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ルカの福音書 ルカ16章

永遠のために準備しないと

この箇所で、イエス様は地獄について語られます。その描写は非常に生々しいものです。なぜなら、イエス様はある人物の経験を詳細に描写されているからです。

ある学者たちは、イエス様が実在の人物について話していると考えています。なぜなら、この話の中で、イエス様は登場人物の名前を明かされているからです。

私は、この出来事が本当に起こったかどうかは分かりません。とはいえ、この話を通して、イエス様は私たちに対し、永遠のために備えるべきだと明確に警告されています。

だからこそ、16章では、最初の話(ずる賢い管理人)と最後の話が深く結びついているのです。

この話では、イエス様は贅沢に暮らしていた金持ちについて語られます。彼はあらゆる欲求を満たし、必要なものをすべて持っていたため、自分の未来を気にすることはありませんでした。

さらに、彼は周囲の人々のことを気にも留めていませんでした。

彼は毎日、ラザロという乞食の前を通り過ぎていました。ラザロについて詳しくは分かりませんが、もしかすると彼は身体が不自由であり、物乞いをする以外に生きる術がなかったのかもしれません。

ラザロは、金持ちの食卓から落ちる物を食べたいと願いましたが、金持ちは彼に全く気づきませんでした。

こうして、彼らは何年もの間、このような生活を送りました。

けれども、彼らが死ぬと、ラザロはアブラハムのふところへと導かれ、慰めを受けました。一方、金持ちはハデス(地獄のような場所)で苦しみました。そして、彼が助けと憐れみを求めると、アブラハムはこう答えました。

子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。

しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(ルカの福音書16:25)

アブラハムの言葉の意味は何でしょうか。

この金持ちは、ずっとこの世の人生を楽しんでいました。彼は富を蓄え、快楽を求め、気ままに暮らしていました。しかし、彼は永遠のための準備をまったくしていませんでした。

一方、ラザロはこの世に何も所有していませんでした。彼の生涯は本当に苦しみに満ちていました。それでも、彼は永遠のために備えていました。

そのため、二人が死んだとき、ラザロは慰められましたが、金持ちは苦しみました。

金持ちの問題は、お金そのものではありませんでした。彼の問題は、未来に備えなかったことです。イエス様の教えに従わず、彼が自分の財産を正しく用いなかったため、永遠の住まいで彼を迎える人が誰もいませんでした。(16:9)

この金持ちの生き方に倣うことがないようにしましょう。私たちの命は非常に短いものです。そのことを覚え、永遠のために準備しましょう。そうしなければ、金持ちのように永遠に苦しむことになります。

あなたはどうでしょうか。永遠のために備えていますか。

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ルカの福音書 ルカ12章

イエス様の再臨に向けて準備できている?

イエス様は、偽善や貪欲、この世のものを慕うことに関して警告された後、もう一つの重要なことについて弟子たちに訓戒を与えられました。それは、イエス様の再臨に備えて、彼らがしっかりと準備をしておく必要があるということです。

そして、イエス様はこう言われました。

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。(ルカの福音書12:35-37)

つまり、イエス様の再臨が訪れても、私たちは驚くべきではありません。私たちは常にイエス様を待ち望んでいるはずです。そのため、イエス様が来られたとき、私たちはすぐにその声に応えるべきです。

とはいえ、私は準備ができていないことが多いと認めなければなりません。なぜなら、ときにこの世のものに心を奪われてしまうことがあるからです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告を与えられるのです。

ところが、もし、そのしもべが、「主人の帰りはまだだ」と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。

そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。(45-46)

私たちは「イエス様はいつでも戻られるかもしれない」とよく言いますが、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちは「イエス様は今日戻られない」と明言することはないかもしれません。けれども、私たちがどれほどイエス様が決して再臨されないかのように生きているでしょうか。

だから、私たちは兄弟姉妹を傷つけたり、悪口を言ったりするのでしょうか。または、この世のものに心を奪われ、のめりこんでしまうのでしょうか。そのように生きるなら、私たちは裁かれるのです。

そして、イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(47-48)

要するに、あなたが知識を持てば持つほど、その責任も大きくなります。

とはいえ、「私は知らなかった」と言ったとしても、それは言い訳にはなりません。あなたは知るべきだったのです。神様の御心を積極的に求めるべきでした。そうしなければ、あなたは罰せられるのです。

これは非常に厳しい警告ですが、イエス様は希望に満ちた言葉も語られました。

では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。(42-44)

もし私たちが忠実に神様に仕えるなら、イエス様の再臨の際に報いを受けることができます。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたにさまざまな責任を委ねられましたが、その務めを誠実に果たしているでしょうか。あなたは忠実に仕えているでしょうか。

イエス様の再臨に向けて準備できているでしょうか。

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マルコの福音書 マルコ4章

イエスのたとえ話:御国の種

このたとえ話には、前回のたとえ話と大体同じ意味があると思います。前にも言いましたが、私たちは神様の言葉を人々の心に蒔くかもしれませんが、その種を成長させることができるのは神様だけです。

例えば、私たちが福音を伝えるとき、相手は無関心かもしれません。または、彼らが本当に怒るかもしれません。それでも、私たちが意識しなくても、その種は根を張っているかもしれません。

私たちの力がなくても、神様は聖霊様を通して、相手の心の中で働き始めます。神様は状況や他の人々を用いて、その人を近づけてくださいます。

そして、いつの間にか、その人はあなたのところに来て、微笑みながらこう言うのです。「イエス様のことを教えてくださって、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、私はクリスチャンになりました。」

しかし、このたとえ話はまた別の解釈もできると思います。

時々、私たちはこの世を見てフラストレーションを感じます。「神様の国は本当に来るのだろうか。そうは見えないなあ。この世界はだんだん悪くなっているようだから。」

でも、このたとえ話では、私たちはいくつかのことを学ぶことができます。

イエス様とその弟子たちを通して、神の国の種はすでに蒔かれました。今でも、人々の心にたくさんの種が蒔かれています。そして、その種は成長し続けています。

とはいえ、多くの場合、私たちはその成長に気づきません。けれども、振り返ると、その福音の種がどれほど成長したかに気づくことができるのです。

イエス様が天に戻られて以来、福音がどれだけ広まったか考えてみてください。一つの都市から始まり、世界中に広まりました。今でも、その福音は広がり続けています。

そして、神様の国が打ち勝つことは確かなものです。誰もその成長を止めることができません。ソ連もそれを学びました。福音を滅ぼそうとした他の国々も、それを学びました。

だから、最終的に神様の国が来て、すべての人々がその国を見ることになります。その日、イエス様はすべてを治められます。そして裁きの日に、イエス様に従う人々は報いを受け、自分の道を選んだ人々は滅びるのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。

1.希望を持って待つこと。 周りの悪を見て、失望するのは簡単なことです。でも、勇気を持ってください。神様の国は確かに来ています。そして今も成長を続けており、誰もその成長を止めることはできません。

だから、たとえフラストレーションを感じたり苦しみを経験したりしても、待ち望み続けてください。この邪悪な世界は永遠に続くことはありません。そして裁きの日には、あなたは必ず報いを受けます。

2.ちゃんと準備をすること。 いつイエス様が戻られるかわかりませんが、その日まで私たちは天の父のご用を果たさなくてはなりません。

イエス様が戻られる時期は重要ではありません。重要なのは、イエス様が戻られるその時に、私たちがちゃんと準備を整えていることです。

あなたはどうでしょうか。あなたは準備ができていますか。

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イザヤ書

神様のために私たちの心を準備する

それでは、新約聖書を始めましょう。

もしかすると、今日のタイトルを見て少し混乱したかもしれません。

「イザヤ書は新約聖書ではなく、旧約聖書だよ」と思ったかもしれません。

けれども、ある人々は、イザヤ書が聖書全体の要約であることに気づきました。

聖書には66の書がありますが、イザヤ書にも66の章があります。

そして、聖書は二つの部分に分かれています。旧約聖書(39の書)と新約聖書(27の書)です。

同じように、イザヤ書も二つの部分に分かれています。最初の部分には39章、後半の部分には27章が含まれています。

旧約聖書のように、イザヤ書の最初の部分では、人々の罪と神様からの裁きをよく見ることができます。

しかし、40章からは、メシヤの出現とその救いの働きが描かれています。そして、黙示録のように(聖書の最後の書)、イザヤ書66章では、最後の裁きと新しい地と天を見ることができます。

だから、私が言ったように、「新約聖書」を始めましょう。😊

イザヤ書の第二部の冒頭では、バプテスマのヨハネが引用した言葉を見ることができます。

荒野に呼ばわる者の声がする。

「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。(イザヤ書40:3-5)

イザヤの叫び、またバプテスマのヨハネの叫びは、現代においても適切です。

この霊的な砂漠や、神様がいらっしゃらない荒れ地のような私たちの心に、主のための道を整えなくてはなりません。私たちは自分自身の心にも、この世界にも、主のための道を備える必要があります。

では、どのようにその道を整えるでしょうか。それには、二つのことを思い出さなければなりません。

一つ目は、

すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。(6-7)

つまり、私たちの人生が一時的なものであることを思い出さなくてはなりません。この世界の物のほかに、永遠の何かが存在するのです。また、私たちが得た栄光は、最終的にはすべて消え去ります。

だからこそ、私たちの優先順位を正しく定める必要があります。つまり、私たち自身を一番にするのではなく、神様を一番にしなければなりません。

私たちの計画だけを追い求めるのではなく、まず神様とその御国を第一に求めましょう。

二つ目は、このことを思い出しましょう。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(8)

つまり、神様はいつもご自身の約束を守られます。神様の言葉は決して変わりません。だからこそ、その言葉を私たちの人生の基礎としましょう。

私たちの人生は、常に変化しています。試練は行き来し、良い時もまた、去っては戻ってきます。

しかし、神様は決して変わることがありません。

もし神様の言葉を私たちの基礎とするならば、変わりゆく風が吹いても、私たちの人生は安定します。人生の嵐が押し寄せても、堅く立ち続けることができるのです。

あなたはどうでしょうか。主の帰還に向けて準備をしているでしょうか。

イエス様が帰られるとき、あなたにこう言われるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

イエス様の再臨の日まで、私たちが忠実に生き続けることができますように。

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アモス書

あなたは準備ができているでしょうか

時々、人々はこの世を見て、犯罪や暴力、そして天災について考えるとき、神様がすぐに来て、すべてを治してくださることを望みます。けれども、彼らは本当に何のためにそう望んでいるのか理解しているでしょうか。

神様はイスラエル人にこう言われました。

すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は『ああ、ああ』と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。(アモス書5:16ー17)

それはなぜでしょうか。

それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ。(17)

つまり、神様が来られると、すべてを治してくださいますが、犯罪や天災だけを止めるのではありません。神様は人々の心の中にある罪も扱われます。そして、神様はあなたの罪も扱われます。「扱う」とはどういう意味でしょうか。

神様はこう言われました。

ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。

人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。

ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。(18-20)

神様は何を言われているのでしょうか。

人々は神様が来ると、地震や犯罪、暴力、その他の災いが終わると思います。それはその通りです。しかし、あなたの心の中に悪いことがあるなら、神様はあなたも裁かれます。

イスラエル人は「主の日」を待ち望んでいましたが、その真理を理解していませんでした。彼らは自分たちが正しい人々だと思っていましたが、神様の目には全く正しくありませんでした。

彼らは宗教的な祭りを祝ったり、いけにえやさまざまな捧げものを捧げたりしていたため、自分たちの神様との関係は問題ないと思っていました。

けれども、それ以外では、彼らは自分自身のために生きていました。そのため、神様にとっては、彼らの祭りやいけにえ、捧げものには何の意味もありませんでした。

彼らは、神様が来ればすべてが良くなると思っていましたが、事実は、神様が来ると彼らの状態はさらに悪化するということでした。

彼らの問題は、神様が何度もさまざまな災いを通して警告されたにもかかわらず、その警告を無視し続けたことです。したがって、神様が来るのは、イスラエルが望んだ救いのためではなく、彼らの裁きのためなのです。

そのため、神様はこう警告されました。「あなたたちはライオン(この世の災い)から逃れることはできるが、熊(自分の罪のための裁き)に会う。」(19)

つまり、神様が来られたとき、イスラエル人は準備ができていなかったのです。あなたはどうですか。神様に会うための準備はできていますか。

宗教的な行動だけでは不十分です。教会に行ったり、十一献金を捧げたり、日曜日に良い行いをしたりするだけでは足りません。

むしろ、あなたはあなたの人生全体を神様に捧げる必要があります。あなたの心を神様に捧げなくてはなりません。

最も重要なのは、あなたの救いのために自分自身の努力に頼るのではなく、イエス様とその十字架の働きに信頼することです。

そうすれば、「主の日」は喜びの日となるでしょう。しかしそうしなければ、その日は裁きの日となります。

あなたは準備ができていますか。