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テサロニケ人への手紙第一

主が来られる日に備えて

多くの人々は、イエス様がいつ帰って来られるのか疑問に思っています。

パウロの時代、テサロニケの人々も同じようにそのことを尋ねました。 そして今でも、たくさんのクリスチャンたちがその時を気にかけています。

パウロは、基本的にイエス様ご自身のことばを繰り返しています。 つまり、イエス様がいつ帰られるかは、誰にも分からないのです。

だからこそ、私たちはいつでも備えているべきなのです。 そのようにしていれば、突然の出来事に驚かされることはありません。

パウロはこう語っています。

兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。

人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。

ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(テサロニケ人への手紙第一5:1-9)

イエス様が帰って来られる日について、私たちがよく知っているのは、 この世の人々が自己満足し、安心しているということです。 彼らは神様から離れていながらも、自分の人生は順調だと思っているのです。

イエス様によれば、その日、人々は食べたり、結婚したり、商売したり、 植えたり、建てたりしているでしょう。

ノアの時代、洪水が来る前も、人々はそのように過ごしていました。 また、ソドムとゴモラが滅ぼされる前にも、人々はそうしていたのです。

もちろん、それらの行動自体が悪いわけではありません。 けれども、その人々は神様に背を向け、 悪を「善」と呼び、善を「悪」と呼んでいたのです。

あなたのまわりにも、そのような光景が見えるでしょうか。 私は、はっきりと見えます。

神様が彼らを裁かれたように、 イエス様が帰って来られると、神様は全世界を裁かれます。 ノアやロトのような人々だけが救われるのです。

どうして彼らは救われたのでしょうか。 それは、彼らが裁きの日に備えていたからです。

ですから、パウロが語ったように、 罪の暗闇の中で生きるのではなく、 光の子どもとして歩みましょう。たとえ私たちの行いが明るみに出されたとしても、 恥じることのない人生を送りましょう。

信仰という武具を身に着けましょう。 神様が私たちを愛しておられること、 そして私たちの最善を願っておられることを、信じましょう。

愛をも身に着けましょう。 神様への愛、そして周囲の人々への愛を身に着けるのです。 その愛が、私たちの態度と行動を形づくっていくでしょう。

救いの希望をかぶりましょう。 そうすれば、試練に直面しても、私たちは絶望せずに済むのです。 神様があなたを御怒りに定めたのではなく、 救いを受けるように召してくださったことを、喜びましょう。

私たちはいつか、イエス様とともに御国にいることになります。 けれども、その関係を今この時から喜びましょう。 私たちが地上にいる間も、イエス様が望んでおられるのは、 私たちがイエス様との交わりを喜び楽しむことなのです。(10)

そして、もう一つ覚えていてください。 「主の日」――それは将来、イエス様がこの世に戻られる日です。

しかしあなたにとっての「主の日」とは、 イエス様があなたを迎えに来られる、その日なのです。 それは、いつ訪れるか分かりません。

明日、交通事故で命を落とすかもしれません。 心臓発作が起きるかもしれません。 地震に巻き込まれるかもしれません。

神様は、あなたに明日を約束しておられません。 だからこそ、備えていましょう。

あなたはどうでしょうか。 あなたは、今、備えができているでしょうか。