聖書に関して、さまざまな奇妙な理論が存在します。
たとえば、ある聖書学者たちは、パウロがテモテへの手紙やテトスへの手紙を書いていないと主張します。むしろ、誰かがパウロの名を無断で使い、それらの手紙を書いたと考えるのです。けれども、彼らの「証拠」は疑わしいものです。
また、ある学者たちは、私たちは新約聖書の原本の内容を知ることができないと主張します。なぜなら、現存するのは原本ではなく、その写本だけだからです。
確かに、私たちは原本そのものを持っていません。けれども、何千にも及ぶ写本を比較することで、私たちは原本の内容を99%以上把握しています。さらに、不明確な箇所があったとしても、それが聖書の根本的な教えに影響を及ぼすことはありません。
他の人々は、聖書には特別な「コード」が隠されていると信じています。そして、彼らによれば、そのコードを解読しなければならないというのです。
私たちは、人と延々と議論することができます。けれども多くの場合、聖書を信じたくない人は聖書を信じませんし、キリスト教を受け入れたくない人はキリスト教を受け入れません。ですから、そういった人々と話すことで、無駄に多くの時間を費やしてしまうことがあります。
もし時間を賢く使いたいのなら、福音に関心のある人と話す方がよいでしょう。
テモテがエペソの教会を導いていたとき、彼も同じような問題に直面しました。もちろん、エペソの人々が私たちとまったく同じ事柄について議論していたわけではありません。けれども、ある者たちは作り話を広め、系図について議論し、さまざまな奇妙なことを教えていました。
彼らが正確に何を教えていたのか、私たちには分かりませんが、現代の教会と同様に、福音を語ることをせず、無益な論争に時間を費やしていたのです。
そのような状況に対して、パウロはテモテにこう命じました。
私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。
そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。
この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み。。。(テモテ人への手紙第一1:3-6)
簡単に言えば、テモテは異なる教えや無益な議論を広める者たちを警告しなければなりませんでした。そして彼らが悔い改めなければ、教会から除く責任が彼にありました。
パウロはすでにヒメナイとアレクサンドロという人物を除名していましたが(1:20)、他の偽教師たちはまだ残っていたのです。
テモテがそのような者たちを教会から排除すべき理由は、そうした議論が妨げとなり、彼が神様の務めを全うできなくなるからです。つまり、そのような議論に意識を奪われると、福音を広めることも、信仰による救いを宣べ伝える時間も失われてしまいます。
では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
第一に、私たちもまた、無益な議論に熱中する者たちや、奇妙な教えを広める者たちに対処しなければならないということです。
私たちは、そういった人々をただ無視すればよいというわけではありません。彼らに対しては、適切に応答すべきです。しかし、もし彼らがそのような議論を手放そうとしないのであれば、私たちは彼らを教会から除く必要があります。
もし自分の牧師が奇妙な教えを語っているならば、あなたは別の教会に行くべきです。
第二に、そのような事柄について議論する人と、深入りして議論しない方がよいということです。なぜなら、自分の時間を無駄にしてしまうからです。
最終的には、それは信仰の問題です。もちろん、私たちの信仰は根拠のないものではありません。むしろ、私たちの信仰は十分な証拠に基づいています。
しかし、ある人々はその証拠に満足せず、どれほど証拠を示されても、決して信じようとはしません。どれだけ議論しても、彼らは信じることを拒み続けるのです。だからこそ、自分の時間を無駄にしない方がよいのです。
むしろ、福音を宣べ伝えることに心を注ぐべきです。福音を聞こうとする人々に焦点を当てるべきです。
私たちの時間は非常に貴いものです。その時間を無駄にしてはなりません。
