カテゴリー
ヨハネの黙示録

正義が来るとき

数年前、Facebookで、私のハワイの友人が小学校からの手紙を掲載しました。その手紙によれば、ある児童が下校途中、怪しい人物に誘拐されそうになりました。

幸い、通りかかった高校生がいたため、その子供は高校生の方へ逃げ、犯人はそれを見て逃走しました。

私たちの社会では、そのような出来事が増えており、恐ろしい現実です。時として、正義は本当に訪れるのかと疑問に思うことがあります。

黙示録6章では、聖徒たちも同じ問いを抱いていました。

今日の箇所では、正義がついに訪れます。悪者は裁かれ、そうした者たちを生み出した社会も滅ぼされます。反キリスト、その預言者、バビロン、そして反キリストに従う者たちは皆、倒れます。

反キリストとその軍勢は神様に対する最後の戦いのために立ち上がり、イエス様はご自身に属する者たちを取り戻すためにこの世に戻られます。

その時、イエス様が真に「忠実また真実」である方であることが証明されます。十字架において流されたご自身の血によって、それをすでに証明されましたが、この世界に正義と救いをもたらすことによって、もう一度それが明らかにされます。

もしかすると、この最後の戦いを思い浮かべるとき、映画の戦闘シーンを連想するかもしれません。けれども、実際には、神様が圧倒的に有利なのです。

神様の一言でその軍勢は滅ぼされ(黙示録19:21)、反キリストとその預言者は硫黄の燃える火の池に投げ込まれ(20節)、バビロンは倒れ、その焼かれる煙は世々限りなく立ち上り(3節)、猛禽たちは裁かれた人々を宴席として食い散らかします(17-18、21節)。

その結果は何でしょうか。礼拝です。なぜなら、正義がついに訪れたからです。

だからこそ、天にいる者たちは大声で叫びます。

ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。神のさばきは真実で正しいからである。

神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。。。

ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。。。アーメン。ハレルヤ。」(黙示録19:1-4)

そして、裁かれた人々による恐ろしい「宴席」の後に、栄光に満ちた宴席が整えられます。

神様の御座から声が響き、こう告げられます。

神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。(5)

そして、天にいるすべての者たちが応えます。

ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。

子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。(6-8)

そして、御使いはヨハネに向かって、こう告げます。

子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい。。。これらは神の真実なことばである。(9)

では、私が言いたいのは何でしょうか。

正義が来ます。そして、その日、イエス様の花嫁である私たちは喜びます。

少し考えてみてください。私たちはキリストの花嫁となる資格はありませんでした。むしろ、私たちは裁きの宴席で滅びるにふさわしい者でした。

しかし、イエス様はご自身の義によって私たちを着せてくださいました。神様の目には、私たちは義とされ、キリストに愛される民となりました。そして、私たちは永遠にキリストと共に喜びます。

だから、この世の不正や堕落を見る時、その希望にしがみつきましょう。

正義は来ます。

イエス様は来られます。

そして、その日、天と地は、「忠実また真実」であられるイエス様への礼拝に響き渡ります。

カテゴリー
ヨハネの黙示録

正義はいつ来るのか

前回の記事では、私たちは第五の封印をあえて飛ばしました。なぜなら、その封印は他のものとは性質が異なるからです。地上の裁きに関する他の封印と違って、第五の封印は天における出来事に焦点を当てています。

イエス様がこの封印を解かれると、ヨハネは祭壇の下に、イエス様のゆえに殺された人々の姿を見ます。そして彼らは、大声で叫びます。

聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。(黙示録6:10)

その人々とは誰でしょうか。おそらく、使徒の働き第7章に記されたステパノや、キリスト教の長い歴史の中で命を捧げた殉教者たち全体を指しているのでしょう。

彼らのことを考えると、「なぜ正義はまだもたらされないのか」「キリストのゆえに迫害される私たちは、なぜ神の正義を目にすることができないのか」と問いかけたくなるのは自然なことです。

そのような殉教者たちに対するイエス様の答えは、実に興味深いものです。

「あなたたちと同じように殺されることになる兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」(黙示録6:11)

言い換えるなら、イエス様がこの世に再び来られるまで、迫害は続きます。その間、神様は忍耐をもって、迫害者たちを裁かれません。

なぜでしょうか。それは、できるだけ多くの人々が御国に入ることを、神様が待っておられるからです。(使徒の働き9:1〜19をご覧ください。サウロの物語がその例です。)

しかし、イエス様がもう一度来られるとき、神の正義はついに実行されます。

けれども、その日が来るまで、イエス様はご自身のために殺された人々に、平安と安らぎを与え続けてくださいます。

この世は、不公平なことだらけです。私たちは苦しみの中で、「なぜ私が苦しまなくてはならないのか」と問いかけたくなります。

ところが、イエス様は「苦難がない」と約束されません。むしろ、「あなたがたは苦難に遭う」と約束されるのです。(ヨハネ16:33)

そういうわけで、私は、反キリストが来る前にイエス様が私たちを天に迎えてくださるとは思いません。(とにかく、それが私の一つの理由です。)

けれども、私たちが苦しむときでも、心に留めておきましょう。最終的には、神の正義がもたらされます。

だからこそ、希望を持ち、イエス様の言葉を覚えて歩みましょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

カテゴリー
ローマ人への手紙

神様の選びの神秘(5)

予定説に関するもう一つの疑問についてお話ししたいと思います。

以前にも述べたように、もし神様が人の心の中で働かれなければ、誰も救われることはありません。それなら、なぜ神様はすべての人々の心の中で働かれ、すべての人々を救われないのでしょうか。

正直に言うと、私にはわかりません。おそらく、私が理解できない要素があるのでしょう。さらに、聖書には神様がその理由を説明されていません。

しかし、私たちは二つのことを心に留めるべきです。

第一に、神様は人の信仰を非常に大切にされます。そして、信仰とは、目には見えなくても神様に信頼することです。

けれども、ある人々にとって、神様を信じる前に自分の目で神様を見たいと願うことがあります。彼らは基本的にこう言います。

「神様の存在を証明する証拠があることは認める。それでも、自分の目で見ない限り、私は神様を信じない。」

でも、それは信仰の姿勢ではありません。さらに、多くの場合、その言葉は反抗的な心から生じています。そのため、神様はその願いを叶えられないことが多いのです。

では、もう一つのことを考えてみましょう。

神様が人々の人生の中で働かれるとき、多くの場合、クリスチャンを通して働かれます。

そして、神様は私たちにこの世の人々に福音を述べ伝える責任を与えられました。神様は天の御国の鍵を私たちに与えてくださいました。それを使わずに福音を伝えないなら、私たちは神様に問われることになります。(エゼキエル書33:7~9)

それでも、神様は私たちにその鍵を使うことを強制されません。

だから、神様が人々の人生の中で働かれるとき、二つの方法を用いることができます。

第一に、神様は直接働かれることができます。つまり、神様はご自身を直接現されることができるのです。とはいえ、神様は信仰を望まれるため、その方法をほとんど用いられません。

もう一つの方法は、神様が人々を通して他の人々に触れられることです。ただし、神様はクリスチャンたちに福音を伝えることを強制されません。

そのため、多くの人々が救われないままとなります。

では、神様の考え方は正しいのでしょうか。神様は私たちの創造主であり、すべてのことを知っておられます。

一方、私たちはただの人間であり、限られたことしか理解できません。そのため、神様の判断を批判することはできないでしょう。

だから、予定説について考えるとき、最終的にアブラハムのように私たちはこう言うべきなのです。

全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。(創世記18:25)

結局、私はそう思います。そして、神様が公正を行われることを信じます。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ13章

毒麦のたとえ話:どうして悪があるの?

多くの人々は、なぜ神様がこの世に悪を許されるのかについて疑問を持ちます。

このたとえ話で、イエス様はその理由の一つを示してくださいました。

私たちが理解しなくてはならないのは、神様がこの世の悪の源ではないということです。神様は聖なる方であり、決して悪いことをされません。神様は良い種だけを蒔かれます。

とはいえ、私たちには敵がいます。サタンは人々の心に悪い種を蒔きます。その種は毒麦となり、人々を傷つけ、さまざまな害をもたらします。

イエス様はその人々を引き抜くこともできますが、そうすると神様が救いたい人々に悪い影響を与える可能性があります。

どうしてなのでしょうか。正直に言うと、私はすべてを理解しているわけではありません。しかし、例えば、ある人々は神様に対して本当に無関心である場合があります。時として、苦難がなければ、彼らは決して神様に向かおうとしないのです。

それは天災であることもあれば、犯罪による被害であることもあります。もしかすると、彼らは本当に傷つくかもしれません。

けれども、その苦しみを通して、彼らは神様を見出し、救いに至るのです。そして、もしその苦しみがなければ、その人が救われることは決してなかったと神様はご存じなのです。だからこそ、神様は毒麦が残ることを許されているのです。

簡単に言えば、神様には私たちには見えないことが見えています。神様は私たちが知らないことを深くご存じです。

しかし、忘れないでください。裁きの日は必ず来ます。

人を殺す者には裁きが下されます。女性を傷つけた者にも裁きが下されます。神様に反抗する者には、裁きが訪れます。

その日には、すべての人が、神様に仕える者と神様を拒む者の違いをはっきりと理解するでしょう。

だから、この邪悪な世界を見て絶望しないでください。裁きの日を待ち望んでください。その日は正義がもたらされます。そして、その日にはすべての人が神様の知恵と正義を知るのです。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:義に飢え渇く者

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

おそらく、この言葉は2つの方法で解釈できるでしょう。

1つ目の解釈は、イエス様が私たちに聖なる人生を追い求めることについて語られたというものです。つまり、私たちは神様への愛ゆえに、神様を喜ばせ、清い人生を歩みたいと願うのです。

それでも私たちは罪との戦いに苦しみます。ローマ人への手紙7章で、パウロはその戦いについて語りました。この箇所から、パウロが義に飢え渇いていたことがわかります。

彼は叫びます。 「私は正しいことをしたいのに、どうしてもできません。何度も罪に陥ってしまうのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。」

私も、そう感じることがあります。私は清い人生を歩みたいと願っていますが、何度も失敗してしまいます。だからこそ、失望するのは簡単なことです。「もう諦めよう。私はもうだめだ。どうしても罪を犯してしまう。」そう思ってしまうこともあります。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。 「諦めないでください。義に飢え渇き続けなさい。ある日、その飢え渇きは満たされるのです。あなたは義人となるでしょう。」

もちろん、天国では私たちは完全に義人となります。とはいえ、この世に生きている間も、神様は私たちの人生に働きかけておられます。

パウロはこう書きました。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)

そして、私たちが完全に義人となる日まで、神様の恵みが私たちを支えます。パウロはこう書きました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。

しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5:20-21)

だから、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

けれども、もう一つの意味として、私たちの義への飢え渇きも満たされる日が来るでしょう。

私たちの周りを見渡すと、罪と不正義が蔓延していることに気づきます。堕落した裁判官を目にし、神様の律法に反する法案が可決されます。また、人々の道徳的な価値観は変わり、かつて悪とされたものが、今では良いものと見なされています。

そのため、私たちは「いつ正義はこの国に戻るのだろうか。もう希望はないのだろうか。」と問い始めます。

正直に言うと、おそらくこの状況が良くなることはないでしょう。パウロが「終わりの日」について語ったとき、彼は非常に暗い光景を描写しました。(第二テモテ3:1-5)

私たちは、その時代を生きています。誤解しないでください。「終わりの日」は2000年前に始まりました。(第一ヨハネ2:18)けれども、イエス様が再び来られる前に、この世界は次第に悪くなっていくでしょう。

私たちは政治家や司法制度、人間が作り上げた機関に頼ることはできません。

それでも、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

それは、ある日、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白する」からです。(ピリピ2:10-11)

だからこそ、私の周りの悪を見ても、私は絶望することを拒否します。正義の日は必ず来ます。私たちの義への飢え渇きは満たされるのです。その日まで、私は政府や人間が作った制度に頼るのではなく、神様を信頼します。

私たちが義を求める飢え渇きを決して失わないように。イエス様は必ずご自身の約束を守られるのだから。

カテゴリー
詩篇

正義がやっと来ると

子供の時、私はいつも教会で、この詩篇からの歌を歌いました。つまり、1節を歌いました。

私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。(詩篇75:1)

けれども、その歌を歌った時、何に感謝するか分かりませんでした。どの奇しいわざを悟り告げるか分かりませんでした。

しかし、この詩篇の全体を読むと、その答えがすぐに分かります。この詩篇は裁きの日についてです。その日、神様はすべての人々を自分の行動のために裁かれます。

この詩篇で、神様はこう言われます。

わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ

わたしは、誇る者には、「誇るな」と言い、悪者には、「角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな」と言う。(2-5)

そしてこの詩篇の最後の部分によれば、神様は悪者を低くされ、義人を高く上げてくださいます。だから、詩人は神様をほめたたえます。

しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。

悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高く上げられる。(9-10)

私は以前にも言ったことがありますが、私たちはこの世の悪を見る時、「神様はどこだろうか。どうして神様は何もしないのだろう」とよく思います。けれども、この詩篇によれば、正義は必ず来ます。

だから、私たちは待っている間、神様をほめたたえましょう。なぜなら、神様は忍耐強く、人々が悔い改めるのを待っておられますが、必ずや神様の正義は訪れます。(第二ペテロ3:9)

その憐れみによって、私たちも救われたので、神様を信頼し、感謝し続けましょう。

カテゴリー
詩篇

逃げられない

私は刑事コロンボという番組が大好きです。その番組にはいつも同じパターンがあります。つまり、犯罪者は完全犯罪を犯しますが、コロンボは少しずつ彼らの犯罪を解明します。

詩篇64篇を読むとき、コロンボの話について考えます。ダビデはこう書きました。

彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。

全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。

彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」と言っています。

彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。(詩篇64:3ー6)

けれども、コロンボのように、神様は彼らの計画を暴露して、彼らを罰されます。

しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。

彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。

こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。(7ー9)

エステル記で、ハマンはそう学びました。ユダヤ人を滅ぼすために完璧な計画を立てましたが、その計画はハマンの目の前で崩れました。

しかし、時々私たちは正義が遅れて来ると感じます。有罪な人が解放されて、私たちは「神様はどこにおられるのか。どうして神様は何もしないのか。」と思うことがあります。

けれども、いつか神様が彼らを裁かれることを忘れないでください。裁きの日には、神様がすべての罪を裁かれます。

だから、不正義を見るときに思い悩まないでください。人間の正義は失敗するかもしれませんが、神様の正義は決して失敗しません。だからダビデはこう言われました。

正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。(10)

カテゴリー
詩篇

王に願う

私は詩篇5篇が大好きです。子供の時から今でも、その詩篇からの歌を歌い続けています。

私の言うことを耳に入れてください。
主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。
私の王、私の神。

私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。(詩篇5:1ー3)

この詩篇を読む時、私は正義と助けを願う人が宮廷に入ることを想像します。その人は王の前に跪いて、叫びます。

「私の王。私の神。私を憐れんでください。あなたの助けが必要です。私の願いを聞いてください。」

この箇所では、その人の謙遜な態度が見えるし、その人が王を愛し、信頼することも見えます。

「主よ。朝に私が起きる時、私の最初の思いはあなたについてです。あなたの前に、私は来て、私の願いを捧げて、待ち望みます。なぜなら、あなたが私を愛し、私の祈りに応えてくださることを信じるからです。」

その時、ダビデがどの問題に直面していたのか、私たちは知りません。けれども、いつもトラブルや恐れや心配がある時、彼は王に向かいました。私たちもそうするべきです。

どうして、私たちは神様の前に来られるのでしょうか。私たちは私たちを傷つける人よりも正しい人だからでしょうか。違います。神様の憐れみによって、私たちは神様に近づくことができます。

人は私たちを傷つけたり、裏切ることがあるかもしれません。しかし、神様はそのようなことは決してなさいません。

神様は良い王であり、私たちが叫び求めると、神様は正義を与えてくださいます。また、神様はその翼で私たちを覆ってくださり、守ってくださいます。ダビデはこう祈りました。

あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。(11-12)

それを読む時、一つのイエス様のたとえ話を思い出します。その話では、ある女性が不正な裁判官に正義を求めました。彼はしばらく何もしませんでしたが、彼女が諦めずに頼み続けたので、最終的には彼女に正義を与えました。

イエス様はその裁判官を、私たちを愛している天の父に対比されました。

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。

しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカ18:7-8)

時々、神様がダビデを救い出すために、ダビデは何日間も、何年も待たなければなりませんでした。それでも、彼は自分の信仰を決して失いませんでした。

毎朝、ダビデは神様の前に来て、自分の願いを捧げました。そして、神様は愛をもってその祈りを聞き、最終的にダビデを救い出されました。

私たちも苦しむ時、ダビデの信仰を持ちましょう。なぜなら、神様は私たちの声を聞き、私たちを愛し、私たちの祈りに応えてくださるからです。

カテゴリー
マラキ書

正義はどこだろうか

多くの人々は、「もし神様が良いお方なら、どうしてこの世に悪があふれているのだろう。もし神様が正義の神なら、この世の正義はどこにあるのだろう」と問いかけます。

その疑問は決して新しいものではありません。マラキの時代にも、イスラエルの民は同じ質問を神様に投げかけました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」

「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」とあなたがたは言っているのだ。(マラキ書2:17)

神様は彼らの文句に、どのように答えられたのでしょうか。

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。

あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。(3:1)

つまり、「あなたたちは、私がどこにいるのかを訊いています。あなたたちは、なぜ私がこの世の不正義を扱わないのかを問うています。けれども、私はすぐに来ます。あなたの宮に、私は現れます。」

イエス様がこの世に来られたとき、その預言が成就しました。また、イエス様の道を整えた使者はバプテスマのヨハネでした。

しかし、神様は心に刺さるような質問をされます。

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。(3:2)

つまり、「あなたは私が来て正義を行うことを待っています。あなたは私が遅いと文句を言っています。けれども、私が来る準備ができているでしょうか。

私が来るとき、銀と金を清める火のように来ます。また、私はすべての罪を清める灰汁のように現れます。

私が来る時、あなたはその前に立つことができるでしょうか。」

そして、神様はご自身に属する祭司たちにこう言われました。(クリスチャンとして、あなたが神様の祭司であることを思い出してください。)

「私はあなたを清め、製錬します。」

けれども、神様はこう言われました。

「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。

わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。――万軍の主は仰せられる――」(3:5)

つまり、「裁きの日が来ます。罪を犯す者はすべて裁かれます。だから、もう一度私は尋ねます。あなたはその日のために準備ができているでしょうか。」

だから、人が神様の正義を疑う時、こう伝えてください。

「まず、あなたが何を言っているかをよく考えてみてください。あなたは神様がすべての悪を取り除くことを望んでいますか。

もし、あなたの中に小さな悪があったとしても、それも取り除かれるべきです。

あなたは完全な人間ですか。過去に悪いことをしたことがありませんか。あなたは自分自身が裁かれることを本当に望むのでしょうか。」

では、なぜ神様はまだこの世を裁いていないのでしょうか。それは、神様が可能な限り多くの人々が悔い改めることを待っておられるからです。

だから、神様はこう言われます。

主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。(3:6-7)

つまり、「あなたたちは、長い間ずっと私の命令を破り続けてきました。そのため、本来ならあなたたちはすでに裁かれ、滅びていたはずです。

しかし、私は忍耐強く、憐れみ深い神であるがゆえに、あなたたちはまだ滅びていないのです。

ただし、私の忍耐を不正義と混同してはなりません。裁きの日は必ずやって来るのです。」

あなたはその日のための準備ができていますか。

カテゴリー
イザヤ書

正義と希望を与える方

このイエス様に関する預言がとても大好きです。天のお父様はこう語られます。

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。。。

まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。(イザヤ書42:1、3-4)

英語では、このような質問をよく耳にします。「誰がこの世界がフェアだと言うでしょうか。」

その答えは明白です。「だれもそう言わない。この世界はフェアではないからです。」

この世界には、不正義が溢れています。たとえば、裁判官が犯罪者を何度も開放することがあります。

けれども、いつの日か、イエス様は再びこの世に戻られます。その日、イエス様はこの不公平な世界に正義を打ち立てられます。

人々は皆、イエス様の前に立ち、自分の行動について申し開きをしなければなりません。そして、イエス様は全ての人を正しく裁かれます。

しかし、イエス様は正義だけをもたらされるのではありません。砕かれている人々や、苦しんでいる人々には癒しを与えられます。また、希望を持てない人々には希望を与えてくださいます。

私は特に3節が大好きです。

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく。。。

また、6-7によれば、イエス様は、

国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

多くの人々は暗闇の中で生きています。彼らは神様の良さを目にすることができず、罪の囚人として縛られ、そこから逃げ出すこともできません。

けれども、イエス様は私たちの目を開き、暗闇から解放してくださり、神様の素晴らしい光へと導いてくださいます。

16節には、このように書かれています。

わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。

彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。

だからこそ、イエス様にあって、私たちは深い喜びを得ることができます。

そして、いつの日か、私たちはこの歌を共に歌うことでしょう。

主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。

荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。(10-12)

希望と正義――イエス様はこれらをもたらすためにこの世に来られました。

カテゴリー
ミカ書

永遠までじゃない

多分、世界で一番戦争を嫌う国は日本ではないでしょうか。もし日本人にインタビューをしたら、彼らが他の先進国の民よりも戦争に対して嫌悪感を持っていると感じるでしょう。なぜなら、自分たちの目で戦争がどれほど恐ろしいものかを見たことがあるからです。

残念なことに、多くの国々はそのようには感じていません。

長い間、私たちは冷戦を経験しました。その時代、人々は核戦争が起こることを恐れていました。

今では少し状況が改善されていますが、人間が国々を治め続ける限り、戦争は決してなくならないでしょう。なぜなら、人々は常に持っていないものを求めたり、さらなる力を欲しがったりするため、本当に酷いことをし続けるからです。

とはいえ、この状態が永遠に続くわけではありません。ある日、神様が神様に背く人々からその力を取り去り、全世界の王となられるのです。そして、サタンとその民は裁かれ、その日から、この世には正義と平和が訪れます。

ミカはこのように書きました。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。。。

主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。(ミカ書4:3-4)

その日が来る前に、私たちは自分自身にとって非常に重要な質問をしなければなりません。「私たちは誰の味方なのだろうか。」

もし私たちが神様の味方であるならば、その日が来たとき、ついに平和を知ることができます。しかし、もし神様の味方でないならば、あなたにとっては裁きしか残されていません。

ですから、今こそ神様を求めましょう。裁きの日を待つのではなく、今、この瞬間に応えましょう。

さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。(2)

また、

まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。(5)

あなたは誰の味方でしょうか。

カテゴリー
イザヤ書

裁きの日

13章から、神様はいくつかの国に対して裁きを宣言し始められました。

最初に、神様はバビロンを裁かれました。そして、バビロンの裁きを通して、将来の世界の裁きの絵を見ることができます。

イザヤはこう書きました。

見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。

天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。

わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。

わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。

それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。

追い立てられたかもしかのように、集める者のいない羊の群れのようになって、彼らはおのおの自分の民に向かい、おのおの自分の国に逃げ去る。(イザヤ書13:9-13)

「10節を読んだことがあるかなぁ」と思うなら、多分そうです。最後の日について話された時に、イエス様はこの箇所を引用されました。(マタイ24:29)

そして、イザヤははっきりと言いました。「神様の忍耐は永遠に続かない。」

今、私たちは恵みの時代に生きています。ペテロはこう記しました。

主は。。。あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

しかしペテロはこれも言いました。

主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:10)

イザヤの言葉も私の心を打ちます。つまり、「残酷な日」、「憤り」、「燃える怒り」、「荒れすたらせる」、「根絶やしにする」と「罰する」。

私たちはよく神様が愛であると思います。それはその通りです。とはいえ、神様は正義の神でもあります。そして、正義の神は結局罪を裁かなくてはなりません。

時々、私たちは神様がその裁きに関して遅いと思います。しかし、神様ははっきりと言われます。「裁きの日が来る。」

神様は、バビロンとその王にその警告を宣言されました。また、神様は私たちにも警告されます。

あなたは裁きの日のために準備しているでしょうか。神様があなたの罪を無視されると思わないでください。また、神様があなたの罪に気づかないと思わないでください。

神様は、すべての人々の罪を裁かれます。あなたの悪い行動、あなたの悪い言葉、あなたの悪い態度、あなたの悪い思いを全部裁かれます。

その日は必ず来ます。そして、あなたはその日から逃れることはできません。

私たちの希望は一つしかありません。まだ時間があるうちに、神様の赦しとあわれみを求めることです。その時間は今です。

パウロはこう記しました。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

今、そうしませんか。