「神様は私を忘れられたのだろうか。私には希望が残されているのだろうか。」
ユダヤの亡命者たちは、きっとそう思ったことでしょう。彼らは心の中で叫び続けていました。
主は私を見捨てた。主は私を忘れた。(イザヤ書49:14)
時々、私たちも同じように感じることがあります。「神様に捨てられた」と思います。また、「私は希望がない」と思います。
女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。(イザヤ書49:15-16)
つまり、私たちは、母が自分の乳飲み子を忘れることを想像することはできません。また、母が自分の子を憐れまないことも考えられません。とはいえ、この壊れた世界では、自分の子を捨てる母親もいるのです。
それにもかかわらず、神様はこう言われます。
「そのような親しい母子の関係が壊れたとしても、私は決してそのようなことをしない。私の愛は母の愛よりも深いから。あなたを決して忘れない。あなたを決して捨てない。」
神様はイスラエルの民を彼らの土地に帰らせることを約束されました。そして、たとえ彼らが希望を失ったとしても、神様はもう一度彼らに祝福を注ぐと約束されたのです。その時、
あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。(23)
私が主であることを知る。
私たちは本当にそのことを理解しているのでしょうか。「私は神様を信じている」と言いながらも、私たちの行動はその言葉と一致しているでしょうか。
神様の約束を心から信じているでしょうか。
神様が私たちの将来をその御手の中に持っておられることを信じているでしょうか。
神様がご自身の約束を守られることを、本当に信じることができるでしょうか。
私たちに希望が見いだせない時でさえ、神様に信頼し、従い続けることができるでしょうか。
わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。
何によって希望を見出すのでしょうか。私たちには本当に希望があるのでしょうか。
神様が約束されたのは、もし私たちが神様を待ち望み、また神様に従い続けるなら、最終的に神様の祝福を体験するということです。
けれども、時々私たちは神様に失望させられると感じることがあります。そのため、神様に信頼し従うことをためらうこともあるでしょう。
「もし神様に従っても、良い結果が得られなかったら、私はどうしたら良いのだろうか。」
あるいは、こう考えるかもしれません。
「神様に従うことで、私の状況がさらに悪化するのではないか。」
けれども、神様の約束は、最終的に私たちが恥を見ないということです。ある英語の翻訳では、「神様は私たちをがっかりさせない」と書かれています。
しかし、あなたは本当にそう信じているでしょうか。神様が来られるまで、待ち望むことができるでしょうか。
あなた自身はどうでしょうか。「忘れられた」と感じていますか。「捨てられた」と思っていますか。「もう希望がない」と思っていますか。
神様はあなたを決して忘れていません。神様はあなたを決して見捨てません。もしあなたが神様に向かうなら、神様はあなたに希望を与えてくださいます。
神様を信頼してましょう。神様を待ち望みましょう。そして、神様の言葉に従いましょう。そうすれば、たとえ大きな試練に直面しても、最終的にあなたは恥を見ることがないのです。
