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民数記のデボーション

烏合の衆の一員?

彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。

「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。

だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6)

「混じって来ていた者」と訳された言葉は、かなり珍しくて、上記の箇所にしか出てきません。

ある英訳では、その言葉は「riffraff」、つまり、「烏合の衆」と訳されました。

もしかしたら、彼らはイスラエル人ではなかったかもしれません。でも、イスラエル人がエジプトから逃げた時、その人たちはイスラエル人と一緒に行きました。

とにかく、はっきりしているのは、彼らはいつも文句を言い、周りの人々に影響を及ぼし、モーセの重荷になっていたということです。

その反面、イスラエルの民の70人は御霊に満たされ、モーセを支えました。モーセはヨシュアに、「イスラエル人の皆が御霊に満たされるといいのに」と言いました。

数世紀後、神様はペンテコステでその願いをかなえられました。(使徒の働き2:14~18)

今日の箇所を読んだとき、私はこう考えました。

「烏合の衆の一員になりたくない。私はいつもぶつぶつ不平を言って、悪い影響を周りの人々に与えたくない。私はリーダーたちの重荷になりたくない。」

むしろ、私は御霊に満たされることを望みます。教会の内でも外でも、周りの人々に触れ、祝福をもたらすために、神様に用いられることを願います。

あなたはどうですか。

神様はあなたに御霊を与えてくださいました。

御霊に満たされ、導かれている人生を送っているでしょうか。

もしくは、烏合の衆の一員のように生きているでしょうか。