カテゴリー
テトスへの手紙のデボーション

偽ることのない神

それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。(テトスへの手紙1:2)

「偽ることのない神。」

今朝、その言葉が何となく私の心に響きました。

それは、私の希望の土台です。神様は偽ることのない方だから、約束されたことを必ず実行されます。その中には、神様が永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちも含まれています。

その約束は、イエス様において成就しました。

私は、ルカの福音書にあるシメオンの言葉を思い起こしました。

主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。

私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。(ルカ2:29-32)

カテゴリー
ヨハネの手紙第一

神様の証し

神様が三位一体として救いの道を証しされるということは、非常に興味深いことだと思います。この記事を書く前には、そのことについて考えたことがありませんでした。

ヨハネはこう言いました。

この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。

御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています。(ヨハネの手紙第一5:6-8)

この手紙の背景を知らないと、その言葉を理解するのは少し難しいかもしれません。

ヨハネの時代、多くの人々は「イエス様はいつもキリスト(救い主)でいたわけではない」と主張していました。むしろ、彼らは非常に奇妙な教えを信じていたのです。

それは、イエス様がバプテスマを受けたときに「キリスト」という霊がイエス様の中に入ったものの、十字架にかかったときには、その霊がイエス様から立ち去った、というものです。

そのため、彼らの主張によれば、イエス様は十字架で死んだときにはキリストではなくなっており、私たちの罪の代価を支払うことができなかった、というわけです。

しかし、イエス様はバプテスマのときだけでなく、十字架で死なれたときにも、御自分がキリストであることを証明されました。

バプテスマのとき(つまり、水の証し)、天の父がイエス様を称賛され、聖霊様が鳩のようにイエス様の上に降られました(つまり、御霊の証し)。

そして、聖書の預言通りに、イエス様は十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださいました(つまり、血の証し)。

このように、天の父と御子と御霊、すべてが一致して救いの道を証ししています。その証しとは、救いがメシアを通してもたらされる、ということです。(「キリスト」とは「メシア」、すなわち「王と救い主」を意味します。)

では、なぜこの証しが重要なのでしょうか。それは、神様が証しされるなら、それに反論できる者は誰もいないからです。9-10節でヨハネはそのように主張しています。

私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。

神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。(9-10)

私たちはしばしば人々の証しを信じます。それなら、どうして神様の証しを疑うのでしょうか。

神様がその証しをされた以上、神様に従っていると主張しながら、その証しを拒絶することはできません。

では、具体的にその証しとは何でしょうか。11-12節でヨハネは私たちに教えています。

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(11-12)

けれども、多くの人々はその証しを好みません。彼らは、イエス様以外にも多くの救いの道があると信じたいのです。

しかし、ヨハネによれば、私たちがそのように主張するなら、それは実際に神様を嘘つきと呼ぶことになります。

神様の証しを信じることで初めて、私たちは自分の救いについて平安と確信を持つことができます。

どうしてでしょうか。それは、私たちの救いが自分の行いに基づいていないからです。むしろ、その救いは神様の恵みとイエス様の十字架の働きに基づいています。私たちがしなければならないのは、その賜物をただ受け取ることだけです。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。(13)

ヨハネは、「あなたがたに永遠のいのちの微かな希望を与えるため」とは言わずに、「永遠のいのちの確信を与えるため」と語っています。

あなたはどうでしょうか。神様の証しを受け入れていますか。永遠のいのちの確信を持っていますか。

カテゴリー
ヘブル人への手紙

神様に背を向けるとき

すべてのコインには二つの面があります。神様の救いの賜物も同じです。

神様の永遠の命の賜物を受けるなら、私たちは神の子とされ、神の相続人となり、永遠の遺産をいただくことになります。

その一方で、その賜物を拒むなら、私たちは裁かれます。

その遺産は実に素晴らしいものです。そして、イエス様が私たちを愛し、十字架でその代価を払ってくださったことを覚えるなら、どうして人々はその賜物を拒むのでしょうか。

けれども、多くの人々はそうしてしまいます。彼らは永遠のものを、一時的なものと取り替えるのです。彼らは神様のために生きるのではなく、自分自身のために生きます。

しかし、その結果、彼らは神様だけではなく、周りの人々を、そして自分自身までも傷つけてしまいます。そのため、彼らが死ぬとき、裁きに直面することになるのです。

私たちは生きている間に、悔い改める時間が与えられています。けれども、死ぬならば、もう悔い改める時間はなくなり、永遠の遺産を受ける可能性も消えてしまいます。

エサウのように、多くの人々は涙ながらにその遺産を求めますが、その時にはもう遅いのです。

この手紙は、9章27節でこう語っています。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが決まっている。。。(へブル人への手紙9:27)

だから、この箇所において、手紙の著者は私たちに警告を与えています。

あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。

地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。。。

私たちの神は焼き尽くす火なのです。(25-29)

神様が「焼き尽くす火」と例えられるのはなぜでしょうか。それは、焼き尽くす火が神様の聖さと裁きを描写しているからです。

神様がシナイでモーセに律法を与えたとき、私たちはその描写を目にします。また、神様がアロンの息子たちを裁かれたとき、あるいはイスラエルの敵に対して怒りを示されたときにも、同様の描写が現れます。

そして、この箇所にも、神様の聖なる火の描写を見ることができます。

もし神様を拒み、その命の賜物を退けるなら、残るのは裁きしかありません。

それは誰も聞きたくないことです。多くの人は神様の愛だけを聞きたいと思うのです。

しかし、神様は反逆と罪を裁かなくてはなりません。イエス様にあなたの罪の代価を払っていただかない限り、あなた自身がその代価を払わなければなりません。ほかに選びはありません。

あなたはどうするでしょうか。

カテゴリー
ローマ人への手紙

イエス様と結びついていること

以前述べたように、パウロは結婚の比喩を用いて、二つのポイントを描写しようとしました。

私たちはすでに最初のポイントを見ました。それは、私たちがイエス様と共に死ぬと、律法は私たちに対する力を失うということです。同様に、死によって、結婚の律法は夫婦に対する効力を失います。

前回の記事で私は、パウロがこのポイントを描写する際、私たちを死んだ夫と比べるのが自然な流れであると述べました。

つまり、夫が亡くなると、律法は彼に対する効力を失います。同じように、私たちはキリストと共に死んだので、律法は私たちに対する効力を失ったのです。

けれども、実際には、パウロは夫の死がどのようにして妻を結婚の律法の支配から解放するかについて、詳しく語っています。

そのため、この比喩は少し分かりにくくなります。パウロは、私たちを死んだ夫とは比較せず、まだ生きている妻と比較しています。

しかし、彼が結婚の比喩をこのように用いることによって、パウロは第二のポイントを説明することができました。そのポイントとは何でしょうか。

それは、私たちがクリスチャンになる前、別の夫と結婚していたということです。けれども今、私たちはイエス様と結びつけられています。

このポイントを描写するために、パウロはイエス様を新しい夫として描き、私たちを妻として描いています。では、この比喩において、私たちはかつて誰と結婚していたのでしょうか。その死んだ夫とは誰でしょうか。

私は以前述べましたが、死んだ夫は律法ではありません。なぜなら、パウロは律法が廃されるとは教えていないからです。今でも、律法は重要な役割を持っています。律法は私たちに、何が善で何が罪かを示します。(ローマ人への手紙7:7)

では、私たちは誰と結びついていたのでしょうか。おそらく、パウロは私たちの罪深い心を指しているのでしょう。

私たちがクリスチャンになる前、私たちの心は神様に反抗し、自分の道を歩みたいと願っていました。生まれたときから、私たちはその心と結びついていました。

そして、その「結びつき」によって、私たちはどのような実を結んでいたでしょうか。私たちは、死に至る実を結んでいたのです。(ローマ人への手紙7:5)

さらに、私たちが罪深い心と結びついている限り、私たちはイエス様と結びつくことができませんでした。

しかし、神様が私たちを救ってくださったとき、神様は私たちの罪深い心を十字架につけ、死に渡されました。

では、罪深い心が死んだことによって、何が起こったのでしょうか。

第一に、律法が私たちに対する力を失ったことです。夫が亡くなると結婚の律法が妻に対する効力を失うように、私たちの罪深い心が死ぬと、神様の律法は私たちに対する力を失います。

第二に、私たちの罪深い心が死んだことによって、私たちはイエス様と結びつくことができるようになったのです。

そして、私たちはイエス様との結びつきによって、もはや死に至る実を結びません。むしろ、永遠の命に至る実を結びます。

だからこそ、救いの道はイエス様だけなのです。

神様に反抗する心と結びついている限り、私たちは永遠の命に至る実を結ぶことができません。罪深い心が私たちに植え付ける種は死へと向かいます。

それに対して、イエス様が私たちに植え付ける種は永遠の命へと至ります。

あなたは誰と結びついているでしょうか。