この箇所で、パウロは、なぜ試練の中でも希望を持ち続けることができたのかをさらに説明します。彼はこう語りました。
たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(コリント人への手紙第二5:1)
4章で、パウロは私たちの体を土の器に例えました。そして、5章では私たちの体を幕屋に例えています。
パウロのポイントは、私たちの体が幕屋のように一時的であり、壊れやすいものであるということです。しかし、たとえ私たちの体が滅びても、私たちは希望を持っています。なぜなら、神様がより丈夫な永遠の住まいを備えてくださるからです。
ここでパウロは第一コリント15章に触れています。つまり、私たちが復活すると、その新しい体は決して病気にならず、死ぬこともないのです。
それでも、パウロはこう語りました。
私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。(2-4)
要するに、私たちは死んだ後、ただ霊として存在するのではなく、新しい体を与えられる希望を持っています。
しかし、その日が来るまで、私たちはうめきます。この地上の体を持っている間、私たちは苦しみながら、新しい体を切望します。なぜなら、その新しい体を受けると、私たちの弱さと苦しみが完全になくなるからです。
では、苦しみの中でどのようにして希望を持ち続けることができるでしょうか。それは、神様がその新しい体を約束してくださったからです。
パウロはこう語りました。
そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。(5)
簡単に言えば、神様は最初から、私たちにキリストにある新しい命を与えることを計画されていました。そして、その約束を保証するために、神様は私たちに御霊を与えてくださいました。
毎日、御霊は私たちに語りかけます。「あなたは神の子供です。」
また、御霊は日々、私たちをイエス様の姿へと変えてくださいます。私たちは、御霊の働きを見て、その声を聞くことで希望を持ち続けるのです。
それゆえ、パウロはこう語りました。
ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。(6-7)
私たちは今、イエス様から離れているように感じますが、それはほんの短い間です。やがて、私たちはイエス様の御顔を仰ぎ見ることになります。
だから、その希望を心に留めながら、毎日信仰によって歩みましょう。
信仰によって歩むならば、私たちの日常生活は根本から変わります。
そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。
私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(9-10)
やがて私たちはイエス様の御顔を仰ぎ見て、その時、裁きを受けることになります。そして、その日が来ることを知っているからこそ、私たちはどのようにイエス様を喜ばせるかを思い巡らします。
私たちの目的は、自分自身を喜ばせることではなく、イエス様を喜ばせることです。
だから、たとえ試練と苦しみの中でうめいていても、希望を忘れずにいましょう。
やがて、私たちは主とともに歩み、すべてのものが新しくされます。だからこそ、毎日イエス様をどのように喜ばせるかを考えましょう。そうすれば、裁きの日に恥じ入ることはないでしょう。
あなたはどのように生きていますか。目の前の一時的なことだけに焦点を当てていますか。それとも、永遠のことを思い巡らしていますか。
