カテゴリー
ヨハネの黙示録

御怒りの日、誰が耐えられるか

6章の最後で、イエス様が第6の封印を解かれると、大変な出来事が起こります。この世の偉い人たちも庶民たちも、山々や岩に向かって叫びます。

私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。(黙示録6:16-17)

「だれがそれに耐えられよう。」

その答えは、7章に記されています。

ヨハネは4人の御使いたちを見ます。彼らは神様の裁きをこの世に実行しようとしています。しかし、もう一人の御使いが現れてこう言います。

私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。(黙示録7:3)

その言葉は、エゼキエル書にある言葉に似ています。その時にも、神様はご自身の民を裁こうとしていましたが、その前に、忠実な民をその裁きから守るため、彼らの額に印を押されました。(エゼキエル書9:3-7)

今日の箇所では、神様は、イスラエルの子らのあらゆる部族の十四万四千人の額に印を押されます。

聖書学者たちは、その十四万四千人が誰を指すのかについて、活発に議論しています。

私の意見ですが、おそらく、彼らは救われた人々全体を象徴しているのでしょう。

すなわち、12(イスラエルの部族——旧約の聖徒たち)×12(使徒たち——新約の聖徒たち)×1000(「完全」を意味する数字)=十四万四千。彼ら全体が、イエス様にある新しいイスラエルなのです。

では、なぜ私は、その十四万四千人が文字通りのユダヤ人だとは考えないのでしょうか。

最初の理由は、黙示録のイスラエルの部族のリストが、ヤコブの息子たちのリストと少し違うことです。(ダンは含まれておらず、代わりにヨセフの息子であるマナセが含まれています。)

また、黙示録のイスラエルの部族のリストは、カナンの地を受け継いだ部族のリストとも異なります。(ダンが省かれ、レビが含まれ、エフライムの代わりにヨセフが含まれています。)

さらに、現代のユダヤ人の部族的系統は完全に混ざっています。

こうした理由から、私はヨハネが文字通りのユダヤ人について語っているのではないと考えます。

また、私の意見ですが、その十四万四千人は7:9に登場する大群衆と同じ存在だと思います。その群衆は、すべての国民、部族、民族、言語から構成されており、御座の前と子羊の前に立って叫びます。

救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。(黙示録7:10)

一人の長老はヨハネに、その人々についてこう言います。

この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。

それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。

御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙示録7:14-17)

その長老は、何を言わんとしていたのでしょうか。

苦難の時は、必ずやって来ます。反キリストが現れると、キリストのために多くのクリスチャンが迫害され、殺されます。けれども、イエス様がスミルナにある教会に言われたように、その苦難は一時的なものです。(黙示録2:8-10)

私たちは、サタンとその反キリストの怒りに直面するかもしれませんが、神様からの印を受け、神様の御怒りとキリストの御怒りから守られます。

そして結局、私たちは神様の御前に立ち、永遠に神様に仕え、礼拝します。私たちはもはや苦しむことはなく、その日には、イエス様の御顔を仰ぎ見るのです。イエス様は、私たちに永遠の命を与え、すべての涙を拭い取ってくださいます。

それは、イエス様を信じる人たちの希望です。

だから、私たちには選択があります。私たちは神様の印を受け、サタンの怒りに直面するのでしょうか。それとも、私たちはサタンの印を受け、神様の御怒りに直面するのでしょうか。他の選択肢はありません。

あなたは何を選ぶでしょうか。

カテゴリー
ヨハネの黙示録

正義はいつ来るのか

前回の記事では、私たちは第五の封印をあえて飛ばしました。なぜなら、その封印は他のものとは性質が異なるからです。地上の裁きに関する他の封印と違って、第五の封印は天における出来事に焦点を当てています。

イエス様がこの封印を解かれると、ヨハネは祭壇の下に、イエス様のゆえに殺された人々の姿を見ます。そして彼らは、大声で叫びます。

聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。(黙示録6:10)

その人々とは誰でしょうか。おそらく、使徒の働き第7章に記されたステパノや、キリスト教の長い歴史の中で命を捧げた殉教者たち全体を指しているのでしょう。

彼らのことを考えると、「なぜ正義はまだもたらされないのか」「キリストのゆえに迫害される私たちは、なぜ神の正義を目にすることができないのか」と問いかけたくなるのは自然なことです。

そのような殉教者たちに対するイエス様の答えは、実に興味深いものです。

「あなたたちと同じように殺されることになる兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」(黙示録6:11)

言い換えるなら、イエス様がこの世に再び来られるまで、迫害は続きます。その間、神様は忍耐をもって、迫害者たちを裁かれません。

なぜでしょうか。それは、できるだけ多くの人々が御国に入ることを、神様が待っておられるからです。(使徒の働き9:1〜19をご覧ください。サウロの物語がその例です。)

しかし、イエス様がもう一度来られるとき、神の正義はついに実行されます。

けれども、その日が来るまで、イエス様はご自身のために殺された人々に、平安と安らぎを与え続けてくださいます。

この世は、不公平なことだらけです。私たちは苦しみの中で、「なぜ私が苦しまなくてはならないのか」と問いかけたくなります。

ところが、イエス様は「苦難がない」と約束されません。むしろ、「あなたがたは苦難に遭う」と約束されるのです。(ヨハネ16:33)

そういうわけで、私は、反キリストが来る前にイエス様が私たちを天に迎えてくださるとは思いません。(とにかく、それが私の一つの理由です。)

けれども、私たちが苦しむときでも、心に留めておきましょう。最終的には、神の正義がもたらされます。

だからこそ、希望を持ち、イエス様の言葉を覚えて歩みましょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)