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申命記のデボーション

神様の目には忌むべきもの。私たちの目には忌むべきもの?

また、あなたがたは、彼らのところにあった忌むべきもの、すなわち木や石や銀や金の偶像を見た。(申命記29:17)

日本では、偶像や仏壇を見ることに慣れるのは簡単なことです。

しかし、上記の言葉を読んだときに、神様がそのようなものに決して慣れることはなさらないと改めて思い出しました。

モーセの時代でも、私たちの時代でも、神様の目には、それらの偶像や仏壇は忌むべきものです。

そのとき、ふと、神様が忌み嫌うものにはほかに何があるのだろうと考えました。そして、私はそれらにも慣れてしまっているのではないかと自問しました。

最初に思い浮かんだのは、アマゾンプライムのビデオのことです。

もちろん、すべてのビデオが悪いわけではありません。けれども、確かに、10~20年前であれば「それは忌むべきものだ」と感じていたようなビデオもあります。

ところが、今では「この世はそういうものだろう」という態度を取るのは簡単なことです。

しかし、神様の態度は決して変わりません。神様にとって、それらは今もなお忌むべきものなのです。

だからこそ、私たちも同じように考えるべきです。

そこで、私は次のように祈りました。

天のお父さん、どうか私があなたが忌み嫌うものに慣れることがありませんように。私があなたのように考える者となれますように。

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ヨハネの黙示録

主の訪れに備えず、不意を突かれるとき

サルディスには、突き通せない都市という評判がありました。しかし、この都市は二度も陥落したのです。なぜでしょうか。それは、見張りの者が眠っていたからです。

そのような歴史を踏まえて、イエス様はサルディスの教会の目を覚まさせようとされました。イエス様は、こう語られました。

また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。

だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。(黙示録3:1-3)

イエス様は何を言いたかったのでしょうか。

かつての都市と同じように、サルディスの教会も丈夫で、元気で、生きているように見えました。けれども、実のところその教会は、死んだものでした。なぜなら、イエス様が彼らを裁くために来られたのに、彼らはその備えをしていなかったからです。

では、どのように備えができていなかったのでしょうか。イエス様は彼らに、こう語られました。「あなたの行いが、わたしの神の御前に完了したとは見ていない。」

それは何を意味するのでしょうか。私にもすぐにはわかりませんが、おそらく彼らには二つの問題があったのではないかと思います。一つ目は、彼らが聖なる人生を送っていなかったことです。操を守ることをやめ、自ら進んで罪に手を染めていたのです。

そこでイエス様は、「寝ているサルディスのクリスチャンたち」と「衣を汚さなかった者たち」を比較しておられます。(4)

しかし、イエス様はもう一つのことを意味しておられたのでしょう。

かつて、この教会は多くの良い働きを行い、周囲の人々に愛を届けていました。けれども、彼らはそれをやめ、自己中心になってしまったのです。周囲の人々への配慮を失い、ただ自分の実績だけを見て、誇りに満ちていました。

そのため、彼らは霊的に死にかけていたのです。自分の聖さや使命に関して、彼らの行いはまだ神の前に完成していませんでした。

それゆえに、イエス様は彼らに訓戒を与えられました。「原点に帰りなさい。最も大切なことを思い起こしなさい。自己中心的な態度を悔い改めなさい。自分の罪から離れなさい。そうしないなら、私は来て、あなたたちを裁くことになる。」

この言葉は、マタイの福音書第24〜25章のたとえ話に通じています。

多くの場合、私たちはそのたとえ話や、サルディスの教会に対する言葉を読んで、自分自身の人生を省みます。私たちは、個々のクリスチャンとして、主の帰還の日に向けて備えているかどうかを考えるのです。

もちろん、イエス様は一人ひとりのクリスチャンにも語っておられます。特に第4〜5節では、忠実なクリスチャンたちに向けて語っておられます。

けれども、覚えておきましょう。この手紙は、教会全体に向けて書かれているのです。

サルディスの教会と同じように、多くの教会は「生きている」という評判があります。ところが、実際には霊的に死んでいるのです。カリスマ性のある牧師がいて、賛美や礼拝の雰囲気は明るく盛り上がっています。

けれども、悔い改めていない罪のために、教会の内部は腐敗しています。信仰を公に宣言してはいても、その行動はその宣言と一致していないのです。

他の教会は、自分たちの実績を誇るだけです。かつては周囲の人々に、イエス様の愛を届けていました。けれども今では、その実績を祝って互いに褒め合い、自己満足に浸っているのです。まるで社交クラブのようになり、ただ交わりの時間を楽しむばかりです。

けれども彼らが忘れているのは、彼らの働きがまだ終わっていないということです。イエス様がこの世に戻られるその日まで、その働きは完成しないのです。

私たちはこの真理を心に刻まなければなりません。イエス様は必ず戻ってこられます。その日、イエス様が教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

周囲の世界に触れている教会をご覧になるでしょうか。命にあふれた教会をご覧になるでしょうか。それとも、自己中心的な教会をご覧になるでしょうか。罪に汚れた教会をご覧になるでしょうか。

イエス様が、あなたの教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(6)

今日の箇所では、ヤコブは「舌」についての話から一旦離れ、真の信仰がどのように表現されるかについての三つ目の方法を語ります。それは、清さです。

ヤコブは先に、本当の宗教に欠かせないものの一つとして、この世の汚れに染まらないよう注意することを挙げました。

そして今日の箇所では、その意味を具体的に説明しています。

この手紙の読み手の中には、教師になりたいと願う人が多かったようです。けれども、ヤコブは彼らに警告しました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

そして、ヤコブは彼らに言いました。「あなたたちは教師になるのに十分な知恵と分別を持っていると思うでしょうか。

自分の心を探りなさい。あなたたちの多くは、苦々しい妬みや利己的な思いを抱いています。その『知恵』は神様からのものではなく、サタンからのものです。そして、その『知恵』はあらゆる邪悪な行いへと至ります。」(13-16)

その後、ヤコブは彼らの問題の根本を指摘します。それは、彼らがこの世の汚れに染まってしまっているということです。

ヤコブは彼らにこう言います。

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(1-3)

言い換えると、「自分自身を振り返りなさい。あなたたちはこの世に執着し、自分より多くのものを持っている人を憎み、ねたんでいます。そのため、いつも彼らと争っています。

この世に対する愛は、彼らとの関係に影響を与えるだけでなく、あなたの神様との関係にも影響を及ぼしています。あなたが祈る理由は、ただ神様から多くのものを求めることだけです。けれども、神様はそのような自己中心的な祈りには答えません。」

そして、ヤコブは彼らを厳しく戒めます。

節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。

世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。(4)

翻訳者たちはヤコブの言葉を控えめに訳しました。けれども、ヤコブは旧約聖書の預言者たちのように、読者を売春婦になぞらえています。(エゼキエル書16章やホセア書がその例です。)

私たちがこの世を愛すると、神様の妬みをかき立ててしまいます。(5)

一般的に、私たちは妬みを悪いことだと考えます。けれども、正しい妬みもあります。夫や妻が伴侶の不倫を知ったときに感じる妬みは、その関係に対する深い愛と絆から生じるものです。

同じように、私たちは神様に属しています。そのため、もし私たちが神様に背を向け、この世のものを追い求めるならば、神様は妬みを抱かれるのです。

しかし、私たちが神様のもとへ戻るならば、神様はいつも恵みを与えてくださいます。(6)

だから、ヤコブはこう言います。

ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。(7-9)

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。あなたの信仰は二心のものではないでしょうか。あなたは神様を信じると主張しながらも、売春婦のようにこの世のものを追い求めてはいないでしょうか。

私たちは神様の聖なる祭司として召されました。祭司たちは神様に近づく前に自らの手を清めました。それと同じように、私たちも霊的な手の汚れを洗い、心を清めなければなりません。私たちはこの世に対する愛を捨て、悔い改めなければならないのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心はこの世の汚れに染まってしまっているでしょうか。それとも、あなたの心は神様だけに属しているでしょうか。

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雅歌

自分の操を守る事

私たちの世界では、清い人を見つけるのは難しいです。どれくらい夫と妻が結婚するまで、自分の純潔を守っているでしょうか。

私たちの文化は、私たちの清さに反対しているようです。テレビドラマや映画は、よく結婚前のセックスや不倫を描写します。また、インターネットによって、ポルノを見ることがより簡単になりました。

だから、多くの人々は、結婚する前にカップルが一緒に寝るのが当たり前だと思います。また、彼らは結婚する前に一緒に住むことも当たり前だと思います。けれども、神様がセックスを造られた時、それは神様の意図ではありませんでした。

神様はセックスを良いものであり、喜びをもたらすものとして造られましたが、それは既婚者だけのために設けられたものです。結婚の中で、セックスは美しいものです。セックスを通して、カップルは身体的に、感情的に、霊的に結ばれます。

その一方、結婚の外でのセックスは、しばしば心の痛みをもたらします。

この箇所では、私たちは本当に恋人に対する情熱を持っている女性を見ることができます。しかし、彼女は清さの重要性をよく理解していました。

彼らは結婚式の後に、一緒に寝て、抱きしめ合います。(雅歌2:3-7)

彼女は夫をリンゴの木に例えます。そして、私たちは彼女がその愛の関係について安心していることを見ることができます。

彼女は彼に抱かれることを、暑い日に木の下に座ってその「実」を食べるようなものだと言います。そして、彼女は彼の実をもっと食べたいと願います。

干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。(2:5)

けれども、彼女はエルサレムのシングルの女性たちに、そして私たちにも警告します。

エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。(2:7)

つまり、愛とセックスは力強いものです。だから、まだ準備ができていない間に、そのパッションを起こすのは危険です。準備というのはどういう意味でしょうか。

それは、あなたが感情的に、また精神的に準備ができていることです。つまり、一生の関係にコミットできること、そしてそのコミットメントの意味を本当に理解していることです。

コミットメントは単なる一瞬の感情ではありません。コミットメントはその一瞬を超えてずっと続くものです。

多くの人々はそれを理解していないため、最終的に離婚してしまいます。また、一緒に寝ている人々は、しばしば結婚する前に別れてしまい、心の痛みを知ります。

この女性は、自分の結婚活動を思い出します。彼女の恋人は現れて、彼女を「デート」に誘いました。彼の言葉から、彼女への愛とパッションがよくわかります。(2:10-14)

けれども、彼もその関係を壊す罠をよく見ていました。彼はこう言いました。

『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(2:15)

この場合、ぶどう畑は彼らの愛の関係を表しています。いろんな「キツネ」は私たちの関係を荒らすことができます。例えば、キスしたり、一緒に寝たりすることを急ぎ過ぎることです。

だから、その強いパッションの中で、彼女は彼に言います。

私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。(2:17)

要するに、「一緒に寝る時間はまだ来ていない。帰ってきてね。また明日。」

それでも、彼女は自分の夢で彼を探しに行って、見つけると喜びました。(3:1-4)

しかし、彼女はもう一度私たちに警告します。

エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。(3:5)

セックスは美しいものとして造られました。神様が計画された通りに、私たちがセックスを楽しむならば、セックスには夫婦関係を強める力があります。

けれども、神様の計画に従わないなら、セックスは滅ぼす力もあります。あなたの関係を壊し、あなたを苦しませることになります。

あなたはどうですか?自分の純潔を守っているでしょうか。