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ヘブル人への手紙

無理

これは、聖書の中でも最も論争の的となっている箇所の一つです。この箇所のゆえに、多くの人々は「クリスチャンでも救いを失うことがある」と信じています。へブル人への手紙の著者は、このように書いています。

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。

彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。(ヘブル人への手紙6:4-6)

一見すると、この箇所はクリスチャンが自分の救いを失う可能性があるように思えます。けれども、私は一つの言葉に注目したいと思います。それは「できません」です。

言い換えるならば、「無理」ということです。

もしあなたが、「クリスチャンは堕落して救いを失う可能性がある」と考えるなら、その人が救いを取り戻すことは不可能である、ということも信じなければなりません。その結論からは逃れられません。

原語でも、著者は「無理」とも言える強い表現を使っています。

では、自分に問いかけてみてください。これまでに、クリスチャンが神様に背を向け、何年も神様から離れていたのに、再び神様に立ち返る姿を見たことはありますか? 私は、あります。

ということは、もしこの箇所が絶対的に正しければ、その人は本当に堕落していたとは言えません。実際に神様から立ち去っていたとは断定できないのです。なぜなら、彼らは最終的に神様に戻ったのですから。

言い換えれば、もし人が救いを失うことができると信じるなら、「堕落」の定義を非常に限定的にしなければなりません。その定義とは、「神様から離れ、決して戻ってこない人」です。

ですから、その人が亡くなるまでは、私たちは本当に堕落していたかどうかを判断することはできません。

それでも、私たちの心には疑いが残るでしょう。「その人は本当に神様から立ち去っていたのだろうか。もし、もう少し長く生きていたら、神様に戻っていたのではないか。」

私が信じているのは、人が救われたなら、その救いを失うことはありえない、ということです。神様は、この世の創造以前に、クリスチャンを救いのために選んでくださいました(エペソ1:4ー5)。

もし、その人が神様から離れてしまったのだとしたら、神様がその人を選ばれたことは無駄だったのでしょうか。神様は、その人の背信に驚き、傷つき、そしてその人を見捨てられたのでしょうか。私はそうは信じません。

では、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者」とは、どういう意味なのでしょうか。

イスカリオテのユダについて考えてみてください。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者」という言葉は、ユダに完全に当てはめることができます。

ユダはイエス様の教えをすべて聞きました。おそらく、初めの頃はそのことばを信じていたかもしれません。

彼は天からの賜物を味わい、聖霊様の力も経験しました。その力によって、ユダは他の弟子たちと同じように、人々を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったのです(マタイ10:8)。

しかし、イエス様は初めから、ユダが真の信仰を持っておらず、いずれご自身を裏切ることを知っておられました(ヨハネ6:4)。

簡単に言えば、ユダは畑の毒麦の完全な例です(マタイ13:36〜43)。

ユダは信者のように見え、信者のように振る舞っていましたが、心から信じることは一度もありませんでした。

そのため、この手紙の著者は、次のように語っています。

たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。(7-8)

他の弟子たちは、もちろん完全な者ではありませんでしたが、最終的には救いの実を結びました。それに対して、ユダは茨やあざみしか生み出さず、ついには滅びてしまいました。

この手紙の著者は、さらにもう一つの例を挙げています。それは、エジプトから救い出されたイスラエルの民です。

彼らは神様の律法を受け、多くの奇跡を見ましたが、心から神様を信じることはなかったため、約束の地に入ることはできませんでした。

著者が伝えたいポイントは何でしょうか。救いを得るためには、私たちには本物の信仰が必要なのです。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。あなたは真の信者でしょうか。あなたは、クリスチャンとして少しずつ成熟していますか。あなたは、日々キリストに似た者へと変えられていますか。

裁きの日には、実を結ばない信仰は偽りの信仰であったことが明らかにされます。

そして今もなお、自分をクリスチャンだと主張しながら、神様から離れていくことで、自らが毒麦であることを明らかにする人々がいます。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。

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畑になる毒草

この箇所を読むと、なぜかユダに目が向きます。

この箇所では、イエス様は弟子たちを呼び、イスラエル人に奉仕するために送り出されました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気と患いを癒す力を与えられました。けれども、彼らの最も重要な使命は福音を伝えることでした。

マタイは弟子たちの名前を挙げる際、最後にこう記します。「そして、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ10:4)

考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病人を癒しました。ユダも福音を伝えました。それなのに、最終的に彼はイエス様を裏切ったのです。

なぜユダは、これほど多くの素晴らしい働きをしながらも、イエス様を裏切ることになったのでしょうか。その理由を完全に理解するのは難しいです。

けれども、ユダはイエス様が語られた「畑にある毒麦」のたとえ話を象徴しているように思えます。(マタイ13:24-30; 36-42)

実際、毒麦と麦は見た目が非常によく似ています。そのため、農夫が毒麦を引き抜こうとすれば、誤って麦も引き抜いてしまう可能性がありました。そこで、農夫は収穫の時まで待つことにしました。その時になって初めて、麦と毒麦を分けました。

同じように、ユダは信者のように見えました。彼は他の弟子たちと共に学び、また他の弟子たちと同じように、悪霊を追い出し、人々を癒し、福音を伝えました。

それでも、彼は決して自分の心をイエス様に捧げることはありませんでした。

私のただの推測にすぎませんが、もしかすると、ユダは自分の利益のためにイエス様を利用しようと考えていたのかもしれません。

しかし、彼の目的とイエス様のビジョンが全く異なっていることに気づき、イエス様を利用できないと悟ったとき、彼はイエス様を裏切る道を選んだのです。

現代においても、教会の中にはそのような人々がいます。彼らはクリスチャンのように見え、クリスチャンのように聞こえます。中には奉仕をする人もいます。それでも、彼らの心は本当にイエス様に捧げられてはいません。

あなた自身はどうでしょうか。あなたの心はイエス様に捧げられていますか。あなたの人生は本当にイエス様のものでしょうか。それとも、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。

表面的に信者のふりをすることはしないでください。牧師や教会の他のメンバーを欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことはできません。そして、裁きの日には、あなたの本当の姿が明らかにされるでしょう。

その毒麦とならないように。あなたの心をイエス様に捧げましょう。信者のふりをして生きても、あなたの人生は虚しくなり、最終的には裁きを受けることになるのです。