私は自分の牧師たちを本当に尊敬します。
私は十代の頃から神様のみことばを教えてきました。それでも、私は牧師として神様から召されたことは一度もありません。
もし牧師の責任が単に聖書を教えることであれば、私は牧師になることができたかもしれません。しかし、牧師の責任はそれだけではなく、神様の群れを世話する務めも含まれます。
ときどき、教会のメンバーたちはこのことを忘れてしまいます。けれども、牧師たちは神様の群れだけでなく、自分の家族の世話もしなければなりません。
それは非常に重い責任です。多くの牧師たちはその責任を真剣に果たしています。なぜなら、いつか神様が彼らの責任について問われるからです。神様の群れの世話を委ねられている以上、神様は彼らを厳しく裁かれるのです。
ですから、この著者はこう語っています。
あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。
ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。(へブル人への手紙13:17)
牧師の働きそのものが、すでに重い務めです。
しかし、教会のメンバーたちが牧師を常に批判していると、その働きはさらに困難になってしまいます。牧師が失敗したときに、ある人々はすぐに非難し、すべての決断に対して疑いの目を向けるのです。
けれども、著者は私たちにこう語っています。
「そのような態度を取ってはなりません。あなたの指導者に従い、彼らに与えられた権威を認めなさい。」
なぜでしょうか。
それは、神様が彼らにその権威を授けられたからです。そして最終的に、彼らの務めについて責任を問われるのは、あなたではなく、神様ご自身なのです。
神様が彼らを裁かれるのです。
神様の望みは、牧師の働きが喜びに満ちたものであることです。けれども、私たちが常に牧師たちを批判していると、その働きは重荷となってしまいます。
それは牧師に対して悪いだけでなく、私たち自身にも悪影響をもたらします。なぜなら、牧師たちは神様の務めに集中する代わりに、人々の不平を処理しなければならなくなるからです。
その様子を見て、サタンはほくそ笑むでしょう。
だから、そのようなことをしてはいけません。
では、牧師を批判すべき時がまったくないのでしょうか。もちろん、そうではありません。
もし牧師が誤った教えを語っているなら、私たちはその牧師と話し合うべきです。
また、牧師が罪に陥り、悔い改めようとしないならば、私たちはその牧師を訓戒しなければなりません。パウロは、そのような状況について第一テモテ5章で具体的な指示を与えています。
しかし、それが教会の方向性や運営の仕方についての意見の違いであるならば、あなたは自分の指導者に従うべきです。彼らには、あなたには見えないものが見えているのかもしれません。
では、牧師が失敗したとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。(それは避けられないことかもしれません。)
牧師を非難するのではなく、励まし、牧師のために祈りましょう。
この手紙の著者は、次のように語っています。
私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。(18)
多くの牧師たちは、同じ思いを抱いていることでしょう。彼らは正しい良心に基づいて、誠実に歩もうとしています。それでも、時には失敗することがあります。
だからこそ、私たちは牧師のために祈るべきなのです。
あなたは、自分の牧師に対してどのような態度を持っているでしょうか。
