました。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

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コリント人への手紙第一

権威と従順

この箇所は、聖書の中でも特に解釈が難しく、適用しづらい部分の一つです。

例えば、ある牧師はこの箇所を根拠に、教会では女性が帽子をかぶるべきだと教えます。一方で、別の牧師は、この教えは単なる文化的な習慣に過ぎないと説明します。

正直に言えば、私自身もこのパウロの教えの意味を完全には理解していません。

それでも、この箇所から私たちは結婚に関する重要な原則を学ぶことができると思います。パウロはこう教えました。

しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(コリント人への手紙第一11:3)

パウロの言葉から、私たちは神様の本質について重要なことを学ぶことができます。神様の本質には、権威と従順の関係があり、それは私たちとイエス様の関係に反映されるだけでなく、夫婦の関係にも反映されています。

パウロは「キリストのかしらは神です」と言いました。それはどういう意味でしょうか。他の聖書の箇所を読むと、パウロの意図がより明確になると思います。

ヨハネはこう言いました。

。。。御父が御子を世の救い主として遣わされた。。。(第一ヨハネ4:14)

そして、この世に来たとき、イエス様は天の父にこう語られました。

今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。(へブル10:7)

この世におられたとき、イエス様はユダヤ人たちにこう語られました。

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。(ヨハネ6:38)

しかし、天の父に対するイエス様の従順は一時的なものではありませんでした。イエス様が復活し、天に戻られたあとも、その従順は続きました。

むしろ、パウロはイエス様の再臨と永遠の御国について語ったとき、こう述べました。

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。

すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。。。

「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。

しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。

そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。

これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(第一コリント15:24-25、27-28)

これらの聖書の箇所を考慮すると、一つのことが明らかです。イエス様は真に神の本質を持っておられますが、それでも永遠に天の父に従われます。

けれども、それによって天の父がイエス様よりも神であると言うことはできません。また、本質において天の父がイエス様よりも優れた方であるとも言えません。むしろ、本質において彼らは完全に平等です。

では、なぜこのポイントがそれほど重要なのでしょうか。それは、現代において、多くの人々が「妻が夫の権威に従うことは彼女の本質への侮辱だ」と主張するからです。彼らはこう言います。

「もしあなたが『妻は夫に従うべきだ』と教えるならば、それは女性を劣った存在として扱うことになる。」

そのため、「女のかしらは男である」という言葉を聞くと、彼らはパウロの言葉の意味を曖昧にしようとします。

しかし、パウロは、人間関係には秩序があると教えています。イエス様は天の父の権威に従われます。男性はイエス様に従い、女性は男性に従います。

とはいえ、人間の本質において、男性が女性よりも優れているとは決して言えません。パウロはそのような考えに断固として反対しました。そして、彼はこう述べました。

とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。

女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。(11-12)

つまり、神様はリーダーシップの役割を男性に与えましたが、男性と女性は互いに必要とし合う存在です。

そして、男性が自らの権威を利用して女性を支配することは決して許されません。むしろ、天の父がイエス様を愛し、尊敬されるように、男性は女性を愛し、尊敬しなければなりません。

さらに、神様が私たちの創造主である以上、男性は神様に従うことを常に覚えていなければなりません。私たちは神様の前で責任を問われるのです。

だからこそ、既婚女性は自分自身にこう問いかけるべきです。

「イエス様が天の父に従われるように、私は夫に従っているだろうか。夫がキリストに従う限り、私は夫に従うべきだろうか。」

既婚男性は、自分自身にこう問いかけるべきです。

「天の父がイエス様を愛し、尊敬されるように、私は妻を愛し、尊敬しているだろうか。イエス様が私を愛し、ご自身の命を捧げられたように、私も妻を愛し、彼女のために私の命を捧げることができるだろうか。」

シングルの女性は、こう問いかけるべきです。

「私の彼氏(または婚約者)はイエス様に従っているだろうか。私がイエス様に従うように、彼に従うほど彼を信頼できるだろうか。」

もし「はい」と答えられないなら、結婚を後回しにするべきです。

シングルの男性は、こう問いかけるべきです。

「私はイエス様に従っているだろうか。もし私がイエス様に従うなら、結婚した後、私は妻をどのように扱うべきだろうか。」

その問いに正しく答えられないなら、結婚を後回しにするべきです。

あなたは誰に従っているでしょうか。

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ローマ人への手紙

たとえ支配者が悪くても

この箇所で、パウロはクリスチャンと政治の関係について語ります。基本的に、彼は私たちが政府の権威に従うべきだと教えています。

なぜでしょうか。それは、最終的に神様がその人々に権威を与えられたからです。したがって、彼らに反抗することは、実は神様に逆らうことになるのです。

さらに、もう一つの理由があります。神様は社会の益のために権威を確立されました。もし権威がなければ、私たちは無政府状態になり、それは本当に恐ろしい社会となるでしょう。

そして、パウロはこう語ります。

彼(つまり、権を持つ人)はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。(ローマ人への手紙13:4)

多くの場合、権威を持つ人のおかげで、社会は安定し、平和が保たれています。したがって、私たちが正しいことを行うなら、問題が生じるはずはありません。

私は列王記第18章に登場するオバデヤについて考えます。(彼は預言者オバデヤではありません)。彼はアハブ王に仕えていました。

アハブは、イスラエル史上最も悪しき王の一人でした。それにしても、オバデヤが忠実なしもべであったため、アハブは彼に王宮の管理を任せました。

それでも、オバデヤは神様を畏れ、正しいことを行いました。

彼の模範から、私たちは重要な教訓を学びます。時に、正しいことが権威を持つ者の命令と矛盾する場合があります。 そのような場合、私たちは真に正しいことを選択すべきです。

そのため、アハブの妻イゼベルが神様の預言者たちを殺害するよう命じたとき、オバデヤは彼らを救い出しました。

預言者ダニエルとその友人たちも、正しいことを行いました。神様の律法に反する命令を受けたとき、彼らは神様の戒めに従いました。(ダニエル書 1-3章)

また、ユダヤ人の指導者たちがペテロと他の使徒たちにイエス様のことを語るのをやめるよう命じたとき、ペテロたちはそれを拒みました。(使徒の働き 4-5章)

こうして、神様はオバデヤ、ダニエルたち、ペテロたちを守り、祝福してくださいました。そして、ダニエルたちの場合、最終的に支配者たちは彼らに栄誉を与えました。

そして、パウロはこう語ります。

支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。

権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。(ローマ人への手紙13:3)

特に、私たちが正しいことを行うなら、神様を恐れる必要はありません。むしろ、神様は私たちを称賛してくださいます。

したがって、この世の支配者の命令が神様の言葉に反する場合、私たちは神様に従うべきです。なぜなら、私たちの最も高い権威は神様だからです。

しかし、たとえ支配者の命令を拒んだとしても、私たちは彼らを尊敬すべきです。

パウロはこう語りました。

すべての人に対して義務を果たしなさい。。。恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。(7)

オバデヤ、ダニエルたち、ペテロたちは、そのように行動しました。だから、私たちは彼らの模範に従うべきです。

そして、ペテロはパウロの言葉を次のようにまとめます。

もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。

人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。

そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(第一ペテロ3:13-16)

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力と権威、憐れみと恵み

この箇所では、イエス様の中に三つのことを見ることができます。

1.イエス様の力と権威。 イエス様は敵に取り囲まれていましたが、それでも状況を支配しておられました。

イエス様が立ち上がり、敵と向き合われた時、「誰を捜しているのか」と問いかけられました。 彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は「わたしがそれだ」と言われました。(ヨハネ 18:4-5)

日本語では分かりづらいですが、実はイエス様はこの時、神様の御名を使われました。(出エジプト 3:13-14;ヨハネ 8:58)

すると、イエス様の敵はその言葉を聞いた瞬間、地に倒れました。どれほどの恐怖を感じたことでしょうか。

そこで、イエス様は再び問いかけられました。「誰を捜しているのか。」(ヨハネ 18:6-7)

彼らはすっかり自信を失い、おどおどしながら答えました。「ナザレ人イエスを。。。」

彼らがイエス様の返事を待つ間、再び地に倒れる覚悟をしたかもしれません。けれども、イエス様は静かに答えられました。

わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)

イエス様を捕らえに来たとしても、彼らは誰が本当の力を持っているのかを思い知らされました。 それは彼ら自身ではなく、イエス様でした。

2.イエス様の憐れみ。 敵はまだおどおどしていたため、弟子たちはその恐れにつけ込んで攻撃しようと思ったかもしれません。 すると、弟子の一人が叫びました。

主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

イエス様の答えを待たずに、ペテロは敵の一人を攻撃し、右の耳を切り落としました。 (もしかしたら、ペテロはその人の頭を斬ろうとしたものの、誤って耳だけを切り落としてしまったのかもしれません。)

けれども、イエス様は彼を叱責されました。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。(マタイ26:53)

昔の讃美歌には、こんな歌詞があります。

イエス様は、ご自身を解放するため、またこの世界を滅ぼすために、一万人の天使を呼ぶことができたでしょう。

実は、その作詞家は誤解していました。12軍団とは、約4万8千人から7万2千人ほどの規模を指します。

とにかく、イエス様はその敵だけでなく、世界のすべての人々を滅ぼすこともできました。 しかし、イエス様は彼らを憐れんでくださいました。イエス様は彼らを殺さず、むしろ彼らの命の代わりに、ご自身の命を捧げられました。

3.イエス様の恵み。 憐れみとは、相手が受けるべき罰を与えないことです。 恵みとは、相手が受ける資格のないものを与えることです。

この出来事では、イエス様は大祭司のしもべに恵みを示されました。 イエス様は彼の耳を癒してくださいました。(ルカ 22:51)

それはイエス様の最後の癒しの御業でした。 より正確に言うと、それはイエス様の最後の肉体的な癒しの御業でした。

十字架の御業を通して、イエス様は私たちに霊的な癒しをもたらしてくださいました。 イエス様の恵みによって、私たちの罪は赦され、私たちは永遠の命を得ることができます。

私たちがしなければならないことはただ一つだけです。それは、イエス様を信じることです。

力と権威。憐れみと恵み。私たちの主を描写するより優れた言葉があるでしょうか。

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権威

イエス様はほかの宗教を始めたリーダーたちとどう違うでしょうか。もちろん多くの違いがありますが、一番重要な違いは、イエス様が神であり、ご自身の復活によってそのことを証明されたということです。

ほかの偉大なリーダーたちはすでに死んでしまいました。だからこそ、彼らが神ではないことは明白です。

けれども、この箇所では、私たちはさらにもう一つの違いを見ることができます。それは、イエス様が真の権威を持っておられるということです。

ユダヤ人たちはイエス様の教えを聞いたとき、そのことをすぐに理解しました。

ほかの教師たちが聖書について教えるとき、彼らはいつもこう言いました。「誰々先生はこの箇所についてこう言っています。」また、「誰々先生によれば、この言葉はこういう意味です。」

イエス様は決してそのような言い方はされませんでした。むしろ、イエス様はいつもこう言われました。「まことに、まことに、私はあなたがたに告げます。」

ユダヤ人たちはそれを聞いて驚きました。「この方は権威を持っているかのように話されます。彼は教えられることについて、本当に自信を持っているようです。」

聖書を教える者として、私も驚いたことでしょう。もちろん、私は懸命に学び、神様に知恵を求めて祈りますが、イエス様の権威のほんの一部しか持っていません。イエス様の教えを直接聞くことは、素晴らしい経験だったに違いありません。

そして、会堂でイエス様はある人から悪霊を追い出し、その権威を証明されました。その結果、イスラエル全土でイエス様に関する噂がまるで山火事のように広がりました。

では、この話は私たちとどう関係があるのでしょうか。

私たちは自分自身にこのような質問をしなければなりません。「イエス様は本当に特別な権威を持って話されたのだろうか。それとも、彼の意見と私の意見は同じ権威を持っているのだろうか。」

多くのクリスチャンは口ではイエス様の権威を認めていますが、その言葉には従いません。イエス様の言葉は理想的だと認めながらも、イエス様は実生活について理解していなかったと思う人もいます。

また、イエス様の言葉に従いたくないクリスチャンもいます。彼らは自分の道を選びたいと思っているからです。

しかし、もし私たちがイエス様を「主」と呼ぶのなら、そうした考え方を捨てなければなりません。また、そのような生き方をも捨てる必要があります。

イエス様はこう言われました。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

「主よ、それをしたくない。」という言葉は、矛盾した言葉です。

あなたはどうでしょうか。本当にイエス様の権威を受け入れますか。

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エステル記

権威のある人を尊敬する

昨日のブログを読んだ方は、私がエステルとモルデカイをあまり尊敬していないと思われるかもしれません。けれども、実際には、私は彼らを本当に尊敬しています。

彼らのすべての決断に同意するわけではないかもしれませんが、彼らは本当に素晴らしい性格を持っていたと思います。アブラハムやダビデ、パウロのように、時々彼らは誤った決断をしたことがありましたが、それでも彼らは神様を心から愛していたと思います。

この箇所では、私たちはモルデカイの性格を伺うことができます。彼は王を暗殺する計画を耳にしたため、エステルに警告しました。その警告によって、悪者たちが捕らえられました。

モルデカイはアハシュエロス王についてどのように考えていたのでしょうか。モルデカイは、以前の女王に対するアハシュエロスの態度を知っていただけでなく、すべての女性に対する彼の態度も知っていました。(その「女王のコンテスト」の時、アハシュエロスは何人と寝たのでしょうか。)

さらに、アハシュエロス王は神様を恐れていませんでしたし、世の歴史書によれば、彼は平和を愛する人物でもありませんでした。

それにもかかわらず、暗殺者とは異なり、モルデカイは王の地位を尊重しました。したがって、暗殺計画を耳にしたとき、彼はすぐにエステルにそのことを警告しました。

モルデカイは王の命を救いましたが、その後も長い間、王は彼に報酬を与えませんでした。それでも、モルデカイは苦々しい心を抱きませんでした。彼にとって最も重要だったのは、権威のある人物を敬うことでした。

ペテロはこう書きました。

すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(第一ペテロ2:17)

時々、私たちは権威のある人が私たちの尊敬に値しないと思うことがあります。そのため、私たちの大統領や総理大臣、または上司について文句を言うことがあります。

しかし、神様は私たちが彼らを尊敬するように命じられています。それはなぜでしょうか。パウロはこう書きました。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)

つまり、神様の御心によって彼らが権威を持つので、あなたが神様を恐れるなら、その人々を尊敬すべきです。

あなたはどうでしょうか。権威のある人を尊敬して従うことができるでしょうか。それとも、尊敬しにくいと感じる人がいるでしょうか。

もちろん、その人を尊敬できるなら、従うことは簡単です。しかし、あなたが神様を恐れるなら、神様はその人に従うように命じられます。

それは難しいことかもしれません。それでも、神様を恐れて、権威のある人を尊敬し、従いましょう。

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ハガイ書

全てが揺り動かされるのに

この箇所では、ハガイはユダの総督ゼルバベルを励まします。

おそらく、ゼルバベルはエルサレムとその宮の再建に反対する人々を目にして、深く失望していたかもしれません。けれども、神様は彼にこう言われました。

ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。

わたしは天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。(ハガイ書2:21-22)

つまり、「ゼルバベル、今あなたは自分の状況が辛いと感じているかもしれません。しかし、私は天と地を揺り動かします。そして、私は王国とその力を滅ぼします。」

そして、神様はこう言われました。

その日、――万軍の主の御告げ――シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。――主の御告げ――

わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。――万軍の主の御告げ――」(23)

その時代、王たちは認印付きの指輪を持っていました。その指輪は王の権威を象徴するシンボルでした。そのため、大切な書類に署名するとき、その指輪を使用していました。

神様がゼルバベルに言われたのは、「王国の王座を覆し、王の力を滅ぼす。しかし、私は私の民のために、私の権威のシンボルとしてあなたを選んだ」ということです。

短期的には、ゼルバベルを通して神様はご自身の民を導き、主の宮を再建し、彼らの人生も復活させました。

長期的には、ゼルバベルの家系を通してメシヤであるイエス様がこの世に来られました。

イエス様の復活の後、弟子たちにこう言われました。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)

どうしてそれが大切なのでしょうか。それは、神様がゼルバベルをご自身のしもべとして呼ばれたように、私たちも選ばれ、呼ばれたからです。では、私たちは何のために選ばれ、呼ばれたのでしょうか。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(マタイ28:19-20)

この世は戦争や混乱、闘争によって揺り動かされています。そして、私たちの状況はさらに悪化する可能性があります。けれども、すべてが揺り動かされたとしても、将来を恐れないようにしましょう。

すべての権威がイエス様に与えられていることを覚え、イエス様が私たちに命じられたように従いましょう。イエス様の再臨まで、福音を伝え、弟子を作り続けましょう。

イエス様はこう約束されました。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20b)