この箇所では、私たちは、イエス様がなぜパリサイ人たちと律法学者たちの律法の解釈を批判されたのかを知ることができます。つまり、彼らは外見だけに注意を払っていましたが、心の状態を完全に無視していたのです。
その一例が殺人についての教えです。イエス様はこう言われました。
昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイの福音書5:21)
もちろん、パリサイ人たちと律法学者たちは、その命令に従っていました。彼らは誰も殺しませんでした。(とはいえ、後に、彼らのせいでイエス様は十字架にかけられました。)
それでも、イエス様続けてこう言われました。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
兄弟に向かって「能なし」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(22)
イエス様は殺人だけを指摘されるのではなく、心の態度についても指摘されます。要するに、「あなたは誰も殺していないでしょう。それは良いことです。けれども、あなたの心の中で相手を殺したことがあるでしょうか。」と問いかけられるのです。
心の中で相手を殺すとはどういう意味でしょうか。
相手を殺すとき、あなたの態度はどうでしょうか。あなたはその人を侮っています。「この人には価値がないので、彼は生き続けない方が良い。」という態度を取っています。
もし私たちが相手に「あなたがバカ者だ」と言う時、実際には何をしているのでしょうか。私たちは心の中で相手を侮り、「あなたには価値がない」という態度を取っています。
殺人とは、その態度を極端な程度まで取ることです。しかし、私たちの心がその態度を持ち続ければ、やがて殺人に至るかもしれません。ニュースでは、そうした話を私たちはよく耳にします。
さらに、イエス様は怒りの問題についても指摘されます。怒りは自然な感情です。私たちがいつ怒るかをコントロールすることはできません。それは感情だからです。時には何かが起こり、私たちは怒りを感じます。
それでも、私たちはその怒りをどのように制御するかを決めることができます。私たちは、その怒りをずっと持ち続けるでしょうか。その怒りを抱え込んで、だんだん大きくさせるでしょうか。
ちゃんと制御されない怒りは、次の段階へ進むかもしれません。たとえば、私たちはその人との縁を切ることがあります。最悪の場合、私たちは彼らを殺してしまうこともあります。
そうなれば、イエス様は私たちが裁かれると言われます。また、神様の恵みから離れた結果、私たちは地獄に行くと警告されています。
あなたはどうでしょうか。心の中で誰かを侮っているでしょうか。「彼はろくでなしだ」と考えたことがあるでしょうか。
あなたの怒りによって、誰かと縁を切ったことがあるでしょうか。もしそうであれば、神様の目には、あなたはその人を殺したことになるのです。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)
また、
光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。。。
兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(第一ヨハネ2:9,11)
だから、たとえ相手があなたを傷つけたとしても、その人を価値のある人として見なすようにしましょう。なぜなら、実際に彼らには価値があるからです。そのために、イエス様は彼らのためにも、私たちのためにも十字架で死んでくださいました。
