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ヘブル人への手紙

神が立てたリーダーたちに従い、祈る

私は自分の牧師たちを本当に尊敬します。

私は十代の頃から神様のみことばを教えてきました。それでも、私は牧師として神様から召されたことは一度もありません。

もし牧師の責任が単に聖書を教えることであれば、私は牧師になることができたかもしれません。しかし、牧師の責任はそれだけではなく、神様の群れを世話する務めも含まれます。

ときどき、教会のメンバーたちはこのことを忘れてしまいます。けれども、牧師たちは神様の群れだけでなく、自分の家族の世話もしなければなりません。

それは非常に重い責任です。多くの牧師たちはその責任を真剣に果たしています。なぜなら、いつか神様が彼らの責任について問われるからです。神様の群れの世話を委ねられている以上、神様は彼らを厳しく裁かれるのです。

ですから、この著者はこう語っています。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。

ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。(へブル人への手紙13:17) 

牧師の働きそのものが、すでに重い務めです。

しかし、教会のメンバーたちが牧師を常に批判していると、その働きはさらに困難になってしまいます。牧師が失敗したときに、ある人々はすぐに非難し、すべての決断に対して疑いの目を向けるのです。

けれども、著者は私たちにこう語っています。

「そのような態度を取ってはなりません。あなたの指導者に従い、彼らに与えられた権威を認めなさい。」

なぜでしょうか。

それは、神様が彼らにその権威を授けられたからです。そして最終的に、彼らの務めについて責任を問われるのは、あなたではなく、神様ご自身なのです。

神様が彼らを裁かれるのです。

神様の望みは、牧師の働きが喜びに満ちたものであることです。けれども、私たちが常に牧師たちを批判していると、その働きは重荷となってしまいます。

それは牧師に対して悪いだけでなく、私たち自身にも悪影響をもたらします。なぜなら、牧師たちは神様の務めに集中する代わりに、人々の不平を処理しなければならなくなるからです。

その様子を見て、サタンはほくそ笑むでしょう。

だから、そのようなことをしてはいけません。

では、牧師を批判すべき時がまったくないのでしょうか。もちろん、そうではありません。

もし牧師が誤った教えを語っているなら、私たちはその牧師と話し合うべきです。

また、牧師が罪に陥り、悔い改めようとしないならば、私たちはその牧師を訓戒しなければなりません。パウロは、そのような状況について第一テモテ5章で具体的な指示を与えています。

しかし、それが教会の方向性や運営の仕方についての意見の違いであるならば、あなたは自分の指導者に従うべきです。彼らには、あなたには見えないものが見えているのかもしれません。

では、牧師が失敗したとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。(それは避けられないことかもしれません。)

牧師を非難するのではなく、励まし、牧師のために祈りましょう。

この手紙の著者は、次のように語っています。

私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。(18)

多くの牧師たちは、同じ思いを抱いていることでしょう。彼らは正しい良心に基づいて、誠実に歩もうとしています。それでも、時には失敗することがあります。

だからこそ、私たちは牧師のために祈るべきなのです。

あなたは、自分の牧師に対してどのような態度を持っているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

牧師の評価基準とは

牧師や教会の長老たちに対する評価の基準は、非常に高く定められています。なぜなら、彼らは教会の人々の前にあってキリストを代表し、さらにこの世においてもキリストを代表しているからです。

あなたは、牧師がその基準に達しない姿を目の当たりにしたことがあるかもしれません。そのとき、教会はスキャンダルによって揺さぶられ、信徒たちは傷つき、教会の評判は世間で著しく損なわれてしまいます。

だからこそ、二人または三人の証人がいる場合には、パウロはテモテに対して、牧師や長老たちに対する訴えを無視してはならないと教えました。むしろ、その人物を教会全体の前で責めなければならないと語ったのです。

なぜ、そのようにすべきなのでしょうか。

第一の理由は、長老たちと一般の信徒たちとの間で、二重基準を設けてはならないということです。

第二の理由は、地位にかかわらず、教会が罪を真剣に受け止め、どんな罪も必ず正しく取り扱う共同体であることを、すべての人に明らかにするという目的があります。

第三の理由は、同じ罪へと誘惑されている人々への警告と戒めとなるためです。

もちろん、私たちはこのような問題に正しく向き合わなければなりません。しかし、それ以上に重要なのは、そうした問題が起こる前に防ぐことです。

だから、リーダーを選ぶときには、その人物が高潔であるかどうかを慎重に見極めなければなりません。そうすれば、イエス様の御名も、教会の評判も、傷つけられることはないでしょう。

そのような背景を踏まえて、パウロはテモテにこう命じたのです。

だれにも性急に按手をしてはいけません。また、ほかの人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。(テモテへの手紙第一5:22)

パウロやテモテが牧師や長老を選ぶときには、その人に按手をし、ともに祈り、奉仕のために神様に捧げていました。

つまり、パウロが語っているのは、私たちは牧師や長老を性急に任命すべきではないということです。なぜなら、十分に慎重な選考を怠れば、その人が罪を犯したときに、選んだ側も責任を問われることになるからです。

だからこそ、リーダーを選ぶ前には、その人物の歩みをよく見極めるべきなのです。これについて、パウロは次のように語りました。

ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。

同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません。(24-25)

要するに、ある人の罪は初めから明らかで、その人がリーダーとしてふさわしくないことがすぐに分かることがあります。けれども、別の人の罪はすぐには表に出ず、時間をかけて接するうちに明らかになっていきます。

その一方で、一目見た印象では、ある人がリーダーにふさわしくないと思えるかもしれません。けれども、その人と時間を過ごすことで、実際にはふさわしい人物であることが分かる場合もあるのです。

だから、牧師や長老を任命する前に、その候補者の生き方をよく観察する必要があります。そうしなければ、後々大きな問題が起こるかもしれません。

確かに、パウロはここで牧師や長老たちのことを語っていますが、この原則はあらゆる教会リーダーに適用できると思います。

スモールグループのリーダーや日曜学校の教師を選ぶときも、その人物の人生をよく見極めるべきです。なぜなら、教会を代表するリーダーや教師は、高い基準に照らして評価されるべきだからです。

ですから、私たちは人を任命するとき、慎重でなければなりません。

そして、もしあなたが教会のリーダーや教師なら、自分の生活の中でイエス様を正しく代表しているかを省みるべきです。

あなたは、そうできているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

私たちの牧師たちを支え、敬う

牧師たちは決して完全な存在ではありません。しかし、彼らは毎週、教会の皆さんの前に立って神様のことばを教える責任を担っているため、しばしば人々の批判にさらされることがあります。

そして、私たちはそのような状況の中で、神様の命令を軽んじてしまい、牧師たちを敬い、支えることを怠るのです。

けれども、神様は明確に命じておられます。私たちは、牧師たちを敬い、支えるべきなのです。

そのことについて、パウロはこう記しています。

よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。

聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。(テモテへの手紙第一5:17-18)

この箇所でパウロは、私たちが牧師たちや教会の長老たちをどのように受けとめるべきかを教えています。

私たちは彼らをただ尊敬するだけではなく、彼らが二倍の尊敬に値する存在だと認めるべきなのです。つまり、私たちは牧師たちを敬い、そして支えなければなりません。

では、私たちはどのようにして牧師たちを支えることができるのでしょうか。第一に、私たちの祈りをもって彼らを支えるべきです。けれども、それだけでは不十分です。私たちは彼らを励まし、さらに経済的にも支えるべきです。

多くの人は「什一献金は新約聖書の命令ではない」と考えています。実を言えば、私もそのように理解しています。けれども、そこで思考を止めてしまう人が多くいます。「だから私は、教会を経済的に支える責任がない」と結論づけてしまうのです。

しかし、パウロはその考え方を否定します。彼は明確に語っています。教会のメンバーには、自分の牧師を経済的に支える責任があるのです。

少し考えてみてください。もし牧師が自分の家族を支えるためにアルバイトをしなければならないとすれば、説教の準備に使える時間が減るでしょう。人々の相談に乗る時間も減るでしょう。牧師としての役割すべてに割ける時間が削られてしまうのです。

ところが、教会のメンバーたちが牧師について抱く不満の一つは、「牧師が自分の役割を果たしていない」ということです。

けれども、もしあなたがそのような不満を口にしているなら、私から尋ねたいのです。あなたは、牧師を経済的にきちんと支えているでしょうか。あなたの教会の他のメンバーたちは、どうでしょうか。しっかりと牧師を支えているでしょうか。

それだけではなく、ほかの方法で牧師を支えているでしょうか。あなたは牧師のために祈っているでしょうか。(ここで言うのは、ぼやきながらする祈りのことではありません。)

また、あなたは積極的に牧師を励ましているでしょうか。

牧師が教会のあらゆる奉仕を一人で担う必要がないように、あなたは自分の役割をきちんと果たしているでしょうか。

もしかすると、あなたは毎週日曜日、自分の席に座りながら、誰かが自分に仕えてくれるのを待っているだけかもしれません。

けれども、教会はキリストのからだであり、それぞれの人が与えられた役割を担っています。あなたは、その役割を忠実に果たしているでしょうか。

ここで私の意図を誤解しないでください。牧師に対して注意を与えることが必要な場面もあります。パウロもこの手紙の中でそのことに言及しています。正しい批判もあれば、誤った批判もあるのです。

しかし、もしあなたが自分に与えられた奉仕の責任を果たしていないなら、牧師を批判するべきではありません。

ですから、牧師を批判する前に、まず自分自身を顧みましょう。

あなたは牧師を支え、敬っているでしょうか。あなたは自分の役割を果たし、牧師にかかる奉仕の重圧を和らげているでしょうか。それとも、教会の席に座ったまま、ただ牧師を批判しているだけなのでしょうか。

あなたの心の向きは、今どこを向いているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

神の群れを導く

この箇所全体を読むとき、パウロのことばが私の心に深く響いてきます。テモテに語りかけるパウロのことばには、確かな力と緊張感があります。

そのことばによって、テモテは神様の召しに従い、教会のリーダーとして立ち上がるように励まされ、挑戦されたのです。そして現代の牧師たちも、このことばをしっかりと心に留めていなければなりません。

では、パウロは何を語ったのでしょうか。

まずパウロは、神様の御言葉をクリスチャンたちに忠実に教えるよう、テモテに命じました。この世では、神様の教えがねじ曲げられ、多くの人々が善を「悪」と呼び、悪を「善」と呼んでいます。

けれども、パウロは妥協せず、神様の御言葉をはっきりと教えました。だから彼は、テモテにこう語ったのです。

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。(テモテへの手紙第一4:6)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは、忠実で立派な奉仕者になりたいと願っているのですか。それなら、神様があなたにゆだねられた神の群れに対して、神様の真理を正しく、余すところなく伝えなさい。」

パウロはこの命令を、さらに力強く語っています。

あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。(11)

テモテが人々に教えるべきであったのは、敬虔な歩みをすることでした。そしてまた、私たちの救い主である神にある希望を示すことでもありました。

けれども、教えるときには、テモテは自分の知恵によってではなく、神様の知恵を土台として語らなければなりませんでした。

そのためにパウロは、彼にこう語ったのです。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。(13)

多くの牧師たちは、良いことや聖書的な内容を教えていますが、 そのメッセージの中心が、聖書そのものではなく、自分たちの思いや経験に傾いてしまうことがよくあります。

しかしパウロは、テモテにこう命じました。「聖書の朗読と、勧めと、教えに専念しなさい。聖書から出発し、神様が語られたことを忠実に伝えなさい。自分の意見ばかりを語ることがあってはなりません。」

さらにテモテは、そのことを人々に教えるだけではなく、自らも神様のことばに従って歩まなければなりませんでした。だからこそパウロは、彼にこう語ったのです。

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。(12)

テモテは、教会の多くの人々よりも若かったようです。しかしパウロは、テモテにこう語りました。「あなたは若いかもしれないが、クリスチャンたちのために良い模範となりなさい。あなたの生き方、愛し方、信仰、純潔において、模範となるのです。」

もしかすると、ある偽教師たちはテモテを威圧し、黙らせようとしたのかもしれません。けれどもパウロは、彼に思い出させました。「神様はあなたに賜物を与えてくださいました。その賜物を軽んじてはなりません。」(14節)

そしてその後、パウロはさらにこう語ったのです。

これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。(15)

言い換えれば、こういうことです。

「あなたは勤勉に神様のことばを教えなさい。そして、敬虔な歩みを全力で追い求めなさい。 そうすれば、人々はあなたがイエス様の恵みと知識において日々成長している姿を見て、あなたの模範に従うようになるでしょう。」

最後に、パウロは自らの指示を、このように結びました。

自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。(16)

もう一度パウロは、テモテに注意を促しています。誘惑に気をつけ、聖書を正しく教えることが求められていたのです。なぜでしょうか。それは、牧師として、リーダーとして、彼が担っている責任が非常に大きいからです。

もしテモテが、パウロからの教えに忠実に従うなら、自分自身だけでなく、神様の群れまでも救うことになるでしょう。しかしもし、それを怠るなら、その群れはテモテとともに滅び、神様は彼の責任を問われるのです。

牧師の務めは、軽んじられるべきものではありません。神様によって召された者だけが、その働きに立つべきなのです。もしあなたが、神様から牧師として召されているのであれば、あなたはパウロのことばを心に刻んでいなければなりません。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(第一コリント4:2)

あなたはどうでしょうか。あなたは、忠実な者として歩んでいますか。

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ガラテヤ人への手紙

私たちを支えてくれる人を支える

牧師の働きは非常に大変です。もし神様からの召しがなければ、私も牧師になろうとは思わないでしょう。

牧師は、日曜日のメッセージを準備するだけでなく、教会のメンバーの問題にも対応しなければなりません。その責任を担うとき、彼らはメンバーの不平にも耳を傾けなければなりません。

すべてのメンバーが教会や牧師に満足する教会は、おそらくどこにもないでしょう。

私たちの牧師たちも、自分自身の負担を抱えています。もちろん、イエス様は彼らに教会を導く使命を与えられました。

けれども、それだけではなく、彼らには家族を支える責任もあります。そのため、人の不平や批判を聞くと、その負担が急に重くなり、時には耐えきれなくなることもあるでしょう。

パウロは、この現実をよく理解していたと思います。だから、彼は「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」と言った後、こう語りました。

みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。(ガラテヤ人への手紙6:6)

要するに、牧師は私たちに霊的な栄養を与え、霊的に支えてくれます。けれども、彼ら自身も支えられる必要があります。だからこそ、私たちはできる限り彼らを支えるべきです。

もちろん、彼らが家族を十分に支えることができるように、私たちは牧師を経済的に支える必要があります。そうすれば、彼らは神様から委ねられた働きに専念できるでしょう。しかし、それだけではなく、彼らには私たちの祈りと励ましの言葉が必要です。

私たちは牧師を「超クリスチャン」と見なしてしまいがちです。そのため、彼らもただの人間であり、私たちの支えを必要としていることを忘れてしまいます。私も時に忘れてしまうことがあります。

だから、意図的に彼らを支えましょう。彼らのために祈っていることを伝えましょう。メールや電話で励ましの言葉を届けましょう。言い換えると、牧師にとっての祝福となりましょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは牧師にとって祝福となっていますか。

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使徒の働き

牧師たちやリーダーたちができないこと

最初の教会は、成長の過程で多くの困難に直面しました。この箇所では、その一例を見ることができます。

教会の重要な役割の一つは、貧しいメンバーのニーズに応えることでした。けれども、教会が次第に大きくなるにつれて、その働きの責任も大幅に増えていきました。

初めのころ、使徒たちは寄付を集め、食糧を配給していました。そのため、バルナバとアナニアは自分の畑を売り、その代金を使徒たちに渡しました。

しかし、クリスチャンの数が急増し、使徒たちはこの働きを適切に管理できなくなっていきました。

さらに、ヘブル語を話すユダヤ人のやもめたちは食糧を受け取れていましたが、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちは十分な配給を受けていませんでした。

なぜでしょうか。使徒たちが意図的にギリシア語を話すやもめを差別したとは考えにくいですが、おそらく彼らは忙しすぎて、その働きを十分に行うことができなかったのでしょう。

では、彼らが取った解決策とは何だったのでしょうか。

私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。

その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専門します。(使徒の働き6:2-4)

彼らがそのように行動したことで、神様の言葉はさらに広まり、教会は急速に成長し続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。一つの重要な教訓があります。

牧師やリーダーだけでは、教会のすべての役割を果たすことはできません。

多くの場合、私たちはミニストリーの働きをすべて専門の人々に任せてしまいます。けれども、私たちは皆キリストの体です。私たち一人ひとりが自分の役割を果たすべきです。

その役割を果たすために、私たちは聖霊に満たされなくてはなりません。

教会の働きが十分に機能していないと、多くの人が不満を抱き、リーダーを批判することがあります。しかし、私たちが日々聖霊に満たされ、自分の役割を忠実に果たすなら、リーダーの負担を軽減することができます。

その結果、彼らは神様から与えられた使命に集中し、より良くその働きを進めることができるのです。

私たち自身は、自分に与えられた役割を果たしているでしょうか。

もう一つ大切なポイントがあります。牧師たちは自分自身に問いかけるべきです。「神様は、私に何を求めておられるのだろうか?」と。

そして、その使命を果たすために、どの役割を手放さなくてはならないかを考えなくてはなりません。

さらに、彼らは聖霊に満たされた人々を育てる必要があります。そうすれば、そのメンバーたちは、牧師やリーダーが果たしきれない役割を担うことができるのです。

牧師やリーダーだけでは、すべてのミニストリーの役割を担うことはできません。

私たち一人ひとりが(牧師であれ、一番新しいクリスチャンであれ)そのことを学ぶなら、神様の教会は成長していきます。ところが、それを学ばなければ、神の国の広がりは止まってしまいます。

あなたはどうでしょうか。自分に与えられた役割を果たしていますか。