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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様に仕えるために

イエス様がエルサレムに目立つ形で入城されたこと、また神殿から業者や両替人を追い出されたことによって、エルサレム中でイエス様は話題となりました。そのため、初めてエルサレムを訪れた人々がイエス様に会いたいと願うのは、自然なことでした。

この話では、ユダヤ教に改宗しようとしていたギリシャ人たちが、イエス様に会いたいと願いました。おそらく、ピリポがギリシャ語の名前だったため、彼らは最初にピリポのもとを訪ねたのでしょう。

そこで、ピリポはアンデレとともに、彼らをイエス様のもとへ連れて行きました。(アンデレは、人々をイエス様に紹介することが多かった人物です。)

イエス様は彼らに会ったとき、次のように語られました。

人の子が栄光を受けるときが来ました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12:23-24)

イエス様はご自身の死と復活について語られていました。イエス様がこの世におられる限り、その働きはイスラエルに限定されていました。けれども、イエス様が死んで復活された後、聖霊を通してその働きは世界中に広がり、すべての国と民族に及びました。

そして、イエス様はさらに続けて語られました。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。

わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(25-26)

イエス様は、ごく当たり前のことを語ると同時に、非常に逆説的なことも言われました。

では、その当たり前のこととは何でしょうか。イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様についていかなければなりません。また、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様がおられる場所にいなければなりません。

もしあなたが常にイエス様から離れているなら、イエス様に仕えることは困難です。だから、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様の近くにいて、イエス様が望まれることを見極めなければなりません。

けれども、イエス様と共に歩みたいと願うなら、ときには愛する者や、執着しているものを手放さなければならないこともあります。だからこそ、イエス様は逆説的なことを言われました。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至る。」

もちろん、私たちはすべてを憎むべきだというわけではありません。しかし、ときにはイエス様に従うために、私たちは愛する者や、この世のものを手放さなければならないことがあります。

たとえば、イエス様が「あなたの国を離れ、別の場所へ行きなさい」と言われるなら、私たちはその御声に従わなければなりません。

また、イエス様が「あなたの現在の収入は高いかもしれないが、その仕事を捨て、私に仕えなさい」と言われるなら、イエス様の国のために、私たちはその道を選ばなければなりません。

ときには、イエス様についていくことで、私たちの人生は大きく変わります。ときには犠牲を払うこともあるでしょう。けれども、もし私たちがイエス様のもとにいなければ、真に仕えることはできません。

忘れないでください。その犠牲と変化は痛みを伴うかもしれません。しかし、最終的には、その犠牲には大きな価値があります。

私は日本に引っ越したとき、そのことを学びました。もともとハワイを離れる予定はまったくありませんでした。けれども、実際に日本へ来ると、私は以前よりも幸せになりました。イエス様についていき、日本に来たことで、私は新たな命を見出しました。

イエス様についていくなら、あなたも命を見つけることでしょう。

あなたはどうでしょうか。イエス様がおられる場所に、あなたもいるでしょうか。