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マルコの福音書のデボーション

イエス様が生きておられるゆえに

青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書16:6)

明日、母の葬式のためにハワイへ旅します。そして、葬式のあと、私たちは遺灰を地面に葬ります。

しかし本当のところ、母の本質は地面に葬られるのではありません。母の魂はイエス様と共にあるからです。やがて、その遺灰は地面からよみがえり、新しい体へと変えられ、母の魂と結び合わされるのです。

その体は朽ちず、死ぬことのないものとなります。

それが私の希望です。イエス様が生きておられるゆえに、母も生きるのです。(ヨハネ14:19)

そしていつか、私の体が死んでも、神の恵みによって、私も生きるのです。

Many still mourn
多くの人が今も嘆いており、
And many still weep
多くの人が今も涙を流しています。
For those that they love who have fallen asleep
眠りについた愛する人々を思って。

But we have this hope though our hearts may still ache
しかし、心がまだ痛んでいても、私たちには希望があります。
Just one shout from above
天からの大きな呼びかけによって、
and they all will awake
すべての眠る者たちは目を覚ますのです。

And in the reunion of joy we will see
喜びに満ちた再会のうちに、私たちは目にするのです。
Death will be swallowed in sweet victory.
死は、胸のすくような勝利に飲み込まれるのです。ーーボブ・ハートマン

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マルコの福音書のデボーション

生きている者の神

死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マルコの福音書12:26ー27)

3週間前、私の母はこの世を去りました。 おそらく、そのため、上の箇所は私の心に響きます。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

そして、いつかの日、天の父はイエス様のすべての敵をその足の下に置かれます。 その最後の敵は、死です。(第一コリント15:26ー27)

私は母に再び会います。

だからこそ、悲しみの中でも、喜びをもって、キリストの勝利の歌を歌っています。

死は勝利に吞み込まれた。
死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:54ー55)

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イザヤ書のデボーション

死が滅ぼされる時

(この記事は、2011年に父が亡くなってから一年後に記したものです。昨日、母も天に召されたことを受けて、少し手を加え、あらためて共有いたします。)

多くの人々にとって、死は苦しみを伴うものです。

父の最後の週、私は毎晩、父の部屋でそばに寄り添いながら、静かに待っていました。それは、私がそれまで経験した中でも最もつらい時間でした。

そして母が召された今、私は再び同じような痛みを心に感じています。

それでも、やがて来る日には、死そのものが死に、終わりを迎える時が訪れます。

この箇所でイザヤは、イエス様の再臨について語っています。 彼はそのことに関して、次のように述べています。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、すべての民が神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。

この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時、糖尿病や肺炎を患っていて、すでに目が見えず、足には全く治らない傷がありました。

母も肉体的な問題を抱え、断続的にうつ病と闘っていました。

しかし今、父と母のすべての健康の問題は取り去られ、彼らの苦しみと痛みは勝利に飲み込まれました(第一コリント15:54)。

今、父と母は共に救いの歌を歌い、主の食卓で食事をしています。

だから私は、苦しみの中でも喜ぶのです。

私は、父と母に再び会う日を待ち望んでいます。

There are burdens that I carry every day
私は毎日、重荷を背負って生きています。
Sometimes it makes me want to cry
時に、その重さに心がふさがれて、涙がこぼれそうになります。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中で
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見いだします。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様がくださった約束にしっかりと握り続けています。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
やがて、私たちがこの世を離れる日が近づいていることを、私は知っています。

In a while, we’ll be gone.
やがて、私たちはこの世を離れる時が来ます。
And we won’t have to cry anymore.
その時、もはや涙を流すことはありません。
All our sorrows left behind.
悲しみはすべて、この世に置いていくのです。

That’s the day that I am waiting for.
その日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を、さらに深く知ることができますように。

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申命記のデボーション

命を選びなさい

私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。

まことにこの方こそあなたのいのちで(す)(申命記30:19ー20)

最近、私は私たちの神様との関係について考えていました。その時、鉢植えの花と切り花の違いに思いを巡らしました。

両方とも美しいですが、切り花は実際にはすでに死んだものです。なぜなら、命の源から切り離されているからです。

根元から切り離されたことで、その花はある意味で呪われた存在ともいえます。

私たちの神様との関係も同じです。

神様から切り離されると、私たちは呪われた存在となります。私たちはすでに死んだ者です。

しかし、神様につながり、日々命をいただくならば、私たちは栄えるのです。

では、私たちはどのようにして神様につながることができるでしょうか。

パウロは申命記30章を引用しながら、イエス様を指して、私たちがイエス様を信じ、自分の主とするように促します。(ローマ10:6-13)

ですから、命を選びましょう。

イエス様を選び、毎日愛し、御声に聞き従い、そしてすがりましょう。

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伝道者の書のデボーション

自然なもの?

「死は自然なものです。死は、ただ生命の循環の一部です。」

そんな言葉を聞いたことがあるでしょうか。

それは本当でしょうか。

ある意味では、それは本当ですが、ある意味では、本当ではありません。

この罪によって壊れた世界では、死は自然なものです。パウロが言ったように、罪の報酬は死です。(ローマ6:23)

でも、神様はもともと私たちを永遠のものとして造られました。

死が本当に自然なものであれば、人々は死を恐れず、悲しむことはないでしょう。でも、実際には、自分自身に死が自然なものだと説得しようとしなくてはなりません。

自分の心の中で、彼らはソロモンが分かってきたことを理解します。それは、死が悪であるということです。(3節)

すべての人は死にますし、私たちが全然予期しないときに、死は来るかもしれません。(2、11ー12節)

では、その真理にどのように反応するべきでしょうか。

私たちは絶望するのを選ぶことができます。また、死に対して憤るのを選ぶことができます。

私たちは憎しみや妬みや他の空しい感情を抱いて、たくさんの時間を無駄に費やすのを選ぶことができます。

もしくは、命がはかないものであっても、私たちはソロモンの助言に従って、神様から与えられた賜物であるこの人生を楽しむのを選ぶことができます。大切な人々に愛を示すことができます。(6ー9節)

また、神様から与えられた脳と体を用いて、仕事やレジャーやすべての活動を通して、神様に栄光を帰するのを選ぶことができます。(10節、コロサイ3:17)

でも、なぜ私たちはそうするべきでしょうか。命がはかないものであるなら、私たちの人生や行動には本当に意味があるのでしょうか。

意味があります。なぜなら、死は終わりではないからです。

イエス様はこう言われました。

わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)

また、最終的に、

正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。(伝導者の書9:1)

だから、死を考えるとき、絶望しないでください。むしろ、ソロモンのお父さんダビデと一緒に歌いましょう。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。

それゆえ、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。(詩篇16:8ー11)

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テサロニケ人への手紙第二

なぜ多くの人々は滅びてしまうのでしょうか

第1章において、パウロは、かなり不穏なことを語ります。彼はテサロニケの人々にこう言いました。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え。。。

主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。

そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。(テサロニケ人への手紙第二1:6,8-9)

地獄とは何かを知りたいなら、第9節がその核心を要約しています。それは――人々が永遠に、主の御前から退けられることです。

「永遠の滅び」と聞くと、「それは意識のない状態なのでは」と考える人もいるでしょう。けれども、聖書は明確に語ります。滅びた人にも意識はあります。

そして、神様が命と喜びと愛の源であるならば、その神様から切り離された状態こそが、まさに地獄なのです。

では、なぜ人々は神様から退けられるのでしょうか。

それについて、今日の箇所が答えを示しています。

第2章では、パウロはテサロニケの人々が抱いていた誤解を正します。パウロの以前の手紙を読んで、一部の人々は「すでにイエス様が帰って来られた」と思い、「自分たちはその再臨を見逃してしまったのでは」と不安になっていました。

しかし、パウロは彼らを励まします。「あなたがたはイエス様を見逃してはいません。イエス様が来られるとき、すべての人が必ずその姿を見ます。イエス様が来られるとき、あなたは必ず知るのです。」

そして、パウロは将来に何が起こるのかを説明します。

イエス様が来られる前に、反キリストが現れます。彼は神様に逆らって自らを高く上げ、ついには「自分こそ神だ」と宣言するのです。

実際、パウロの時代から――もっと前から――私たちはこの世界に働く不法の力を見てきました。その力の背後にいるのは、私たちを滅ぼしたいと願う偽りの父です。しかし今のところ、聖霊様がサタンを引き止めておられます。

けれども、やがてそのときが来て、聖霊様が退かれると、サタンはこの世を自由に支配するようになります。

反キリストが現れると、偽りのしるしや不思議なわざを行い、 多くの人々を欺きます。人々は彼を本当のキリストだと信じてしまうのです。

その結果、彼らは滅びに至ります。(3〜10節)

では、なぜ彼らは滅びなくてはならないのでしょうか。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。(テサロニケ人への手紙第二2:10-11)

これこそが、人が地獄で滅びる主な理由です。神様は彼らに福音の真理を伝えてくださいました。たとえ福音を直接聞いたことがなくても、彼らには創造物のあかしもあり、自分の良心のあかしもあるのです。(ローマ書1章)

それでも彼らは、救いへと導くその真理を愛することを拒みました。むしろ、自分の罪を喜んだのです。

多くの人々は、福音を信じられないわけではありません。むしろ、福音の真理を信じたくないのです。なぜなら、それを受け入れるならば、悔い改めなくてはならないからです。自分の罪を捨てなくてはならないのです。しかし、彼らはそれを望まないのです。

それゆえに神様は彼らに言われます。「あなたは真理を受け入れたくないのですか。では、この惑わす力の偽りを飲み込みなさい。」

彼らはそのとおりにし、永遠に自分の罪を抱き締め、神様を呪い、決して悔い改めることはありません。だからこそ、彼らは地獄で滅びるのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは真理を持っています。では、どう応答しますか。その真理を受け入れて、救われるでしょうか。それとも、自分の罪にしがみつき、滅びへと進むのでしょうか。

主のみことばを、しっかり心に刻みましょう。

わたしは生きている。。。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。

立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

あなたには、いのちを選ぶことができます。では、なぜ死を選ぼうとするのですか。あなたはどう応答するでしょうか。

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コリント人への手紙第一

最終の勝利

私はこの箇所が大好きです。この言葉を覚えておくべきだと思いますが、まだ完全にはできていません。

これは、パウロの勝利の叫びです。

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」(コリント人への手紙第一15:54)

もしかすると、パウロは預言者イザヤの言葉を引用したのかもしれません。

(主は)永久に死を吞み込まれる。(イザヤ書25:8)

そしてパウロはこう叫びました。

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(55)

パウロは興味深い箇所を引用しました。その言葉はホセア書13:14からのものです。この箇所を正確に翻訳するのはやや難しいですが、新改訳は、ある英語の聖書と同様に、次のように訳しています。

「私はよみの力から彼ら(つまり、イスラエル人たち)を贖い出し、死から贖う。」

けれども、別の英語の聖書では異なる翻訳と解釈が示されています。それは、

「わたしは、よみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖うだろうか?そうはしない。死よ、おまえのとげはどこにあるのか?私たちの民を殺せ。よみよ、おまえの針はどこにあるのか?私たちの民を刺せ。」

つまり、神様はイスラエル人たちを彼ら自身の罪のために裁いていたということです。彼らは神様に対して不忠実だったため、裁きを受けました。

ところが、パウロはこう語っています。「神様はこの言葉を通して、人々を罪のために裁かれましたが、神様はその同じ言葉を用いて、かつて人々を支配していた罪と死に対する勝利を宣言されます。」

そして、パウロは続けてこう言います。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。(56)

「とげ」とは、バラのとげのようなものではなく、蜂やサソリの針のようなものです。また、「突き棒」という意味も含まれています。

そのため、罪はサソリの毒を持つ針のように私たちを刺し、その結果、死をもたらしました。また、突き棒のように、罪は私たちを破滅へと追いやりました。

パウロによれば、罪の力は神様の律法です。なぜなら、私たちはその律法を完全に守ることができなかったからです。

私たちは律法を知っていましたが、罪深い心のゆえにそれを破り、罪を犯しました。したがって、私たちは神様の裁きを受けるべき存在でした。(ローマ書7章)

しかし、イエス様がこの世に来られたとき、私たちの代わりに律法を完全に守られました。それだけではなく、十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださいました。

その結果、私たちはもはや律法の管轄下にはありません。むしろ、私たちは恵みの管轄下にあります。したがって、律法はもはや私たちに力を持ちません。

そして、律法が私たちに対する力を持っていないのなら、罪もまた私たちを支配する力を持っていません。

簡単に言えば、罪のとげは取り除かれたのです。

だからこそ、パウロは喜びをもって宣言します。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(57)

では、私たちにとって、これにはどのような意味があるのでしょうか。

私たちはもはや神様の裁きを恐れる必要はありません。それゆえ、死をも恐れることはないのです。

神様は私たちを呪おうとされるのではなく、むしろ、ある日、新しい体を与えてくださいます。私たちは永遠に神様に栄光を帰し、受けた恵みを喜び続けることができるのです。

あなたはどうでしょうか。死を恐れますか?それとも、あなたはパウロとともに喜びの歌を歌うことができるでしょうか。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

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コリント人への手紙第一

復活のとき、私たちはどうなる?

数年前、私は60代の生徒たちと新聞の記事について話しました。研究者によれば、60~65歳は現代の中年層に分類されるようになってきました。なぜなら、人間の平均寿命が延びているからです。

私は、彼らが何歳まで生き続けたいと思うか尋ねました。彼らは75~80歳までと答えました。その意見は理解できます。その年齢になると、私たちの健康は著しく衰え始めます。それを特に経験したくないと思うのは自然なことです。

それよりも、私は神様が与えてくださる新しい体を持ちたいと思います。この箇所で、パウロはその体について語ります。

あるコリントのクリスチャンたちはパウロに尋ねました。「私たちは復活すると、どんな体を持つのでしょうか。」

パウロは、私たちの現在の体を蒔かれた種に例えます。その蒔かれた種は、成長した木とはまったく異なります。

同様に、埋葬された私たちの肉体は、新しい体とはまったく違います。それでは、その新しい体はどのように違うのでしょうか。

パウロはそのことを説明します。

死者の復活もこれと同じです。

朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。

血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(コリント人への手紙第一15:42-44)

私たちの現在の体は年を重ね、やがて死にます。一方で、私たちの新しい体は決して死ぬことはありません。

私たちが死んだ後、肉体は埋葬され、腐敗します。それでも、新しい体は栄光に満ちたものとしてよみがえらされます。

私たちの今の体は病にかかり、やがて衰えていきますが、新しい体は健やかで、決して病むことも弱ることもありません。

私は父のことを思い出します。彼は8年前に亡くなりました。

事故の影響で失明し、最後の数か月はほとんど歩くことができませんでした。彼は糖尿病を患い、心臓も弱っていました。最後の数日間、彼は話すこともできず、ただベッドに横たわるしかありませんでした。

父の状態を見るのは本当に辛いものでした。しかし今、彼はその弱い体から解放されました。そして、イエス様がこの世に戻られるとき、最後のラッパの響きのうちに、父は新しい体を得て、空中でイエス様と会うのです。

その日、私も新しい体を得て、イエス様と父に会います。そのとき、この世界のすべては新しくなり、人々は喜びの歌を歌うでしょう。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

その日が待ち遠しいです。

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ローマ人への手紙

イエス様と結びついていること

以前述べたように、パウロは結婚の比喩を用いて、二つのポイントを描写しようとしました。

私たちはすでに最初のポイントを見ました。それは、私たちがイエス様と共に死ぬと、律法は私たちに対する力を失うということです。同様に、死によって、結婚の律法は夫婦に対する効力を失います。

前回の記事で私は、パウロがこのポイントを描写する際、私たちを死んだ夫と比べるのが自然な流れであると述べました。

つまり、夫が亡くなると、律法は彼に対する効力を失います。同じように、私たちはキリストと共に死んだので、律法は私たちに対する効力を失ったのです。

けれども、実際には、パウロは夫の死がどのようにして妻を結婚の律法の支配から解放するかについて、詳しく語っています。

そのため、この比喩は少し分かりにくくなります。パウロは、私たちを死んだ夫とは比較せず、まだ生きている妻と比較しています。

しかし、彼が結婚の比喩をこのように用いることによって、パウロは第二のポイントを説明することができました。そのポイントとは何でしょうか。

それは、私たちがクリスチャンになる前、別の夫と結婚していたということです。けれども今、私たちはイエス様と結びつけられています。

このポイントを描写するために、パウロはイエス様を新しい夫として描き、私たちを妻として描いています。では、この比喩において、私たちはかつて誰と結婚していたのでしょうか。その死んだ夫とは誰でしょうか。

私は以前述べましたが、死んだ夫は律法ではありません。なぜなら、パウロは律法が廃されるとは教えていないからです。今でも、律法は重要な役割を持っています。律法は私たちに、何が善で何が罪かを示します。(ローマ人への手紙7:7)

では、私たちは誰と結びついていたのでしょうか。おそらく、パウロは私たちの罪深い心を指しているのでしょう。

私たちがクリスチャンになる前、私たちの心は神様に反抗し、自分の道を歩みたいと願っていました。生まれたときから、私たちはその心と結びついていました。

そして、その「結びつき」によって、私たちはどのような実を結んでいたでしょうか。私たちは、死に至る実を結んでいたのです。(ローマ人への手紙7:5)

さらに、私たちが罪深い心と結びついている限り、私たちはイエス様と結びつくことができませんでした。

しかし、神様が私たちを救ってくださったとき、神様は私たちの罪深い心を十字架につけ、死に渡されました。

では、罪深い心が死んだことによって、何が起こったのでしょうか。

第一に、律法が私たちに対する力を失ったことです。夫が亡くなると結婚の律法が妻に対する効力を失うように、私たちの罪深い心が死ぬと、神様の律法は私たちに対する力を失います。

第二に、私たちの罪深い心が死んだことによって、私たちはイエス様と結びつくことができるようになったのです。

そして、私たちはイエス様との結びつきによって、もはや死に至る実を結びません。むしろ、永遠の命に至る実を結びます。

だからこそ、救いの道はイエス様だけなのです。

神様に反抗する心と結びついている限り、私たちは永遠の命に至る実を結ぶことができません。罪深い心が私たちに植え付ける種は死へと向かいます。

それに対して、イエス様が私たちに植え付ける種は永遠の命へと至ります。

あなたは誰と結びついているでしょうか。

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イザヤ書

死が滅ぼされる時

2011年に、私の父は入院して、健康状態が非常に悪いと聞きました。私の母と姉はどれぐらい父が生き続けるか分かりませんでした。

それを聞いて、私の家族は父を見舞うためにハワイに帰省しました。私たちがハワイにいる間に、私の父は亡くなりました。

多くの人々にとって、死は苦しいことです。

父の最後の週に、私は毎晩父の部屋にいて、待ちました。彼はずっと寝て、全然起きなくて話しませんでした。それでも、私は父とよく話しました。

父は私の言うことが聞こえていたかどうか分かりません。本当に辛かったです。

ある日、私は午前12時に兄の家に戻り、姉が私の代わりに父の部屋で待ってくれました。5時間後、父は最後の息を引き取りました。

死は本当に苦しいことです。

でもある日、死も無くなります。

この箇所ではイザヤはイエス様の再臨について話します。イザヤはその事についてこう言いました。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、皆は神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時は、糖尿病や肺炎を患っていたし、もう目が見えなかったし、足に全然治らない傷がありました。

でも、今その健康の問題は全部無くなりました。父の苦しみと痛みのすべては勝利に飲まれました。(第一コリント15:54)

だから、父は大きな声で天国の皆と一緒に救いの歌を歌っています。毎日、父は主の食卓で食べています。

もう一度私の父に会うことを楽しみにしています。

私はある歌が大好きです。その歌を聞くと、父のことを思い出します。そして、私たちの希望についても思い巡らします。

There are burdens that I carry every day
毎日私は重荷を背負っています。
Sometimes it makes me want to cry
時々私は泣きたくなります。
Hopeless feelings harbored deep inside my heart
私の心の中に絶望の思いがあります。
And I find it hard to hold my head up high.
だから、私の頭を上げることは難しいです。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中に
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見つけます。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様の約束を握っているからです。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
そろそろ私たちはこの世から去ると知っています。

In a while, we’ll be gone.
もうすぐ私たちはこの世から去ります。
And we won’t have to cry anymore.
その時、私たちはもう泣く必要がないのです。
All our sorrows left behind.
私達の悲しみはこの世に残ります。

That’s the day that I am waiting for.
私はその日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を見いだすことができますように。