私は、この箇所でパウロが「歩む」という言葉をどのように用いているかが好きです。
「愛のうちに歩みまさい。」(エペソ人への手紙5:2)
「光の子どもとして歩みなさい。」(8)
「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。」(15)
要するに、この人生において、私たちは一歩一歩進むごとに、神様の愛をより深く知るはずです。 そして、その愛は私たちを通して流れ出すはずです。
また、周囲の人々が私たちの人生を見るとき、そこに神様の光を見出すはずです。
だから、私たちは次の一歩を踏み出すたびに、 その選択が私たちをどこへ導くのかに注意を払うべきなのです。
パウロはこの教えを、次のようにまとめています。
ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。
悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(15-17)
言い換えれば、私たちは愚かに生きてはならないのです。 かつて私たちは、死に至る道を歩んでいました。 だから、再びその道に戻ってはなりません。 また、いまもその道を歩んでいる人たちと、共に歩んではならないのです。
もちろん、私たちは彼らを完全に避けて生きることはできません。 けれども、彼らが私たちに影響を与えることを許してはなりません。 むしろ、私たちこそが彼らに影響を与えるべきなのです。
そしてパウロは、ほとんど同じことを二度にわたって語っています。
何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。(10)
また、
主のみこころが何であるかを悟りなさい。(17)
私は改めて強調したいのですが、パウロは個々のクリスチャンたちに語っているのではありません。 彼は、キリストにあって一つとされた「からだ」としての教会に語っているのです。 パウロは彼らにこう言いました。
「あなたがた皆は、キリストのからだとして、知恵をもって歩みなさい。 教会として、あなたがたは時を賢く用いていますか。 神様の教会として、与えられた機会を十分に生かしなさい。」
けれども、現実には多くの場合、神様の民はそのように歩んでいません。 教会は、暗闇の中に輝く光ではなく、 むしろ、暗闇の業に加わってしまうことすらあるのです。
また、私たちは互いに噛み合い、食い合い、 心に苦々しさを抱き、他のクリスチャンを許さずに恨んでしまうこともあります。
だから、パウロは言います。 「そのような態度を捨てなさい。 それは神様の御心ではありません。 そのように生きることは、愚か者の道です。 あなたがたは、自分たちに与えられた時間と機会を無駄にしているのです。
そうではなく、キリストのからだのために、神様のみこころを正しく知りなさい。」
では、神様のみこころとは何でしょうか。
また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。
詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。
キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。(エペソ人への手紙5:18-21)
「御霊に満たされなさい」という言葉を見るとき、私たちはしばしば個々のクリスチャンのことを思い浮かべます。 つまり、一人ひとりのクリスチャンが御霊に満たされるべきだと考えるのです。
しかし、パウロが語っているのは、 「あなたがたはキリストのからだとして、御霊に満たされるべきである」ということです。
教会にとって最も必要なのは、御霊に満たされることです。 けれども、多くの場合、教会は貪りや恨み、分裂的な思いに満ちてしまっています。
もし神様の教会が御霊に満たされ、御霊に導かれ、 御霊の力によって歩んでいるならば、 この世界にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。
もし神様の教会の人々が互いに引き裂き合わず、 御霊による喜びに満たされ、賛美をもって互いに励まし合っているならば、 この世にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。
また、もし教会の人々が恨みや分裂的な思いに満たされず、 互いに敬意を払い合い、キリストを畏れつつ互いに従い合っているならば、 どれほどこの世は変えられることでしょうか。
私たちは、そのように生きているでしょうか。 教会として、私たちはそのように歩んでいるでしょうか。 また、個々のクリスチャンとして、そのように歩んでいるでしょうか。
あなたは、今、どのように歩んでいるでしょうか。
