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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの足が洗われること

この話から、私はもう一つの重要なポイントをお伝えしたいと思います。

イエス様がペテロの足を洗おうとされたとき、ペテロはこう言いました。

決して私の足を洗わないでください。(ヨハネの福音書13:8a)

イエス様がこのように答えられました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(8b)

そして、いつものように、ペテロは言い過ぎてしまいました。

主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。(9)

けれども、イエス様はこう答えられました。

水浴した者は、足以外は、洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたががたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。(10)

イエス様の言葉の意味は何だったのでしょうか。

「ペテロ、あなたは私を信じたので、すでにきよめられています。しかし、日々の歩みの中で、あなたの『足』は罪によって汚れます。だから、私はそれを清める必要があるのです。」

イエス様は、私たちにも同じことを語られます。

私たちがイエス様の前に来て、イエス様とその十字架の働きを信じると、イエス様は私たちの過去のすべての罪をきよめてくださいます。

それでも、日々の生活の中で私たちの心は罪によって汚れます。私たちの罪が神様や周りの人々を傷つけ、私たち自身も苦しみます。けれども、それによって救いが失われるわけではありません。私たちは今も神の子供です。

とは言え、毎日イエス様の前に来て、「私を赦してください。私の心を清めてください。」と祈らなければなりません。それは過去の罪のためではなく、今日の罪のためなのです。

ヨハネはこう書きました。

もし私たちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

正直に言うと、私の足を洗っていただくために、私はもっとイエス様の前に行かなければなりません。

毎日罪を犯しても、私は深く反省せず、告白もしません。そのため、その罪が私と神様の間に壁を作ってしまいます。

だからこそ、私たちは日々イエス様の前に来て、罪を告白しましょう。イエス様の赦しを願いましょう。そうすれば、イエス様は真実な方なので、私たちをきよめてくださいます。

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マタイの福音書 マタイ23章

内側を清める?

この箇所では、イエス様はパリサイ人たちや律法学者たちを厳しく責め続けられます。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。

目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。

同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。(マタイの福音書23:25-28)

それは非常に厳しい批判ですね。多くのユダヤ人たちはパリサイ人たちと律法学者たちを正しい人と見なしていました。しかし、イエス様は彼らの心の汚れを暴露されました。彼らの強欲、放縦、そして偽善をすべて暴露されたのです。

イエス様は彼らを白く塗った墓と呼ばれました。彼らの外側はきれいでしたが、内側には腐っている骨がありました。

では、あなたの場合はどうでしょうか。イエス様があなたの心をご覧になるなら、何と言われるでしょうか。あなたを白く塗った墓と呼ばれるでしょうか。それとも、外側がきれいで内側が汚れている杯と呼ばれるでしょうか。

仮面をかぶるのはとても簡単なことです。実は、ギリシャ語で「偽善者」という言葉の本来の意味は「役者」でした。

けれども、神様はあなたの外側だけでなく、あなたの心もご覧になります。その時、神様は何をご覧になるでしょうか。

また、あなたが自分の心を見るとき、何をご覧になるでしょうか。神様が見苦しいと見なすものが見えるでしょうか。あなたは周りの人々の罪は見えますが、自分の罪が見えていないでしょうか。

神様からどれほどの憐れみを受けているかを理解しているなら、周りの人々の罪を見るときに、彼らに同情を感じるはずです。そうなのに、あなたは彼らを責めて「私は一切そんなことをしない」と思うでしょうか。

あなたの心の中には何が入っているでしょうか。あなたの杯から何を清めなくてはならないでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ8章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ5章

私たちを清める方

この箇所を読むと、イエス様の慈悲深さに私は感動します。ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに来て、こう願い求めました。

主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。(マタイ8:2)

その時代、ツァラアトに冒された人々は社会から完全に疎外されていました。彼らは自分の家を出て、他の人々から距離を置かなければなりませんでした。

もし誰かが近づいてきた場合、その人は「私は不潔です。近づいてはならない」と叫ばなければならなかったのです。

彼らの人生は、本当に孤独で惨めでした。交わることができる相手は、他のツァラアトに冒された人々だけでした。

しかし、この男性はイエス様のことを聞いたとき、再び希望を感じました。彼はイエス様に近づいて、癒しを願い求めました。

おそらくイエス様は、彼が期待した以上のことを行われました。イエス様は遠くから癒すのではなく、直接彼に触れて癒されたのです。

ユダヤ人の律法によれば、ツァラアトに冒された人に触れると、触れた者も一時的に「不潔」とされました。それに加えて、その病気に感染する可能性もありました。

この男性にとって、数年ぶりに誰かが自分に触れた瞬間だったかもしれません。それは彼にとって、驚きと深い感動をもたらしたことでしょう。

私はその感覚を少し理解することができます。日本人は、アメリカ人ほどハグをしません。私は日本に住んで20年以上経つので、友達にハグされると、今でも少し驚いてしまいます。

そのように、人々はツァラアトに冒された人に触れるのを恐れました。不潔になることを避けたかったからです。

けれども、イエス様がその人に触れたとき、イエス様ご自身は不潔とはならず、むしろ相手を清められました。

同じように、イエス様が私たちを見るとき、私たちの罪によって不潔な状態を見ておられることでしょう。私たちは罪の泥から抜け出すことができず、自己救済も不可能でした。

だからこそ、ツァラアトに冒された人のように、「主よ、お心一つで私をきよくしてください」と願うしかありません。

その願いに応えて、イエス様は手を差し伸べてくださり、私たちに触れ、癒してくださいます。

イエス様がその人の病を癒されたのであれば、私たちの魂を癒してくださらないということがあるでしょうか。

あなたは自分の罪に縛られているでしょうか。あなたは不潔な状態で、自己救済できないでしょうか。

イエス様のみ前に進んでください。イエス様の助けと赦しを心から願い求めてください。そうすれば、あなたは癒されるでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ2章

神殿に対するイエス様の熱心

この箇所では、イエス様が神殿に行かれた時、そこで牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが営業していた様子が記されています。

神殿には「異邦人の庭」という場所がありました。ユダヤ人ではない人々がそこに来て、神様を礼拝することができました。

ところが、イエス様が異邦人の庭に入られた時、その場所は非常に騒がしい状況でした。羊や牛、鳩が鳴き声をあげている上、これらの動物を売る者たちや両替人、さらにそのお客たちが話していたためです。

そのため、異邦人にとっては神様を礼拝することがほぼ不可能な状況でした。

さらに、神様を礼拝するために来た人々は不当に扱われていました。

宮の納入金を払うため、多くの人々は両替を必要としていましたが、その為替レートは非常に高く設定されていました。

それだけでなく、いけにえとして自分の動物を連れてきた人々が、ふさわしい動物であるにもかかわらず、検査を担当する者たちに「その動物は不適切だ」と言われてしまいました。

その結果、彼らは神殿で売られている動物を非常に高い価格で購入せざるを得ませんでした。

このような不正が行われていたため、イエス様は大いに怒られました。この状況を見て、イエス様はどう行動されたのでしょうか。

[イエスは]細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネの福音書2:15-16)

ユダヤ人のリーダーたちは、この出来事を目にして、イエス様に問いかけました。

あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。(18)

イエス様はこう答えられました。

この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(19)

ユダヤ人たちは、イエス様がヘロデによって建てられた神殿について話していると思いました。その時点で、すでに46年が経過していましたが、この神殿が完成したのは西暦63年でした。

しかし、イエス様が話していたのは、その神殿ではありませんでした。ヨハネによれば、イエス様はご自身の体について語っていたのです。

つまり、ユダヤ人のリーダーたちがイエス様を十字架につけて殺しても、三日目にイエス様はよみがえられるということです。

ところで、イエス様が幽霊としてよみがえったと考える人もいます。(例えば、エホバの証人はそのように信じています。)けれども、この箇所によれば、イエス様は明確にこう言われました。「私の体はよみがえります。」

イエス様がご自身の体を神殿と呼ばれたように、パウロは私たちの体を「聖霊の神殿」と呼びます。(第一コリント6:19)

さらに、イエス様はエルサレムの神殿に対して情熱を持っておられたように、私たち一人ひとりに対しても情熱を持っておられます。

イエス様はエルサレムの神殿を神様を礼拝するための場所として清めたいと望まれました。同じように、イエス様は私たちの体を神様のために聖別したいと望んでおられます。

けれども、私たちはしばしばその神殿を、罪やその他のものによって汚してしまいます。

数年前、私はコンピュータのトラブルに直面しました。ファイル自体は無事でしたが、Windowsに問題が発生していました。再インストールを試み続けましたが、最終的には成功しませんでした。

そこで、ファイルをバックアップした後、ハードディスクをフォーマットしました。(つまり、そのハードディスクに保存されていたソフトウェアやファイルをすべて消去しました。)

その後、再び再インストールを行うことができましたが、それは非常に大変な作業でした。

このハードディスクには、多くの役立つファイルが保存されていました。また、悪くないソフトウェアもたくさんありました。しかし、破損したファイルのせいで、コンピュータが正常に動作しなくなっていたのです。

あなた自身はどうでしょうか。私のコンピュータのように、あなたの心に悪いものが存在していませんか。どのような罪が潜んでいるでしょうか。羊や牛の騒がしさが異邦人の礼拝を妨げたように、あなたの罪が周りの人々に神様を見えにくくしているでしょうか。

また、悪いものではなくても、神様を礼拝する妨げとなるものが存在していませんか。例えば、趣味自体は悪くないものですが、その趣味のせいで聖書を読む時間や祈る時間が減ってしまってはいませんか。

イエス様は清い神殿を望まれます。ですから、イエス様はあなたの心を清めたいと願っておられます。

あなたの心には何があるのでしょうか。

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ゼカリヤ書

清められた

この箇所では、ゼカリヤはユダヤ人の悔い改めについてさらに詳しく話します。つまり、最後の日、神様の恵みによって、そして、イスラエル人が約2000年前に十字架に付けられたイエス様の血によって、彼らの罪は清められます。

その日、すべての偶像と偽の預言者たちはイスラエルから取り除かれます。こうして、イスラエルは神様のために本当に聖い国となります。

しかし、その前に、良い牧者は打ち殺されなければならず、その羊は散らされなければなりませんでした。

だから、イエス様は敵に捕らえられた時、彼の弟子たちは逃げ去りました。イエス様はあざけられ、鞭で打たれ、兵士たちの手で殴られ、そして十字架で殺されました。

ユダヤ人は自分の救い主を拒絶したため、神様は彼らを罰し、その国は滅ぼされました。

それでも、神様はご自分の恵みを彼らの上に注がれます。多くのユダヤ人が命を落としても、救い主イエス様に従うユダヤ人は残ります。神様は彼らについてこう言われます。

わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。

彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。(ゼカリヤ書13:9)

神様は私たちが試練を経験しないと約束されたわけではありません。実は、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

しかし、その試練を通して、神様は私たちを練り、清めてくださいます。そして、私たちが神様を呼ぶ時、神様は応えてくださいます。

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ゼカリヤ書

全ての悪を清める

この箇所では、ゼカリヤは再び幻を見ました。その幻は、イスラエルの罪が清められることを示しています。

最初の幻の中で、ゼカリヤは空を飛んでいる巻き物を見ました。その巻き物の両面には呪いが書かれていました。

一つ目の呪いは盗む者に対するものでした。

二つ目の呪いは偽って誓う者に対するものでした。

この巻き物は、十戒のうちの二つの命令を象徴していますが、おそらくその二つの命令は十戒全体を表しているのです。ヤコブはこう言いました。

律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコブ2:10)

おそらく、イスラエル人はその二つの罪において、特に罪深い人々だったのかもしれません。もしくは、その二つの罪にはもっと広い意味があったのでしょう。

つまり、彼らは隣人を傷つける(盗むこと)、そして神様の聖さを侮る(神様の名前によって偽って誓うこと)という行為をしたのです。

この幻については、二つのことに注目する必要があります。

一つ目は、その巻物の大きさです。その巻物は非常に大きく(長さは約9メートル、幅は約4.5メートル)、誰も「裁きが来ていることを知らなかった」と言い逃れることはできませんでした。

誰でもその巻物を読むことができたのです。

二つ目は、その裁きが確実なものであるということです。神様はこう言われました。

わたしが、それ(つまり、呪い)を出て行かせる。――万軍の主の御告げ――それは、盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。(ゼカリヤ書5:4)

そして、ゼカリヤは別の幻を見ました。それは、穀物のための枡でした。

しかし、その枡の中には穀物ではなく、イスラエル人の罪がありました。そして、その枡の中には女の人が座っており、その女の人は罪の原因を象徴していました。

なぜ女の人なのでしょうか。一つの考えとして、イスラエル人が周囲の国々の女神を礼拝していたことが挙げられます。または、イスラエルの男性たちが偶像礼拝する女性と結婚していた可能性もあります。(マラキ2:11-12、エズラ9章)

いずれにしても、天使はその女の人を枡の中に閉じ込めました。そして、二人の女性がその枡をシヌアル(バビロン)に運びました。これは、バビロン人がその女の人を喜んで受け入れるからです。

私たちはこの幻から何を学べるでしょうか。一つ目は、神様が悪に対処する日が必ず来るということです。サタンは可能な限り神様と戦おうとしますが、最終的には打ち負かされます。

二つ目は、私たちは自分の中にある罪を清める必要があるということです。

神様は、罪に対するご自身の感情をはっきりと示されました。そして、神様は裁きが来ることを明確に警告されました。私たちは「知らなかった」と言い訳することはできません。

だから、パウロはこう言いました。

いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(第二コリント7:1)

もちろんバランスが必要です。つまり、自分自身の努力だけで自分を清めることは不可能です。しかし、神様は私たちが聖なる人生を生きるために必要な力を与えてくださいます。(第二ペテロ1:3-4)

そして、神様がイスラエルから悪を取り除かれたように、私たちが神様に従うなら、神様は私たちの人生から罪を取り除いてくださいます。

だからパウロはこう書きました。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。

主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(第一テサロニケ5:23-24)

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列王記第二 歴代誌第二

私たちの宮を清める

ヨアシュ王は、祭司エホヤダの訓練と影響を受けて、王として順調なスタートを切りました。

王となると、ヨアシュはすぐに宮の修復をしたいと考えました。

アハズヤがユダの王であった時、その母アタルヤの影響を受けていたのか、アハズヤとその兄弟たちは宮を打ち壊し、宮の聖なる品々をすべてバアルの礼拝に使用しました。(歴代誌第二24章7節)

その結果、宮は次第に荒廃していきました。そこで、ヨアシュは祭司たちに命じて、人々から資金を集め、宮の修理を行うように指示しました。

なぜ、あなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの集団の、あかしの天幕のための税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。(歴代誌第二24:6)

こうして、彼らはようやく修理に取りかかりました。

彼らは宮を修理しただけでなく、アハズヤが盗んだ物の代わりに新しい器具も作りました。

この箇所を見ると、私はこう考えます。「私たちは主の宮を十分に注意しているだろうか。」

もちろん、ここで私が話しているのは建物のことではありません。私たち自身の体について話しています。

なぜなら、パウロがこう言ったからです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(第一コリント6:19)

罪によって私たちの宮はどのような霊的な損害を受けているのでしょうか。

私たちはその罪をそのまま残しているのでしょうか。

それとも、聖なる器となるために、その罪を清めているのでしょうか。

時々、この話の祭司たちのように、私たちは神様に仕えることに忙しくなってしまいます。

しかし、私たちが忘れてはならないのは、神様が最も関心を持っておられるのは、私たち自身のことだということです。

私たちが神様のために何かを成すこと以上に、神様は私たち自身を気にかけておられます。

神様は、宮が清められ、修復され、聖なるものとなることを望んでおられます。

私は「神様に仕えるには、完全に清められなければならない」と言っているのではありません。

けれども、「神の仕事」をしているからといって、自分自身の宮を顧みる時間がない、という態度をとってはいけません。

神様の最初の仕事はあなた自身です。

神様がまずあなたの中で働き、その後で、神様がどのようにしてあなたを用いるかを考え始められるのです。