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詩篇

私たちの正当な王に明け渡す

明け渡すこと。私たちの多くはそのコンセプトがあまり好きではありません。特に、私たちは自分の権利を持ち続けたいものです。「私の体。私の人生。私の道。」

そして、誰かが私たちを明け渡させようとすれば、私たちは戦います。なぜなら、そうしなければ、幸せな人生を送れないと思うからです。

しかし、本当に幸せな人生を望むなら、私たちは神様に明け渡さなければなりません。神様の祝福を知りたいなら、神様に明け渡さなければならないのです。

けれども、この箇所では、人々は神様に明け渡さずに、神様と戦います。

詩人はこう書きました。

なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」(詩篇2:1-3)

多くの人々はそのように思います。「神様は鎖で私たちを縛っておられます。神様は私たちの人生を惨めなものにしておられます。だから、その鎖を壊して捨ててしまいましょう。」

何世紀前も、人々はそのように思いました。アダムとエバの時代でも、イエス様の時代でもそのように思ったし、現代でも、人々はそう思います。

ところが、

天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。

「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」(4-6)

つまり、私たちは主と戦おうとしても、私たちの努力や戦いは虚しいものだということです。神様はキリストの王位を確立し、こう言われます。

あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(7-8)

いつか、この世の民、皆はイエス様に従わされる日が来ます。その日、愛と畏敬を持って明け渡す人もいれば、こぶしを握り、歯を食いしばって明け渡す人もいます。けれども、すべての人々がイエス様に従います。

それでは、私たちはどう反応すべきでしょうか。

それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。

御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。(10-12a)

つまり、私たちはイエス様が勝利されることを知っているので、今イエス様に明け渡した方が良いです。イエス様が値する畏敬で、イエス様を誇り、仕えるべきです。

なぜなら、イエス様は私たちの正当な王だからです。イエス様が私たちを造られたので、私たちはイエス様のものです。私たちの持ち物、私たちの命さえも、イエス様からの賜物です。だから、イエス様に明け渡すのは当たり前のことでしょう。

全ての人々は、いつかイエス様の前に跪きます。しかし、正当な王に反抗し続ける人々は滅びます。

詩人はこう書きました。

幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。(12b)

イエス様に明け渡すと、私たちは平和や喜び、命を見つけます。イエス様に明け渡すと、何も失わないのです。むしろ、私たちはすべてを得るのです。

あなたはどうでしょうか。正当な王に明け渡しますか。