「どうして、私にこんなことが起こるのだろう?」
そう考えたことがあるでしょうか。詩篇44篇の詩人も同じように感じました。
この詩篇の背景はよくわかりませんが、おそらくその時代、イスラエル人は神様に仕えようとしていたけれど、敵に敗れました。
だから、彼らは言いました。
「私たちの先祖が、カナンに初めて来た時の話を聞きました。その時、あなたは私たちと共におられました。あなたが私たちを愛したので、私たちは自分の力ではなく、あなたの力によってたくさんの国々を追い出しました。
あなたは私たちの王です。私たちの先祖のように、私たちは勝利のために自分自身の力に頼らずに、あなたに信頼しました。私たちはあなたを誇ります。あなたをほめたたえます。」
それでは、どうして、あなたは私たちと共におられないのでしょうか。私たちが戦う時、倒れてしまいます。周りの国々は私たちをからかうので、私たちは恥ずかしくなりました。
もし、私たちがあなたに背を向け、偶像礼拝をしていたなら、今の苦しみも理解できます。けれども、そうしていないのです。どうして、あなたは私たちを捨てたのでしょうか。
どうして、あなたの顔をお隠しになっているのでしょうか。助けてください。」
言い換えれば、「神様、どうしてこんなことが私に起こっているのでしょうか。あなたに従おうとしているのに、どうして私の人生はめちゃくちゃになっているのでしょうか。」
この詩篇では、その答えは見つかりません。
しかし、ローマ書には希望があります。パウロはこの詩篇の22節を引用しています。
だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。(詩篇44:22)
けれども、パウロは言います。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ書8:37-39)
神様は、私たちには決してトラブルが起こらないとは約束されていません。私たちが決して苦しまないとも約束されていません。むしろ、私たちがきっと苦しむことになると宣言されました。(ヨハネ16:33、第二テモテ3:12)
しかし、何が起こっても、神様は私たちがその苦しみを乗り越えられるように助けてくださることを約束されます。そして、何も私たちを神様の愛から引き離すことはできません。
それが私たちの希望です。だから、苦しむ時は詩人のように神様に叫びましょう。そして、神様が近いと感じても感じなくても、神様があなたの叫びを聞いておられると思っても思わなくても、神様の約束に縋りつきましょう。
私たちの感情はよく変わります。神様が近いと感じる時も感じない時もあります。けれども、神様とその約束は決して変わりません。
だから、パウロの言葉を覚えておきましょう。
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)
