聖さ。
多くの人々は、「聖い人」と聞くと、神様の栄光に輝いている人物を思い描きます。
しかし、「聖さ」には二つの側面があります。それは、清い人生を送ることと、神様の奉仕のためにこの世の人々から分けられることです。
クリスチャンとして、私たちはそのような生き方をするべきです。私たちは、周囲の人々にとって、私たちがクリスチャンであることが分からないほどに、この世に溶け込んではなりません。
彼らが私たちを見るとき、私たちの態度や行動が彼らと異なっていることが分かるはずなのです。
ところが、多くのクリスチャンがこの世に溶け込んでしまうのです。
その理由の一つは、「神様のためにほかの人々から分けられた者である」というマインドセットを持っていないからです。むしろ、彼らはこの世の人々から影響を受けてしまっています。
だからこそ、パウロはこう言いました。
不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。(コリント人への手紙第二6:14)
それはどういう意味でしょうか。その描写は申命記から来ています。神様はこう言われました。
牛とろばとを組にして耕してはならない。(申命記22:10)
その律法の前後では、神様は2種類のものを混ぜることを禁じておられます。だから、2種類の種を同じぶどう畑に蒔いてはいけませんでしたし、衣服を作るときも、羊毛と亜麻糸を混ぜてはいけませんでした。
なぜ神様はそのような律法を制定されたのでしょうか。それは、イスラエル人に清さについて教えようとされたからです。この律法を通して、ユダヤ人は、自分が清い者として生きるべきことを学びました。
では、なぜパウロは服や種の描写を用いなかったのでしょうか。おそらく、パウロは清さ以上の応用を見出したのでしょう。
牛とろばが組にされたとき、ろばは牛に大きな影響を与えることができました。牛は前に進もうとしていたかもしれません。しかし、もしろばが頑固で進みたくないと思ったとすれば、牛が進むのは非常に困難になってしまいます。
また、ろばが別の方向へ行きたいと思ったとき、牛には選択肢がありました。牛はろばの導きに従うこともできましたし、あるいは、ろばを強制的に正しい方向へ進ませようとすることもできました。
おそらく、パウロのポイントは、クリスチャンではない人に強く影響を受けるほどに、彼らと深く結びついてはいけないということです。
例えば、クリスチャンの起業家が悪徳商法を行う人物と提携すれば、大変な状況に巻き込まれるかもしれません。
また、私たちがアドバイスを求める際、ノン・クリスチャンの友人から影響を受けることもあります。
もちろん、ノン・クリスチャンの助言が有益な場合もあります。けれども、時にはそのアドバイスが一見良いように聞こえても、聖書の教えに反することがあります。
「彼女と一緒に住めばいいじゃない。彼女を愛しているんでしょう?」
「時には、成功するためにルールを曲げなくてはならないこともある。」
彼らはあなたの最善を願っているかもしれません。それでも、彼らが神様のみ言葉を知らないために、結果としてあなたを罪へと導いてしまう可能性があるのです。
それは避けるべきことです。私たちはノン・クリスチャンに影響を与える存在であるべきであり、彼らから影響を受けるべきではありません。
では、その関係を断つべきでしょうか。もちろん、そうではありません。
しかし、自分の人間関係を振り返るとき、私たちは自分自身にこう問いかける必要があります。
「彼らは私に過度な影響を与えていないだろうか。彼らの影響によって、私は自分の純潔を失いつつあるのではないか。神様のために聖別されているはずなのに、彼らの影響によって、そのように生きていないのではないか。」
もし「はい」と答えるなら、その人との関係において、少し距離を取ることが必要かもしれません。
次の記事で、この話をさらに掘り下げていきます。
