「無知であることは幸せだ。」
時々、人々はそのように考えることがありますが、神様によると、その考えは間違っています。
1章と2章では、神様が多くの国々を裁くと警告されました。なぜでしょうか。神様はその理由を語られています。
彼らは正しいことを行なうことを知らない。(アモス書3:10)
けれども、「神様の律法を知らない」というのは言い訳にはなりません。なぜでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で、自分が悪いと分かっていたからです。パウロはこのように説明しています。
律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。
彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。(ローマ書2:14ー15)
しかし、たとえ他の国々が無知を言い訳にできたとしても、イスラエルとユダはそのような言い訳をすることはできませんでした。
神様は彼らを他の国々から選び、彼らに直接ご自身を現されたからです。そのため、彼らには周りの国々よりも大きな責任がありました。
神様は彼らにこう言われました。
わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。(3:2)
つまり、「あなたたちは言い訳をする余地はありません。あなたたちは周りの国々よりも多くを知っているはずです。モーセを通して、私はあなたたちに律法を与えました。何度も預言者を通してあなたたちに警告しました。
それにもかかわらず、裁きの日が来ると警告されていたのに、あなたたちは罪を犯し続けています。(3:7-8)
あなたたちは私の律法を知っているはずです。だからこそ、あなたたちはいけにえをささげたり、十一献金をささげたり、感謝の捧げものをささげたりしました。
けれども、私はこれらの捧げものが不十分であることを何度も警告しました。それでも、あなたたちは私の警告を無視し続けました。(4:4-11)
だから、あなたの神に会う備えをしなさい。あなたは私の前に立ち、あなたの行動について申し開きをしなければならないのです。」(4:12)
私たちはこの警告を通して何を学ぶことができるでしょうか。イエス様はこう言われました。
主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。
すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)
あなたが神様の御心を知っていても、知らなくても、それは言い訳にはなりません。
もし悪いことをすれば、裁きが来ます。あなたが神様の御心を知っているなら、その罰はさらに厳しいでしょう。
けれども、知らないとしても、裁きは免れません。
だからこそ、無知であることは幸せではないのです。私たちは神様の御心を求めなくてはなりません。
しかし、神様の御心を知ることだけでは不十分です。その御心に従わなくてはならないのです。
あなたはどうでしょうか。神様の言葉を知っていますか。もし知らないのなら、ぜひ読んでください。神様はこう言われました。
「わたしを求めて生きよ。偽物の神と偽りを求めるな。」(5:4-5)
「主を求めて生きよ。そうしなければ裁きが来る。」(5:6)
もし、あなたが神様の言葉を知っているなら、その言葉に従いましょう。神様はこう言われました。
善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し「なさい」。(アモス書5:14-15)
イエス様が言われたように、
聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカ8:8)
そして、神のみ言葉に従いましょう。
