私たちは電子レンジのような社会に生きています。今すぐに欲しいものを受け取りたいと願い、それがかなわないと、不平を言い始めてしまいます。
けれども、私たちはそのような態度を取るべきでしょうか。
パウロは決してそのような態度を取りませんでした。ピリピ人たちの気前のよさに感謝を表すとき、彼はこう語りました。
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。
満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙4:11-13)
「ありとあらゆる境遇に秘訣を心得ています。」
では、パウロはどのような秘訣を学んだのでしょうか。実のところ、彼はその中身を具体的には述べていません。2017年版の新改訳では、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と記されています。
一方、第3版では、こう訳されています。「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」
実際、多くの英語訳聖書でも、パウロの言葉はそのように訳されています。
「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」
私たちも、そう言えるでしょうか。
パウロは乏しいときにも、満ち足りていました。富んでいるときにも、満ち足りていました。
乏しいときに満ち足りることを学ぶべきだということは、比較的理解しやすいかもしれません。でも、なぜ富んでいるときにも、満ち足りることを学ばなければならないのでしょうか。
もしかすると、あなたは必要なもの以上にすでに持っているかもしれません。それでも、まだ欲しいものがあって、不平を口にすることはないでしょうか。
なぜ私たちはそのようにしてしまうのでしょうか。たとえ多くのものを持っていても、なぜ満ち足りることはそんなにも難しいのでしょうか。
おそらく、それは私たちが非常に自己中心だからです。多くのクリスチャンもまた、なお自己中心にとらわれています。
彼らは自分の必要や欲望についてよく考えます。しかし、そうしたものにばかり心を向けるあまり、本当に満ち足りることができるお方のことを忘れてしまうのです──それは、イエス様です。
イエス様との関係こそが、真の満ち足りる秘訣です。すなわち、私たちはイエス様を知り、また、イエス様の復活の力を知ることなのです。
たとえさまざまな試練や苦しみを経験していても、私たちは日ごとに鏡をのぞく中で、自分のうちにイエス様の姿がだんだん映されているのを見ることができます。そしてまた日々、神様がなぜ私たちを選んでくださったのか、その理由が少しずつ分かるようになるのです。
パウロはそのすべてを完全に経験したわけではありませんが、おそらく多くの人々よりも深くそれをつかんでいたのでしょう。
だからこそ、試練の中にあっても、彼の喜びは奪われませんでした。物が乏しいときにも、イエス様にあって喜び、豊かなときにも、イエス様にあって喜んでいたのです。
日本では、「我慢」という言葉がよく語られます。苦しいときに耐え忍ぶことを、美徳として誇る傾向があります。しかし、私たちはしばしば自分の力に頼ってしまうために、結局のところ、もう耐えられないという限界に達してしまうのです。
けれども、パウロはただ「我慢」していたのではありません。彼はイエス様との関係を喜んでいました。だからこそ、どのような試練にあっても、パウロはそれを乗り越える力を持っていたのです。
あなたは、どうでしょうか。あなたの心には、満ち足りる思いがあるでしょうか。イエス様は、あなたの人生の中心におられるでしょうか。あるいは、満足を求めて、世のものばかりを追いかけてはいないでしょうか。
世のものは、あなたを本当には満たすことができません。イエス様との関係だけが、あなたの心に真の満足を与えるのです。
あなたの人生の中心は、いったい何でしょうか。
