時々私たちは、どうして神様がこの世にこれほど多くの悪を許されるのか疑問に思うことがあります。また、どうして神様が今、悪人たちを裁かれないのか疑問に思うこともあります。
ペテロは偽教師の運命について話す中で、その疑問に答えます。彼は次のように言いました。
彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。(ペテロの手紙第二2:3)
簡単に言うと、神様が悪に対して何もしないように見えたり、私たちが正義が決して行われないと感じたりしても、裁きは必ず来るのです。彼らの裁きが迫っており、彼らの滅びは確実です。
そして、ペテロは三つの例を挙げます。
最初の例は、ある天使たちが罪を犯したときに、神様が彼らを地獄に投げ入れられたことです。
それは案外めずらしい裁きです。多くの人々が考えることとは違い、地獄にいる悪霊はごく少数なのです。
実は、彼ら自身も地獄に行きたくはありません。そこで神様は、とりあえず彼らがこの世にとどまることを許されました。 そのため、今もなお彼らはこの世に多くの問題をもたらしているのです。
しかしどうやら、神様がある悪霊たちを地獄に投げ入れられるほどに、彼らの罪が深刻だったようです。そこで、彼らは最終的な裁きを待っています。(私はユダの手紙について話すとき、この話をもっと詳しく説明します。)
二つ目の例はノアの話です。ノアの時代には、「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾いていました。」(創世記6:5)
箱舟を作っている間に、ノアは、人々に悔い改めるように促しました。けれども、彼らは悔い改めませんでした。
ノアがその箱舟を作っている間、神様は彼らを裁かれませんでした。 ところが、ある日、大洪水が降りかかり、彼らは滅びました。 一方で、ノアとその家族は救われました。
三つ目の例はソドムとゴモラの話です。彼らは本当に罪深い人々で、自分たちの罪に耽っていました。そのため、ロトは二人の見知らぬ人々を見て、彼らの安否を心配しました。つまり、ロトは、彼らが暴行されることを心配していたのです。
残念ながら、ロトの隣人たちはそうしようとしました。それゆえ、神様はソドムとゴモラを裁き、滅ぼされました。けれども、神様はロトを救われました。
ペテロはこれら三つの話をまとめて、次のように言いました。
主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(9)
以前の記事で私は言いましたが、ギリシャ語では「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。そのため、ある英訳では、「敬虔な者たちを試練から救い出し」と書かれています。
とにかく、神様は私たちを試練から救い出されると書かれていますが、私たちが決して試練に直面しないというわけではありません。私たちも苦しい時に直面します。
それでも、神様は私たちと共におられ、私たちを救い出されます。そして最終的に、私たちは神様と共に天国にいるのです。
一方で、神様は悪人たちを裁かれます。その悪い天使たちのように、その者たちは暗闇の縄目につながれ、裁きの日まで閉じ込められています。今なお、彼らは罰を受けています。
地獄と永遠の罰という概念を好む人は誰もいないと思います。私も好きではありません。それでも、それは現実です。
最終的な裁きは、キリストがこの世を千年間統治した後まで起こりません。けれども、その裁きまで、神様から離れて死んだ人たちは罰を受けています。
そして、裁きの日に彼らは火の池に投げ込まれます。(黙示録20:15)
悲しいことですが、サタンのように、彼らは昼も夜も、永遠に苦しみを受けます。(黙示録20:10)
それは切ない話ですが、それは真実です。また、それは正義です。
正義は必ず行われます。それは裁きの希望であり、同時に裁きの恐れでもあります。
イエス様を拒絶する者に対して、裁きは恐ろしいことです。
しかし、イエス様はご自身を信じる者たちに、こう言われます。
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)
あなたは裁きの日について考えると、恐れるのでしょうか。それとも、希望を持っているのでしょうか。
